タイトルのない夏
Trinity
両谷承

四へ戻る。六へ進む。



 環状八号線をずっと南下していって、甲州街道で左折する。道は混んでいるが、八月最初の日曜日としてはましなほうだ。

 頭上にある午後二時の太陽、アスファルトの照り返し、股間で唸っている空冷Vツインの熱気。ヘルメットの中で、シンジの額を汗が流れ落ちる。夏の暑さに弱い方ではないのだけれど、やはり辛い。

 タンデム・シートのミキはさっきから黙っている。シシーバーに背をもたせかけたミキは軽くて、シンジの腰に軽く当てて身体を支えている左手がなければその存在をまるごと忘れてしまいそうだ。

 赤信号につかまる。シンジは前を向いたままミキに話し掛ける。

「大丈夫か」

「え? ――ああ、全然平気だよ」ミキの声は冷たく澄んでいて、どこか乾いて響く。「風が気持ちいい」

 シンジにとって気持ちいい風には、二十五マイルほど速度が足りない。だからといってロードスターの車体を振り回して車の間をすりぬける気分にはなれなかった。

「暑くないか」

「わたし、暑いの好きだもん。八月生まれの獅子座だから」

 信号が変わる。シンジは返事をする代わりにアクセルをひねった。排気音が、会話の続きをキャンセルする。


 環状七号線から国道十五号、通称第一京浜へ。シンジは思い付きに任せて道を選び、ハーレイを走らせる。

 海へ向かおう、と云いだしたのはミキだった。静岡なんて云う海の近い土地で暮らしているのにどうしてそんなことを言い出すのかシンジにはわからなかったが、別段改めて訊ねもしなかった。それよりも、シンジには自分がハーレイのタンデム・シートにミキを乗せる気になったことの方が不思議だった。

 シンジが運転するようになってから、このハーレイのタンデム・シートに乗った奴はいない。キョウも、カズも、ユカリさんも乗せたことはなかった。まあ、誰も乗せてくれとはいわなかっただけなのかもしれないのだが。

 フル・カウルで武装したスズキの七五〇が右側からシンジたちを抜き去ってゆく。いつものシンジならかなわないのを承知で追いすがってゆくのだが、今日は七五〇が視界から消えるのにまかせた。

 シシーバーを握っていたはずのミキの右手が不意にシンジの腰に回された。ミキが身体を寄せてくる。

 晴海通りで銀座を通り過ぎて昭和通り、日本橋の交差点で曲がって永代通りへ。口の中がからからのシンジは何を云う気にもなれないし、ミキも話し掛けてこない。ハーレイのエグゾースト・ノートだけがやけにはっきりとシンジの耳に届く。


 シンジはロードスターをフェリー埠頭に向かわせる。頭の中にあるのは、喉の渇きだけだ。フェリー埠頭ならチケットの販売や船の待ち合わせのための建物がある。飲み物の自動販売機もあるに違いないし、海だって目の前だ。

 風に、湿っぽい海の匂いが混じり始める。車が少しづつ減ってゆき、道が人工的な滑らかさを帯びる。

 辰巳から東雲へ。でかいトラック、デート中らしいコンヴァーティブル、威勢のいい二ストロークのバイク。それぞれのエンジン音と、排気ガスの匂い。股間のVツイン。

 シンジのロードスターにとっては、初めて走る道だ。どことなく機嫌がいいようで、四十マイルしか出していないのにエンジンは気分よく回りつづける。タンデム・シートのミキのせいかもしれない、とちょっと思って、すぐにシンジはその考えを打ち消した。そんなふうにいろんな事を結びつけてしまうのはつまらない。

 ミキの両腕はシンジの身体に回されたままだ。高速に沿った湾岸道路、ハーレイ・ダヴィッドソンときれいな女の子。何だか決まりすぎてて、笑ってしまいそうな取り合わせだ。

 有明を抜けて左に曲がる。道が細くなる。道路の案内板は目的地が近いことを告げている。シンジの喉の渇きは限界に近い。

 埠頭の手前のアスファルトには、ゼロヨン・グランプリの開催を防ぐためにギャップが設けてある。ホワイト・ブロス製のサスペンションでも、ショックは吸収しきれない。ミキが小さく叫び声をあげた。

 一番奥にある発着場の前に、シンジはハーレイを停めた。空気が、少しだけ塩辛い。二階建の古ぼけたビルを前に、シンジはヘルメットを脱ぐ。

 顔を上げると、ユカリさんのフルフェイス・ヘルメットを苦労して脱いでいるミキの姿が目に入った。ヘルメットのなかに溜まった汗を振り払うように、ミキは首を振る。――ミキの顔を見るのは、一時間半ぶりだ。

「ふう」

 点を仰いで息を吐くと、ミキはシンジに笑いかけた。シンジの長髪は汗まみれなのに、ミキの肌はまるで清潔に乾いているように見える。

「あんた、体温低い?」

「え」シンジの妙な質問に、一瞬戸惑ったような表情をする。「うん。平熱は普通のひとより少し低いみたいだけど。それが、どうかした?」

「――そう、見えただけだよ。なんでもない」

 ビルに向かって、シンジは歩きだした。ミキの薄い肌がまるで水道の水みたいにひんやりしてるような気がした、なんてことは云えない。

 ミキはすぐ後ろをついて来る。


 チケット売場にはオフロード用のライディング・ウェアを着た一団が並んでいる。横目で見ながら、シンジとミキは階段を上る。二階は出航する人とそれを見送る人のためのロビーになっている。シンジはコカ・コーラ、ミキはミルクティーの缶を買って、ベンチのひとつに座った。このビルそのものよりはるかに大きいフェリーが、窓から見える。

「シンジくん。もう、はたちになった?」

「まだ。来月」

「じゃ、あたしの方が上なんだ」

 ミキがなんだか嬉しそうに云う。シンジは三五〇ミリリットル缶をひといきで半分にした。どんな事を、喋ればいいのだろう?

「バイクの後ろに乗るのははじめてかい」

「そんなことないよ。あたしの――」ミキは二秒ほど、言葉を探す。「前の彼氏に、何度か乗せてもらった。ハーレイ君とは、全然違うけどね」

「楽しかったか」

「うん。なんだかさ、おっきな馬に乗っかってる感じ。――馬に乗ったことなんか、ないけどね」

「おいぼれた、よれよれの馬だけどね」

「そうかな。でも、ハーレイってほんとに動物みたいだよね」

 そこら辺りが、困りものなのだが。

「え?」

 ミキがびっくりしたようにシンジの顔を覗き込む。どうやら、思った事がそのまま口から出てしまったらしい。

「――いや、なんでもない」

「そう、じゃいいや。ねえ、船、見にいこうよ」

 ミキは立ち上がって、バルコニーに向かって歩きはじめた。コーラをまた一口飲んで、シンジはミキを追う。

 バルコニーに出ると、身体が塩っからい空気に再び包まれるのが感じられた。ミキは気持ち良さそうに手摺りにもたれ掛かっている。フェリーは出航間近らしく、シンジたちと同じような姿勢で何人ものひとたちが鈴なりになっている。フェリーの舷側にも、同じくらいの数の人が見えた。

「前の彼氏、って、なっちゃうのかな」

 ミキが唐突に云う。シンジは少し考えて、さっきの話題に思い当る。

「わたしね、男から逃げてきたんだ。どうしても、彼の近くにいたくなくてさ。近くにいると、会わなきゃいけなくなっちゃうじゃない? 電話だって掛かってくるし」

 缶紅茶を口に運ぶと、ミキは続ける。

「なんか、駄目なのよ。別に嫌いになったわけじゃないしさ、彼が嫌なことしたって云うんでもないんだけどね。どう云えばいいんだろう? 彼と一緒にいると、どうして自分がそこでそうしてなきゃいけないんだろって気になっちゃって。シンジくん、分かる?」

 言葉を切った。無言のまま、水晶玉みたいな瞳がシンジに向けられる。

「なんでそんな話、おれに聞かせるんだい?」

「――そうよね」

 ミキはどことなくばつの悪そうな顔をして、視線をフェリーに戻す。

 汽笛が鳴る。


 ミキを再びロード・スターのタンデム・シートに乗せると、シンジは今度は都心を突っ切るルートを選んだ。

 新宿を越えて青梅街道に入る辺りで、雲行きがあやしくなってきた。荻窪の辺りからぽつりぽつりと降りはじめた雨は、ハーレイが吉祥寺通りを曲がる頃には土砂降りになっていた。

「なあ」

 赤信号の交差点で、シンジは雨音に負けないくらいの大声でミキに話し掛ける。

「なあに」

 ミキも声を張り上げる。バイクに乗っていて雨に降られるのは初めてではないのかもしれないが、声の調子はいかにも辛そうだ。

「こっからだと、おれん家の方が近いから。寄ってくか」

「うん」

 消え入りそうな返事だ。

 青信号で、シンジはクラッチをつなぐ。不機嫌そうな重々しさで、ハーレイの後輪が濡れたアスファルトを蹴飛ばす。

 ガレージにもぐりこむ頃には、シンジの身体はトランクスまでぐっしょりと濡れてしまっていた。ヘルメットを脱いで髪を絞ってから、ミキを見やる。フルフェイスに護られた顔は乾いているけれど、デニムのジャンパーもジーンズも水浸しだ。

 ロードスターはといえばワックスのおかげで丸まった水滴を全身にくっつけたまま、エンジンやエグゾースト・パイプから湯気を立てながらどことなく不服そうに蹲っている。ミキが云うように、こいつはどこか動物みたいだ。

「さてと。じゃ、家にあがりなよ」

「え? いいよ。びしょ濡れだしさ」

「風邪引いちまうぜ。服、乾かさなきゃなんないだろ」

 云ってから、シンジは見開かれたミキの眼と、自分のいった言葉が意味するかもしれないことに気付いた。

 ――ばかばかしい。

 閉じてから出たはずの玄関の鍵が外れている。ユカリさんがいるのかもしれない。だとすれば好都合だ。ミキの服が乾くまでの間、着るものを貸してもらえる。

 シンジは水滴をしたたらせながらブーツを脱ぎ、そのまま家に上がって風呂場からバスタオルを二枚取った。そのままとって返して、玄関先で上がり込んだものかどうか思案している様子のミキに一枚放る。

「ほら、上がりなよ」

「でも家ん中、濡れちゃうよ」

 受け取ったタオルで髪を拭いながら、ミキは小声で云う。

「いいからよ。――ユカリさあん」

 返事はない。シンジはもう一度、声を張り上げる。

 五秒ほど待つ。奥の部屋からがさごそと物音がした。さらに五秒。青い下着を一枚だけ身につけたユカリさんが出てくる。

「なによシンジくん。やっと、眠れたところだったのに」寝呆けまなこのユカリさんは、ミキの姿に気付くと顔をかがやかせた。「あれ、シンジくん、彼女?」

「どうでもいいじゃん」ユカリさんの風体に、シンジは顔をしかめる。「このこに着替え、貸してあげてくれる?」

「いいよ。――びしょ濡れじゃない。シンジくん、こんな天気の日に女の子をバイクに乗せたりしちゃ駄目だよ」

「途中で降られたんだよ。仕方ないだろ」云い返して、シンジはミキの表情が、視線をユカリさんの豊かなバストラインに向けたまま固まってしまっているのに気付く。「ああ、このひとは井上由佳里さん。うちの――」

「居候だよ。ほら、早くおいで」ミキが靴を脱ぐ暇もあらばこそ、ユカリさんはミキの左腕をつかんで家の中に引きずり込む。「あたしこういう綺麗な子、大好きだよ。シンジくんもちょっとしたもんじゃん」

「いいからさ。早く乾いたもん着せてやってくれよ」

「もちろん」

 ユカリさんはミキをそのまま奥の部屋に引っ張っていった。シンジは溜息をついて自分の部屋に入り、着替えを探す。


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