---えどめぇるまがじん・harada_2--- 

米と日本人の生活 連載2

「米と日本人の生活」(東京・赤坂の株式会社虎屋文庫主催)をテーマにした、『江
戸料理百選』の寄稿者でもある原田 信男先生の講演会が開催されました。江戸料理
とは切っても切れない関係の「米」がテーマだけに、本誌読者のためにその内容をダ イジェスト・リポートします。

第2回目は東アジア地域に稲作文化が根付いたこと、日本独自の「食文化」が形成さ
れつつあった時代の、東アジアと稲作との「違い」を通して当時の日本人と米の結び
つきと、その文化の発展について追っていきたいと思います。

前回までの講演内容は、コチラへ。→
http://www.asahi-net.or.jp/~UK5T-SHR/harada_1.html

会場写真_6
会場写真

●「タンパク質を摂取する」ということ。

日本では稲作を行っているにもかかわらず、東アジアの食文化とは、少し異なったカ タチで食文化が形成されました。「豚」が存在しないのです。日本人は、主に米、 魚、野菜を中心の食文化を培ってきたのです。このことは、後の時代の日本文化にも 大きく関わってきます。

●日本の稲作はいつ頃から始まったのか?

稲作が行われたというは弥生時代からというのが、昔の定説だったのですが、それは 誤りです。現在の研究では縄文末期には北九州地方では水田が確認されている遺跡が 出土しており、稲作が行われた説が有力になっています。さらに縄文中期には米粒の 遺跡も発見されています。これについては、たまたま中国などから伝来した米粒が出 土したのではないかとも解釈されたのですが、葉がついた稲が出土することから、日 本国内で栽培されていたのではと考えられるようになりました。

縄文時代末期になると水田跡が確認されていますが、中期に関しては水田の存在は不 明です。おそらく畑で栽培されていただろうというのが定説です。しかし弥生時代が 稲作の本格化した時代である、という解釈には間違いはありません。

●「稲作文化」は何処から来たのか?

さて、水田で米を作る文化、稲作文化は、いつ、どのような経路で日本に伝播したの でしょうか?最近の見解では、朝鮮半島経由して、北九州に上陸したというのが一般 的な説とされています。

この「稲作文化」は、民俗学者が古くから注目するところがありまして、特に柳田 国男先生の「海上の道」という著書に、ひとつの仮説があります。彼は、宮古島→沖 縄→本土伝播説を唱えていたのですが、これは私の考えとしては明らかに間違いで す。

まず宮古島には水田ができません。珊瑚礁の島なので水がない。水田には不向きなん です。柳田さんは宮古島には行ってませんし、推論なので、おそらく間違ったのでし ょう。実際、考古学の発掘を行っても、南九州以南には新しい水田しか発見されませ ん。柳田説は全く逆になってしまい、この説は成り立ちません。

しかし、この柳田 国男先生の説は、現在、別な意味での見直しが加えられていま す。水田による伝播ではなく、縄文中期の畑作による稲作栽培の伝播状況を考えた場 合、この仮説は考えられるのではないかというのが、現在の新しい稲作の伝播の学説 なのです。

●米が日本文化を変えた?

さて、米が日本に入ってきて、どれだけ米が日本の社会を変えたか?それについて考 えてみたいと思います。我々は一概に「縄文時代」と「弥生時代」を並べてしまいま すが、このふたつの時代は、まず時間の長さが全然違います。「縄文時代」は最近で は1万年前から1万5〜6000年前ではないかといわれているのですが、「弥生時代」は 500年も続かない。約400年位です。縄文時代に比べると、非常に短い時代です。

米の繁殖性、保存性、人口支持力に影響される・・・ということは先程申しましたが、 長期保存に長け貯蔵ができる食物が登場すると、果たして何が起こるのでしょうか? ムラ単位での食料の保存が始まり、それなりの食生活が安定します。しかし、災害や 気象状況で飢饉になったりすると、食料の乏しいムラが他のムラを襲い、食料を略奪 する。つまり「戦争」が始まるのです。

「縄文時代」の人骨には武器による殺傷は存在しません。逆に「弥生時代」には、武 器によって殺傷された人骨が出土するのです。「戦争」の起こった証拠です。

●「戦争状況」が変えた日本

当初は生存ぎりぎりのところで始まった戦争ですが、他のムラからの侵略という状況 が恒常化してきますと、自ずとその文化や生活も異なってきます。「弥生時代」のム ラは、堀を掘ったり柵を作ったりという対戦争状況を想定して装備されたムラに変貌 していきます。また他にも証明材料はあります。

中国の文献「魏志倭人伝」などには、その辺の事情が詳しく記載されています。「倭 国大いに乱れる」などと記されている通り、ムラとムラ、あるいはクニとクニとが争 っているのです。小さな群落の小競り合い、そして、その繰り返しによって生まれた のが「国」です。その帰結ともいえる大国が邪馬台国です。

稲作をし、米を作るためには、水田を作り、それを維持し続けなくてはいけません。 戦争をしながら水cを維持するのは、かなり困難なことではあります。必要な時に水 田に水を入れ、水を抜く仕組もが必要になってきます。しかし、国家として人員を動 員することで大規模な労働力を投入でき、大規模な水田の開発が行われてくるので す。

それと同時に王的な存在なり巫女的な存在が派生していき、集団を統治する立場が発 生する。それが古墳時代。つまり弥生時代から古墳時代・・・その短い時代の間に、米 がキッカケとして、それまでムラ単位の規模だった集団が、国家の形成にまで進歩し ていくのです。

●渡来人のもたらしたもの、そして、さらなる「国」の発展

渡来人の流入によりもたらされた文化や技術が日本に入ってきます。そして渡来人達 から牛と馬が提供されたことにより、稲作技術、水田を運用していく技術は飛躍的な 進歩を遂げます。古い研究によりますと馬は縄文時代から日本にいたという説があり ますが、それは明らかに間違いです。発掘の方法を間違っているのです。 さらなる労働力の発達は、水田の面積を拡張させ、米の生産量の飛躍的増加をもたら します。この食文化の発展によってもたらされ文化的な進歩は、やがて大和朝廷へと 収斂していくことになります。

縄文時代、弥生時代、古墳時代を経て大和朝廷へと収斂していった日本古代史。しか し、その体制は食文化にひとつのタブーを作り、その「禁忌」を守り続けるようにな っていきます。

次回はそのタブーについて迫ります・・・。

●プロフィール

 原田氏写真
  (原田氏写真)

栃木県宇都宮市に生まれる。明治大学院文学部卒業後、大学院博士課程修了。
国立民族学博物館・国立歴史民俗博物館・国際日本文化研究センターの共同研究員な
どを務め、京都市、埼玉県鷲宮町・三郷市、茨城県千代川村・境町の自治体史編纂お
よび角川日本地名大辞典の編纂に参加。明治大学・札幌学院大学・東京水産大学の非
常勤講師を兼任。
現在は、札幌女子大学短期大学部教授として教鞭を執る。専門は日本中世近世村落史
・生活文化史、食文化についても研究。

地方史研究者協議会・日本史研究会・歴史学研究会・史学会・駿台史学会・群馬歴史
民俗研究会・江戸遺跡研究会・多摩郷土史研究会・栃木県歴史文化研究会・道具学会
・日本民俗学会に所属。

著書
『江戸の料理史』中公新書 サントリー学芸賞受賞
『歴史の中の米と肉』平凡社選書 小泉八雲賞受賞
『木の実とハンバーガー』NHK出版
『小シーボルト蝦夷見聞記』(共著)平凡社東洋文庫
『中世村落の景観と生活』思文閣史学叢書
『江戸料理百選』(共著) 2001年社他

WWW-Site
「原田信男(Harada Nobuo)の新ホームページ」
 http://www32.ocn.ne.jp/~harada_nobuo/


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