物語研究会1999年度


 

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【4月例会通知〈第245回〉】

・とき  0417日 土曜日 13:30 Start

・ところ 日本大学文理学部H本館408教室 新宿京王線下高井戸駅下車徒歩10分 13:30 Start

  藤壺の病苦              石阪晶子 

【年間テーマ】〈物語学の限界〉−物語学の限界、さらには研究者個々人の研究への立脚点と、その限界点とを見定める。

  王権物語の限界−六条院物語の組成   阿部好臣 

《合評会》石井正己『絵と語りから物語を読む』大修館書店 (報告・増尾伸一郎・立石和弘)

【発表要旨】 

  藤壺の病苦              石阪晶子 

 従来、抽象的にとらえられていた藤壺像の分析を、その生涯を通じて彼女の身体に浮上する病、すなわち「なやみ」の問題に焦点を当てて試みる。というのは、病という場を通して、その苦渋に満ちた藤壺の内面がはじめて照らし出される構造があるように思われるのである。病によって、心身共に追いつめられながらも、意志で対抗し、意地で克服していく、そんな藤壺の自己運動としての病のありようを、具体例を示しつつ明らかにしていきたい。 

  王権物語の限界−六条院物語の組成   阿部好臣 

「物語学の限界」を問うことと直結するわけではないが、『源氏物語』第一部について考えていることを報告することにした。それは「六条院」に象徴される「王権物語」のあり方を、じっくり読んでみることである。物語に内発する「古物語」の方法を炙り出ことで、「王権物語」を組成する基本軸は読み解けるわけである。例えば、それを「貴種流離譚」から見ることも出来るし、同軸を繰り返す「畳みかけ」の方法から見ることも出来る。『源氏物語』はある意味では繰り返しとズラシの物語であるが、それは千日手のようにあるわけではない。いつかフイと、その方法を放擲する。そのあり方が、じつは「物語」の深層への切り込みなのだが、その微妙な様相を「読む」ことが、「限界」ということへの、ある答えを用意することになろう。 

  殆ど、具体的に組み立てられているわけではないが、とにかく挑戦してみたい。なお、「『遊び空間か』六条院の組成−大人の『遊び』・子供の『遊び』−」(『源氏研究』4号・未刊)の延長線上での考察になることを一言しておく。 

【5月例会通知〈第246回〉】

・とき  0515日 土曜日 13:30 Start18:00

・ところ 明治大学リバティータワー1114教室。(お茶の水駅下車)

 呪歌に縛られた童子・薫−「岩根の松」の喩が指し示すもの− 小山綾子

【年間テーマ】〈物語学の限界〉−物語学の限界、さらには研究者個々人の研究への立脚点と、その限界点とを見定める。

 光源氏と明石姫君−産養をめぐる史劇・つづき  小嶋菜温子(3月例会発表は今月に延期されています)  

【発表要旨】

 呪歌に縛られた童子・薫−「岩根の松」の喩が指し示すもの− 小山綾子

 薫が物語によって最初に与えられた喩は、柏木巻の薫の五十日の祝儀で光源氏の歌によって示された「岩根の松」であった。従来、横笛巻で同じく光源氏の歌に詠まれた「竹のこ」の喩に関しては、その後の柏木の笛の伝承に絡ませて注目されてきたが、「松」の喩についてはさほど重視されていなかったように思う。しかし、橋姫巻末で弁の尼から薫へ手渡された柏木の遺書の中で、再び「岩根にとめし松」と「松」の喩が浮上してくることを考え合わせるならば、「岩根の松」は決して軽視してよいものではない。では、五十日の祝儀の日において薫が「岩根の松」とされたのには、どういう意図があったのか。それを『源氏物語』に描かれる「松」のあり方を検証しつつ、明らかにしていきたい。

 光源氏と明石姫君−産養をめぐる史劇・つづき        小嶋菜温子  

 物語学の模索として、歴史と物語の接点と相違点について考えてきている。産養を起点とする人生儀礼の史的意味から、物語テクストの文脈の成り立ちを解明しようとし、〈非・準拠〉というタームをたててみたりしている。今回は、明石の物語の仕組みを手かがりとして、その観点をさらにほりさげてみたい。『国文学』の拙論のつづきです。

  *『国文学』4月号/『古代中世文学論考 一』新典社/『源氏研究3』/『源氏物語を〈読む〉』新物語研究4、などの拙稿。 

新刊案内

○神野藤昭夫編『物語文学研究叢書/全26巻/別冊解題』(クレス出版、第一回配本 セット価格 \115000.1999.04)刊行。

○三田村雅子・河添房江・松井健児編『源氏研究/4/特集・遊びと空間』(翰林書房、\2400.1999.04.20)刊行なる。

○鈴木日出男編『ことばが拓く古代文学史』(笠間書院.\12800.1999.03.31)刊行なる。

○岡部隆志著『言葉の重力−短歌の言葉論』(洋々社、月光叢書・別冊1、\2400.1999.03.30)刊行なる。

○吉海直人編『源氏物語研究ハンドブック@増補訂正』『源氏物語研究ハンドブックA』(翰林書房.\1200.1999.04.05)刊行なる。

【6月例会通知〈第247回〉】

・とき  0619日 土曜日 13:30 Start

・ところ 清泉女子大学1号館二階 123 教室 JR五反田駅下車徒歩10分 13:30 Start

【年間テーマ設定のために】

・源氏物語における「死」について       松岡智之

・合評会 小田切文洋『渡宋した天台僧達−日中文化交流史一斑』(翰林書房.\1800

・                  報告者 久保田孝夫・佐藤信一

【発表要旨】

・源氏物語における「死」について       松岡智之

 源氏物語における「死」について考える。まずは従来の研究史が何をどこまで明らかにしているのかを確認するところからはじめたい。死をめぐる物語の焦点(死なれた者の物語から死にゆく者の物語への変化・死美の問題)、死の比喩形容、民俗学的視点、仏教との関係(含自殺問題)、を軸に整理することになろう。また、そこから派生する問題や従来の方法で究明できる点を指摘したい。その上で、従来の方法では明らかにできない問題は何かを指摘できれば幸いである。次に源氏物語における「死」の扱い方の、文化史的位置づけを試みる。古典文学における「死」を究明することは、リアルならざる死−リアルな死を覆う観念のベールの質を問うことになろう。死をめぐる観念は「文化」の一典型との視点から、中国文化の影響−法制史、仏教との関係−思想史、また、表象文化の問題等を見渡しながら考えたい。さらに、そのことを通して古代文学的なるもの、「日本」文学的なるもの、あるいは文学の領分に関して一定の見解を出せればと考えている。

新刊案内

○河添房江・神田龍身・小嶋菜温子・小林正明・深沢徹・吉井美弥子編『叢書/想像する平安文学/第一巻/<平安文学>というイデオロギー』(勉誠出版 \6000.1999.05.10)刊行。

○河添房江・神田龍身・小嶋菜温子・小林正明・深沢徹・吉井美弥子編『叢書/想像する平安文学/第四巻/交渉することば』(勉誠出版 \6000.1999.05.10)刊行。

○秋山 監修・島内景二・小林正明・鈴木健一編『批評集成 源氏物語/全五巻』(ゆまに書房 セット価格\65000)刊行。

【7月例会通知〈第248回〉】

・とき  0724日 第四土曜日 13:30 Start

・ところ 横浜市立大学文科系研究棟五階小会議室 京浜急行線金沢八景駅下車徒歩05分 

【年間テーマ】「区分・領域〈テリトリー〉」

   「源氏物語の「鏡」」      今井俊哉   

《合評会》小林正明『村上春樹◆塔と海の彼方に』森話社 \2400(報告・三田村雅子・助川幸逸郎)

【発表要旨】 

   「源氏物語の「鏡」」      今井俊哉   

斎藤英喜氏は「平安内裏のアマテラス」(『アマテラスの深みへ』新曜社)で内侍所の神鏡について扱われている。この神鏡が斎辛櫃に納められていたのは氏が指摘するとおりである。その辛櫃に三面の鏡が納められていたことは櫃が焼失するまで、明らかでなかったのだが、言い換えれば、鏡は、箱を開けたとき三面になったのだ。拙稿「シュエレジンガーの箱」では、「箱」の位相を扱ったが、私自身も開けてみれば今度は「鏡」が出てきたようである。境界としての「鏡」からテーマに近づければと思っている。  

1999年度大会通知】

・とき  0823日〜25日  13:30 Start

・ところ 伊豆稲取温泉ペンション・マスカレード

【年間テーマ・シンポジューム】「区分・領域〈テリトリー〉」0823日、報告・質疑応答・午後〜24日、午前、総合討論

『源氏物語』「とぞ本にはべめる」を軸に物語の領域について考える発表    原豊二

〈土の気〉と〈竈神〉の系譜−陰陽師と占病祟法をめぐって 増尾伸一郎

俗的空間/境界空間/聖的空間−−夕霧巻の方法、あるいは不安の概念をめぐって 三谷邦明

【自由発表】0824日午後〜25日午前

藤壺造型の位相−−逆流する伊勢物語前史 久富木原

大津皇子−−物語の源流 関根賢司

女一宮試論 ──反復と一回性の狭間から 越野優子

【発表要旨】 

『源氏物語』「とぞ本にはべめる」を軸に物語の領域について考える発表    原豊二

『源氏物語』夢浮橋巻の末の「とぞ本にはべめる」について考える。基礎的考察として、文献学的(あくまで的であるが)なことを考えつつ、古注の思考方法の確認、また他作品との比較をすることとなる。物語の終焉へと誘う、この「とぞ本にはべめる」は、物語の語られる世界とそうでない世界の領域間に存在するため、「見はてぬ夢」(『細流抄』)と現実との接点として考えることができる。長年、研究者を悩ませた問題であるので、決定的なことが言えるような展望は今のところないが、本年度の物語研究会のテーマに関連させて興味深い問題である。最終的には、この「とぞ本にはべめる」とは一体何なのか、また物語の享受にどのような影響を与えたのかについて探っていきたい。

〈土の気〉と〈竈神〉の系譜−陰陽師と占病祟法をめぐって 増尾伸一郎

 『栄華物語』巻二十八では、藤原妍子の御悩の原因を、賀茂守道が、「御氏神の祟」「土の気」によると占申している。こうした例は平安時代の古記録類に多数見出せるが、その際には安部清明『占事略決』などが典拠とされた。この書物の「占病祟法」には、竈神が悪鬼、北辰その他の所主(祟りの主体)が挙げられているが、今回の報告では、その中から「土の気(土公)」と「竈神」に注目し、この二神の信仰と祭儀の系譜を辿りつつ、平安貴族社会における〈地霊〉への眼差しを瞥見したい。

俗的空間/境界空間/聖的空間−−夕霧巻の方法、あるいは不安の概念をめぐって 三谷邦明

 夕霧は小野という山里の境界空間において、都という俗的世界における自己同一性に不安を抱く。彼ばかりでなく、一条御息所も落葉宮も、光源氏を除く登場人物たちが不安という概念に憑依されている。その様相を克明に分析した上で、境界空間が第二部から始まり、第三部においても、薫を通じてどのように描かれているかを考察する。境界概念が第二部の夕霧と第三部の薫とでどのように差異化されているかについても明らかにするつもりである。なお、長文の報告となるので、レジメではなく、ペーパーを提供するつもりである。

藤壺造型の位相−−逆流する伊勢物語前史 久富木原

 源氏物語、特に藤壺物語が伊勢物語の最大の禁忌である二条后・斎宮密通の話を抱え込み、さらにその密通が若紫巻で語られることによって、伊勢初段と緊密なかかわりを持つことは周知である。とすれば、初段の「奈良の京」とは当然、伊勢物語成立の原動力ともいうべき平安前期の大事件、薬子の変へと引き戻す磁力を持つものと思われる。なお藤壺崩御の際の「事の乱れなく」という記事は、后妃伝の薬子の記事を念頭に置くと指摘されるが、薬子の変に関する詔の記事にも「乱れ」という表現が数カ所認められる。「乱れ」の語および伊勢物語前史としての薬子の変が藤壺の造型にどのように関与するかということについて考える。

大津皇子−−物語の源流 関根賢司

 大津皇子が刑{つみ}なわれて死んだ。謀反が発覚したのだという。その死を悼み、その魂を鎮めようとするかのように、大津の伝(日本書紀・懐風藻)が叙述され、大津の詩(懐風藻)と歌(万葉集)とが編成されていく。姉・大伯皇女の歌(万葉集)までも喚び起こされ供せられて、おもむろに大津皇子の物語が形成されていく。だが〈大津皇子物語〉はついに未完のまま終わったから、多くの物語作者やその亜種とも言うべき文学研究者たちの想像力を刺激してやまない。

〈大津皇子物語〉のために捧げられた伝や詩や歌は、物語の断片であり要素あるのにすぎないのだが、それらによって物語を生成せしめようとする〈物語の意志〉は、涸れることのない伏流水、地下水脈となって、時に間歇泉のように新しい物語を噴出させることになる。例えば〈在中将物語〉、例えば『伊勢物語』である。

女一宮試論 ──反復と一回性の狭間から 越野優子

宇治十帖において、その美質と王権の頂点に立つ高貴さから源氏亡き後のヒロインとして構想されたともされ、また極めて少ない登場場面ながら、その不思議な存在感に未だ論議の尽きぬ人物である女一宮について考察する。薫の心を捉えていることを何気なく見え隠れさせつつ、しかし具体的な展開なしで進む宮の描写の有り様は、容易に帚木三帖の「描かれざる上の品の女たち」(藤壺、朝顔、六条わたりの女)を想起させる。しかしいずれその存在が具体的に大きく物語に展開される彼女たちに対し、女一宮はその主な登場場面 ──匂宮との疑似<妹恋>場面と氷遊びの垣間見場面── すら前後から浮き上がったままそこから発展を見せない。宮とそれらの女たちとの相違に留意しつつ、過去の反復と絶対的な一回性の狭間に描かれる女一宮について論じてみたい。

新刊案内

○網谷厚子『日本語の詩学−遊び・喩・多様なかたち』(土曜美術出版社 \18001999.07.15刊行。

○神田龍身『偽装の言説−平安朝のエクリチュール』(森話社 \2600)刊行。

○藤井貞和『詩の分析と物語状分析』(若草書房 \9500)刊行。

○栗原弘『平安時代の離婚の研究−古代から中世へ−』(弘文堂.\58001999.09.15 刊行。

○植田恭代編『日本文学研究論文集成−源氏物語2』(若草書房 \38001999.08.27刊行。

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【9月例会通知〈第249回〉】

・とき  0925日 第四土曜日 13:45 Start

・ところ 國學院大学本館102教室(教室変更になりました) キャッシュディスペンサーが目印

          渋谷駅東口の日赤医療センター行きバスで7分程度。

【年間テーマ】「区分・領域〈テリトリー〉」

  読者生成圏の論理−『松浦宮物語』秘曲伝承コードへのプロトコル 上原 作和 

《合評会》河添房江『性と文化の源氏物語』筑摩書房 (報告・齊藤昭子・平野美樹)

【発表要旨】

  読者生成圏の論理−『松浦宮物語』秘曲伝承コードへのプロトコル  上原 作和 

『松浦宮』の秘曲伝承譚を物語史的に通覧しつつ、この物語の発端となる秘曲伝承のコードが、『うつほ物語』や『夜の寝覚』などの物語史的な受容相と、院政期から中世にかけての、説話伝承圏からの受容相の、二ルートがあることを確認しつつ、そのプロトコル{情報環境}の機構を、あえて{私にとってはいつもながらの定石どおり}“実証的に”考えてみることにします。くわえて、『物語研究会会報30』の各論者によって提示された、過去30年の研究状況の三通りの再構成の方法の抜本的な批判についても、私なりの諷喩として折り込みながら、「ものけん」が創り出してきた、読者生成圏の内と外とを考えることで、年間テーマ「区分・領域〈テリトリー〉」に関するレポートにしたいと思います。

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11月例会通知〈第250回〉】

・とき  1120日 第三土曜日 14:00 Start

・ところ 日本大学文理学部H本館409教室

          新宿京王線下高井戸駅下車日大通り直進7分程度。

『源氏物語』論〜“弾かせる”光源氏はいかに栄華を極めたか〜 森 孝子 

【年間テーマ】「区分・領域〈テリトリー〉」

何故、柏木は悲劇的に見えるのか?(仮題)         光安誠司郎 

【発表要旨】

『源氏物語』論〜“弾かせる”光源氏はいかに栄華を極めたか〜 森 孝子 

ある場所に音楽が流れ出すと、その音楽が流れる時間、空間は、その音楽の持つ意味に支配される。そんな、音楽の持つ特質は『源氏物語』の中でも機能し、効力をもたらす。

 そして、その効力により、“弾かせる”という行為も又、“自らが実現化させたい世界を共に構築する人物を得る行為”として意味を持ち、それに応じて“弾く”という行為に及ぶことは、その世界構築の協力を承諾する事を意味する。

 “弾かせる”行為なしに“弾かせる”能力を持っていた主人公・光源氏が、流離により権力欲に目覚め、帰京後、栄華の道を突き進む。そして、潜在王権の場であり桐壷聖代の復興の場であった六条院で栄華を誇るものの、後に下降線をたどるという源氏の王権の物語の変遷において、源氏の“弾かせる”という行為がいかに機能しているかに注目し、考察する。

 この時、“弾かせる”対象となる人物が源氏に対してとった態度、及び、応じて“弾く”行為に至った場合は演奏された楽器の象徴についても触れた上で、源氏周辺の人物と栄華の関わりについても考える。

何故、柏木は悲劇的に見えるのか?(仮題)         光安誠司郎 

柏木は「悲劇的人物」と評されることが多い。たしかに、第二部の柏木は悲劇的に見える。しかし、第一部ではむしろ、「をこ」な人物として描かれていたはずである。ここに「柏木変貌説」が生まれるのだと思われるが、これでは柏木を論じるばかりか、問題を棚上げしたに過ぎないのではないだろうかと思われる。柏木が「変貌」するならば、その必然性を、「悲劇的」に見えるならば、それがどのように語られているかを、考えなければならないだろう。今回の発表は、柏木に対する「悲劇」という感情が私たち読者にどうして生じるのか、を物語の文脈の中から探ってみたい。そして、その考察は今後考えていきたい「内話文」の問題につながっていると思われる。問題提起で終わってしまうかもしれないが、よろしくお願いします。

新刊案内

○鈴木日出男『王の歌−古代歌謡論』(筑摩書房 \450010.05 刊行。

○前田雅之『今昔物語集の世界構想』(笠間書院 \1300010.30 刊行。

12月例会通知〈第251回〉】

・とき  1218日 第三土曜日 13:45 Start

・ところ 明治大学(お茶の水・駿河台校舎)リバテイタワー1087教室(8F)山の手線御茶ノ水駅下車7分程度。

薫の恋の基底 井野葉子 

合評会・日向一雅(『源氏物語の準拠と話型』至文堂) 報告者・浅尾広良・上原作和 

【発表要旨】

薫の恋の基底 井野葉子 

薫は甘えることのできる母、語り合える姉妹が欲しかったが、人の許しのない恋はするまいと、都の高貴な女性との関わりを避けている。そのような薫にとって宇治の姉妹は、手に入らない都の高貴な女性の身代わりだったのではないか。社会的弱者である宇治の姉妹が相手なら、薫の恋は社会的に非難されないし、経済的後見という優位な立場に立てる。確実に保身をしつつ、宇治の姉妹の中に都の高貴な女性の面影を求めようとする薫の恋の構造を探ってみたい。

01月例会通知〈第252回〉】

・とき  0122日 第4土曜日 13:00 Start

・ところ 國學院大学 常磐松2号館3階大会議室(青山・実践側の校舎です)。渋谷駅徒歩10分程度。

嵯峨朝復古の桐壺帝――朱雀院行幸と花宴 浅尾広良

《年間テーマ》北山の垣間見転生論序説――「貝合」と「花桜折る中将」から 下鳥 朝代

【発表要旨】嵯峨朝復古の桐壺帝――朱雀院行幸と花宴 浅尾広良

 朱雀院行幸と花宴は、従来宇多法皇の五十賀や延長四年の清涼殿での花宴を重ねる読み方がされ、いわゆる延喜天暦准拠説の根拠の一つとして認識されてきた。しかし、物語の語る朱雀院行幸は、延喜天暦に准拠するというだけでは、その本質的な部分が見えてこないのではないか。朱雀院行幸をめぐる物語本文の連鎖、古注の記事から、これらの行事そのものが如何なるものとして読めてくるのか。また、どのような意味を帯びるのかについて考えてみたい。

北山の垣間見転生論序説――「貝合」と「花桜折る中将」から 下鳥 朝代

 『堤中納言物語』の「貝合」と「花桜折る中将」はかつて鈴木一雄氏によって「共通作風」と認定された五編の物語に属する。本発表ではこの二つの物語が単なる「共通作風」と言う以上に深い関係にあると考えられることから論を出発する。両作品ともに『源氏物語』「若紫」巻の北山の垣間見(およびそこから展開する物語)を大きな前本文として成立していると考えられ、ここから、北山の垣間見の物語における転生・変奏の様相の一端へと論を進めていくことにしたい。

新刊案内

○高橋 亨・小嶋菜温子・土方洋一『物語の千年−『源氏物語』と日本文化』(森話社 \280011.15刊。

○古代文学会編『祭儀と言説−生成の<現場>へ』(森話社 \280012.03刊。

○倉田 実『狭衣の恋』(翰林書房 \320011.24刊。

○吉海直人編著『百人一首注釈叢刊1 百人一首注釈書目略解題』(和泉書院、定価6000円)

【03月例会通知〈第253回〉】

・とき  03月18日 第03土曜日 13:00 Start

・ところ 日本大学文理学部 H本館409番教室(教室変更の場合は掲示します)。新宿京王線下高井戸下車歩10分程度。

青海波再演――源氏文化の視界に向けて                          三田村雅子

《年間テーマ》類似(隣接)・源氏物語の認識論的断絶――方法としての形代/ゆかりあるいは贈答歌と長恨歌 三谷 邦明

総会(事務局改選・決算・予算案・年間テーマ、機関誌等)

【発表要旨】

青海波再演――源氏文化の視界に向けて              三田村雅子

 紅葉賀巻の青海波について、嵯峨朝の理想の政治を希求する姿勢を読み取ろうとする一月例会の浅尾発表を受けて、さらに源氏物語青海波の歴史上の意味を考察し、その上で源氏物語の成立以降の院政期、王朝復古が求められた後嵯峨院の時代、後醍醐の時代、足利義満の時代などの青海波と天皇行幸の関係を考察し、そこに密接に働いていた「源氏」神話再演の意識を解明していきたい。

 それぞれの時代に、青海波という多人数を必要とする盛大な舞を組織することで、どのように新しい政治体制の樹立が告げられているのか、どのように「源氏物語」が生き直されていくかを検討していきたい。またその行幸を源氏物語を模して書いていくということにはどのような意味があるか、中世源氏学の展開と関わり、平家物語と源氏物語の関係、中世仮名日記における行幸記というジャンルの問題についても出来れば発言してみたい。

類似(隣接)・源氏物語の認識論的断絶

――方法としての形代/ゆかりあるいは贈答歌と長恨歌 三谷 邦明

<一 認識論的断絶・贈答歌と長恨歌>

 一見すると、難解な発表題目を掲げ、なにを標的にしているのか解らないような題名にしましたが、今回の発表は、「良質の高校生」を対象に、暇を見ては書いている最中の、『物語学事始−古典文学入門−』という入門書的な著作の一部にあたる、「物語文学の歴史」の極く一部分を、物語研究会の例会向けに利用・流用・改訂したものです。そのために、例会参加者にとっては、説明する必要のないような、啓蒙的なものが含まれていることを、まずお詫びしてから始めたいと思います。

 ところで、認識論的断絶(切断)という用語は、構造主義などで頻繁に用いられていたもので、今回の発表では、その術語を借用させてもらいました。認識論{エピステモロジー}は真実を知るという意味で、ソクラテスやインド教(パラマーナ論)などにもみられるものですが、ここで問題化・前景化したいのは、ガストン・パシュラールやジョルジョ・カンギレムなどを経て、ミシェル・フーコーの認識論的布置{エピステーメー}(知の体系)という考えへと連なる系譜で、認識論的断絶とは、それ以前のように、認識論は、人間主体への固着や、精神主義あるいは生きられたもの、経験などと断絶しなくてはならないという主張です。

 その認識論的断絶が、古代後期の時代に、源氏物語の言説においても起きているのではないかという問題提起を、古代後期の生活習慣であった贈答歌を考察しながら抽出し、源氏物語桐壷巻と長恨歌との関係として見て行き、源氏物語が方法的に確立した、「形代/ゆかり」という類似(隣接)の方法が、源氏物語の「反復=差異」という、言語論・言説理論ひいては方法そのものを生成している様相を、明析化して行きたいと思っているのです。

 更に、できたら、「反復=権力」という、カルチュラル・スタディーズなどの、鮮烈な印象を与えている研究・批評の実践が、未だに把握できていない認識論的布置{エピステモロジー}(知の体系)が、既に古代後期の歴史をさまざまに横断していたことを、明かにして行きたいと思っています。それを通じて、源氏物語の認識論的断絶の画期的意義を浮き彫りにして行きたいというのが、今回の発表の標的なのです。

新刊案内

○兵藤裕己『平家物語の歴史と芸能』(吉川弘文館、定価8000円)

○日向一雅・崔吉城 編 『神話・宗教・巫俗』(風響社、定価5000円)

○東原伸明『物語文学史の論理−語り・言説・引用』(新典社.2000.01.31 定価6400)

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