二上山遠望
Mt.Futagami

朱鳥元年(686年)9月、天武天皇の崩御を待っていたかのように翌月大津皇子の「謀反」が発覚した。
日本書紀巻三十に「大津皇子に、訳語田(おさた:桜井市)の家で死を賜った。時に年二十四。妃の皇女山辺は、髪をふりみだし、はだしでかけつけて殉死し、見るものはみなすすり泣いた。大津皇子は天武天皇の第三子である。容姿はたくましく、ことばは晴れやかで、天智天皇に愛された。成人後は分別よく学才にすぐれ、とくに文筆を愛した。詩賦が盛んになるのはこの大津からである。」とある。
大来皇女についてはこの数行後に、「十一月の丁酉朔壬子(十六日)に、伊勢の神祠に奉仕していた皇女大来が京師(飛鳥浄御原)に帰りついた。」と書かれている。皇女が「うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を兄弟とわが見む」と詠んだのは、これより後、「屍を葛城の二上山に移し葬りし時」(万葉集)だが、持統天皇の性格から考えても無駄な時間を置いたとは思えないので、朱鳥元年にはこの山に埋葬されたのかもしれない。
山頂に二上神社があり、少し右、やや平坦に見える辺りに大津皇子の墓がある。左側の道をまっすぐ進むと当麻寺である。正面の造り酒屋さんの吟醸酒はおいしかった。   戻る