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前編

クリスタルグリン・マーメイド  − 後編 −

 4

「ほんと、女って計算高いよな」
 日曜日、記録棟での勉強会。隣のノクテルがいまいましそうに言う。
「リメルだけどさあ、とうとうはっきり言いやがった。毎日一級食をおごるなら考えてもいいんだと。できるわけないよな、それ一回で三級食五日分もするのに」
「そうだね」
 ぼくは、以前見つけたネクティについての本に目を落としながら、生返事をする。
「くそう、なんだ女なんか。計算機に胃袋と子宮がぶら下がってるようなもんじゃないか」
「でも可愛いね」
「……ああ、可愛いよ」
 ぐりぐりズボンを押さえて、触りてえなあとノクテルが泣きごとを言った。
 ぼくは本をじっと読む。
『……ネクティに知性はない。打算はまったくない。敵味方の区別すらしない。彼等は命令が発振されるかどうかだけを識別し、犬のように人間の命令に従うだけである』

 服のまま海に踏み込んだぼくは、底の砂に膝をついて、ネクティスの上半身を抱きしめた。思った通り二の腕はぴちぴちと弾力があって、おっぱいはエニアのよりもずっと大きく、むっちりとした硬さがあった。
 そして、ひんやりと冷たく、海水の潮くさい匂いがした。
 ぼくは、駆け引きも手続きも必要とせずに、いきなり目の前に現れた女の子の体にすっかり興奮して、彼女の体に触りまくった。
 エニアを相手にしたときみたいな震えや怖さは、全然なかった。シャレにならないぐらいいやらしく乳首をつまんだり引っ張ったり、ズボンをはいたままカチカチのペニスをおっぱいに押し付けたりした。
 それから、力ずくでキスした。
 軽く驚いたように目を開きっぱなしにしたネクティスの顔に、唇を押しつけてぺろぺろとなめ回した。海藻と電池が混ざったような味がした。初めての味だったけれど、おいしいとかまずいとか、甘いとか辛いとかじゃなくて、なぜか「清潔」という感じだけがした。――もちろん海水は重金属イオンで滅菌されているから、清潔なのは間違いない。でもそうじゃなくてもっと簡単な理由だ。
 女の子は綺麗な気がする。可愛ければ可愛いほど。そういう思いこみのせいだろう。
 実際、ネクティスは間近で見ても綺麗な顔立ちをしていた。ヒラニプラでそれぐらい可愛い女の子たちは、一人残らず鼻持ちならない美少女意識を振りかざしているものだけど、ネクティスは全然違った。ぼくになめ回されても、どうぞ、というように少し顔を突き出しただけ。自分が可愛いことなんか理解できないんだろう。
 その少し年下っぽい顔の、八重歯がのぞく薄めの唇の間に舌を突っ込んで、唾液をたくさん流しこんでやった。
「……?」
 ちくりとしたので、ぼくは顔を離してネクティスの唇をこじ開けた。
 ぞっとした。

『ネクティの食性は肉食である。標準食は人間が与える蛋白質主体のミールドロップだが、餌が与えられないときは魚介を採食する。だが任務中は絶食する。消化効率は高く、飢餓耐性は二週間以上に達するが、任務中は餌以外食べない。自分から要求することはないので、作戦に従事させるときは注意が必要である』

 唇から出ていたのは八重歯なんかじゃなかった。ネクティスは鋭い牙を備えていた。形がいいから凶暴という感じはしなかったけど、それは確かに肉を食いちぎる武器だった。
 その時ぼくはまだ、ネクティスの徹底した従順さを知らなかったから、少し怖くなってキスは止めた。
 でも代わりに使える場所はいくらでもあった。ぼくはネクティスの両肩をつかんで、溺死させるみたいに浅い水の中に押し倒した。
 青白いすべすべしたおなかの下に、縦長の性器が切れこんで、ゆっくりひくついていた。

『ネクティの体構造は人間のそれを模している。……性器の外形は人間にほぼ等しい。だが海中生活のために若干位置が変化している。……通常人間の女性では下方に開口する膣口が、ネクティの雌ではほぼ前面に向いている。……粘膜は存在し、粘液も分泌するが、それは性行為時の潤滑のためというよりは、海水から敏感な部分を保護するためのものである』

 ネクティスのあそこは最初からぬるぬるだった。ぼくは焦りながらズボンを引きずり下ろすと、海面のすぐ下のネクティスの体にばしゃりとのしかかって、体重をかけた。
 それからおなかに張り付くぐらい突っ立ったペニスを押し下げて、ネクティスのひだの真ん中に、最初から力をこめてぐいっと突き刺した。
 薄い膜みたいなものがあった、と思う。それは簡単に破れて、室温にさらしたゼリーみたいな、あまり冷たくないぬるぬるしたものがぼくを包んだ。膣は浅くて、すぐにゴムみたいな丸いものが当たった。
 初めてだからどうとかそういう問題じゃなくて、作りが違うんだ。ネクティスはぼくを受け入れるようにはできていない。
 でも、構わず無理やり突っ込んだ。するとペニスの周りの肉がきゅうっと引き締まって、強くぼくのものを締め上げた。
『アア』
 ネクティスが甲高い声で鳴いて、こぽっと口から泡を吹き出した。泡が消えた後に、目を細めて喜んでいるような顔が見えた。

『ネクティは人間と同じく胎生で繁殖するが、性行為自体は人間とは異なる。彼等の雄は戦闘に特化しており、常に周囲を警戒する必要があるので、人間のように長時間の抽送行動は行わない。受精を目的として短時間の、具体的には数秒から十数秒の挿入行為を行う。
 雌はそれほど特殊化が進んでいないので、人間並みの性行為にも対応できる。これは推測の範疇に入るが、ネクティの雌は雄と違って、性行為に快感を覚えているということもありうる』
 本を読みながらぼくはペニスを勃起させる。この本を書いた研究者は、絶対ネクティとやっていたと思う。

 ネクティスのあそこは、人間の女の子と同じぐらいキモチいいような気がした。
 いや、それどころじゃなかった。ネクティスは前戯もテクニックも要求しない。ネクティスはいつも濡れている。ネクティスは人間よりきつい。ネクティスは欲求不満だ。そしてネクティスは、人間の子供を妊娠しない。
 完全で完璧なダッチワイフ。
 水面にみっともなくお尻を浮かべて、ぼくはばしゃばしゃと腰を動かした。セックス、初めてのセックス、それで頭が一杯だった。
 それに、一頭だけで都市に近づいてくるようなネクティに配偶者がいるわけがないから、この子は処女だ。ガキ扱いされているぼくに、ヒラニプラの処女の子を抱く権利なんかない。そのぼくが、処女の女の子を犯している。
「ネ、ネクティスっ!」
 三分も動かないうちに限界が来た。ぼくは彼女のすべすべしたおなかの下に腰を押し付けて、海水が混じるのを防ぐみたいに真下にペニスを突き立てると、精嚢が壊れたみたいに長いあいだびゅくびゅくと射精した。
『リイッ』
 ネクティスはのけぞってぶるぶる震えた。仲間の雄とは次元の違う、強すぎる快感を刻まれて喜んでいるようにも、間違った精子を注がれて苦悶しているようにも、どっちにも見えた。
 
「……ヤム、ヤム!」
 ノクテルに頭を叩かれて、ぼくは我に返った。
「どうしたんだ、ぼうっとして。もうすぐ夕メシだぞ」
「……ああ」
 ぼくは立ち上がって本を棚に返すと、食堂とは反対の出口へ向かった。残ったノクテルが妙な顔で聞く。
「おまえ、メシは?」
「いいよ、需品部でミールドロップ買ったから」
「おまえ元気なさそうなのに、そんなんでいいのか。ちゃんと食っとけよ。それに昨日、第四成肉機までおかしくなったから、いつまた割り当てが減るか分からないんだぞ」
「何が減るって?」
 聞き取りにくかったから振り向いた。ノクテルが吐き捨てるように言う。
「メシだよ、メシ」
「ああ……そうか」
「そうかじゃねえって。ほんとにおまえ大丈夫?」
 答えずにぼくは、廊下に出た。
 行く先はここ一週間同じだ。放棄区画のあのハッチだ。
 行って、またネクティスと、五回でも六回でもセックスするんだ。


 ヒラニプラの外は、夕暮れに染まっていた。
 頭の上の分厚い雲は今まで一度も消えたことがなかったけれど、水平線のあたりでは薄く切れていた。海と空とのその狭い隙間に、ちょうど太陽が差し掛かったところだった。
 いつもはコントラストに乏しい世界に、ほんのわずかな間、目もくらみそうな光と色の洪水があふれた。海は緑色を忘れてきらきらと金に輝き、雲は深い深いオレンジに燃えあがった。ぼくは何十キロも先の海の彼方を見つめて、初めて悟った。
 ヒラニプラから出ただけでは、世界の万分の一も知ったことにはならないと。
 この海は投影された幻じゃない現実で、その向こうにもはるかに海と空が続いているんだ。
 ――そんな広い世界の隅っこで、密閉された街の中に収まって、食事を取り合ったり、女の子を奪い合ったりすることに、一体どんな意味があるんだろう?
 膝まで海に入って赤い太陽を浴びていると、沖合いに小さな点が浮かんだ。それはすぐに消え、やがて意外なほど近くに、ネクティスの頭が再び現れた。
「ネクティス……」
 ネクティスは遠浅の水の中をゆらゆらと近づき、最後は腕立て伏せみたいな格好で、顔だけを出した。ネクティは髪の毛で呼吸するから、それ以上こっちにはこられない。ぼくたちが触れ合うのは、お互いの世界の境界線上だ。
 ぼくは、じっと待っているネクティスのそばに膝をつくと、つるつるしたほっぺたを両手で挟みこんで、聞いた。
「きみは、どこまで行けるんだい」
「?」
「ぼくなんか見捨てちまって、もっと遠くへ行けよ」
 分かった、というようにネクティスは何度もうなずき、何も理解していないそぶりで、ぼくの脚をつんつん鼻でつついた。
 ぼくは苦笑して肩の力を抜く。ネクティスに言葉は通じない。本心じゃない冗談ならなおさらだ。
「それともぼくと一緒にいたいのかい……」
 ぼくは優しくネクティスを引き寄せて、うつぶせに沈めた。長い黒髪がくもの巣のような放射状に海面に広がる。
 それをかきわけて、背中にくちづけした。
 ネクティスの肩甲骨の間は、海峡みたいだった。ぼくが後ろからおっぱいを抱えて揉みまわすと、体が上下し、その海峡にちゃぷちゃぷと潮が満ち引きした。舌でダムを作ってみた。人間と同じようにそこはくすぐったいらしく、ネクティスは片手を振りまわしてふざけ気味に抵抗した。海峡が開いて、ダムの横から水が流れ落ちていった。
 ばしゃっと頭を上げたネクティスを、ぼくはわきを引っ張って四つんばいの姿勢にさせる。体を水面より高く上げさせる。ネクティスの黒髪――髪の形をしたえらのほとんどが、肩や背中で、空気にさらされた。
『カア・ア・ア……』
 髪の毛で呼吸できなくなったネクティスは、肺につながっていない気管を広げて、苦しそうにうめく。でも逆らおうとはしない。少しずつ体内の酸素を消費しながら、じっとそのままの姿勢で耐えている。
 そのお尻をぼくがつかむ。
 若草色の濡れた肌に包まれ、柔らかくふくらんだネクティスのお尻。ぽつんと白っぽい排泄口がある。体の前の性器よりも、こっちのほうが位置は人間に近い。
「ネク……ティスっ」
 ばつん、とそこにペニスを突っ込んだ。
『ギッ』
 ネクティスが苦痛にうめいて、細い前腕をぶるぶる震わせる。
「ネクティス……かわいい……」
 ぼくは後ろから、ケモノの姿勢でネクティスを犯した。
 ネクティスは脚を開けないから、前からだとぼくがまっすぐに寝そべるか、またがるような形になってしまって、どうしても動きにくい。ネクティ同士ならすぐ終わるからそれでもいい。でも、人間のぼくが彼女を責めさいなむには、それじゃ不便だ。
 後ろからなら、人間を相手にするのと近い態勢でセックスできる。――もちろんお尻でするなんて不自然なことだ。でも、はは、不自然?
 ネクティスはお尻も柔らかい。当たり前だ、海の中ではトイレを我慢する必要がないんだから。溜めずにすぐ出すんだろう。括約筋のようなものは感じられなくて、すべすべした細い管が、奥まで均質にぼくのものを包んでいた。ちょうど膣と同じように。
「ネクティス……うんち、ないんだね」
 ネクティスはあまり反応しなかった。そこは本当に、つらいだけらしかった。
 それどころか、彼女の体からはどんどん力が抜け始めた。水底の砂についた両腕が、かくんと折れてつんのめりそうになり、必死に高さを保つ。呼吸したいのか、頭を下げて髪を水に浸そうとした。
 その髪を、ぼくは後ろで縛るようにすくいあげた。肩越しに振り返ったネクティスが、悲しげに見つめる。
「だめだよ、まだ我慢して……」
 ネクティスは泣き出しそうな顔で口をぱくぱくさせた。酸素がほしいというサインだ。
 ぼくはそれを無視して、ひたすらぬらぬらと突きこみを続ける。刻々と酸欠に近づきながら、手で触れている海水からそれを補給することもできずに、虚しくネクティスがサインを送りつづける。
 せっぱ詰まったぱくぱくが、極限に近くなった。肌の色が明るい緑から濃緑に変わっている。目をいっぱいに見開いて、声が出せたら絶叫しているような顔のネクティスに、ぼくはゆっくりとキスをした。
『――!』
 びくん、がくっ、とネクティスが震えた。ぶくぶくと口からしょっぱい泡を吹く。気絶しかけていて、体中の不随意筋が不規則に痙攣している。
 その震えが彼女のお尻にも伝わってきた。本当に気持ちのいい痙攣だった。
「イっていいよ……」
 ぼくが射精しながらねじ込んだ勢いそのままに、ネクティスはザバッと水の中に突っ込んだ。気絶していて、口からよだれを流していた。
 動かないその体を、ぼくは十分近くも犯し潰していた。


 そんなひどいことまでしたのに、次の日にも必ず、ネクティスはやってきた。
 小さな理由なら、一つ挙げられる。ぼくは彼女に、ミールドロップを毎回あげていたんだ。
 でも、それだけで彼女が来てくれたとは、思いたくなかった。
 寝そべってゆっくりセックスしたかったから、深さほんの五センチぐらいの波打ち際まで行って、彼女の頭だけを水に浸し、その上に押しかぶさったこともあった。溺死体とセックスしているか、でなければセックスの相手を溺死させているような、すごく後ろめたくて、歪んだセックスだった。
 それでも次の日、彼女は来た。
 二の腕を噛んだこともあった。性欲じゃなくて、食欲のせいでだ。ネクティは人間を食べることができるけど、その逆ももちろん可能だ。ぴちぴちしたネクティスの肉はすごくおいしそうだった。
 実際には、ネクティほど鋭い牙を持っていないぼくは、生きている肉の思いがけない堅さと鼓動、それに流れ出る緑の血に驚いた。すぐ顔を離してしまったけど、噛んだ瞬間の食欲だけは本当だった。
 それでも次の日、彼女は来た。
 どんなにいじめてもネクティスは戻ってきて、柔らかい笑顔と優しい体で受けとめてくれた。ぼくはそのうちに、彼女と本当に愛し合っているような気分になっていた。
 それだけじゃない。ネクティスは、ぼくにむさぼられてぼろぼろの体で沖へと去って行っても、次の日には傷一つない肌に回復してやって来た。そんなネクティスと会っているうちに、いつのまにかこう思い始めたんだ。
 このままずっとネクティスと遊び続けたい。続けられるはずだ。ネクティスは、ぼくがやめろと言うまで、ここに現われるはずだから。ネクティスは絶対にぼくを捨てないんだから。
「ネクティス……」
 両腕を頭の上に差し伸べてうっとりしているネクティスの腰をつかみ、水から持ち上げて性器をかき回しながら、ぼくはおっぱいに顔をうずめる。
「ずっと、ずっと来てよ……ね……」
 最近はとにかく、強くこすらないと快感が足りなかった。ぼくは膝立ちになってネクティスを抱き上げ、お互い立ったまま抱き合うような格好で、彼女のお尻を引き寄せて生殖器を突き破るぐらい奥まで突っ込んだ。
 そして、ネクティスと陶酔の微笑みを交わした。
 出したよ、出したね、という目のサイン。
 そのままぼくたちはゆっくりと水に倒れこみ、ぬるい水とぬるい快感の中を抱き合ったまま漂う。
 ネクティスがぼくの頭を抱えて、髪を梳いた。それから手を空に透かして、不思議そうに見つめた。ぼくは笑いながら教える。
「人間の髪はえらじゃないんだよ。抜けてもだいじょうぶ――」
 言いながらネクティスの手を見て、ぼくは黙りこんだ。
 ネクティスはまるで筆のような太い髪の束を握っていた。せいぜい数本抜かれただけだと思ったのに。
 ぼくはそれを、ネクティスと一緒に、ばかみたいに見つめつづけた。

 5

「が付きましたか、感覚はありますか?」
 という言葉が、突然耳に入ってきたから、あれっと思った。
 白い天井とカーテンのある個室で、ぼくはベッドに寝ていた。ここは医学棟みたいだ。なぜなんだろう、ぼくは成肉機のところで働いていたはずなのに。
「気が付きましたね。気分はどうですか」
 横を見たぼくは、ちょっと驚いた。そこにいたのは医療担当の女の子じゃなくて、すり切れた白衣を着た、しわしわの婆さんだった。――ヒラニプラ誕生時からの生き残りの一人、メリンガー博士だ。
「気分はそんなに悪くないです。でも、ぼくどうして……」
「あなたは貧血を起こしたのです。作業中に倒れました」
「ほんとですか? すみません」
「謝る必要はありません」
 博士はなぜか、向こうを向いたまま言った。怒ってはいないようだけど、声は冷たかった。
「仕事に戻ります」
 ぼくは起き上がろうと、毛布の下で手を動かした。すると博士が毛布ごとぼくの手を押さえた。
「どこも痛まないのですか」
「……ええと、ちょっと頭が痛いような気はするんですけど」
「頭だけ?」
「はい」
「安静を命じます。動いてはだめ」
 博士は厳しい顔で言った。ぼくは不思議になった。どこも痛くないのに動いてはいけないなんて、どうしてだろう。風邪程度なら、熱が三十八度になるまで働かされるのに。
 働かなければ、メダルがもらえない。ぼくは構わずに起きようとした。
「博士、ぼく大丈夫です……」
 声が途中で引っ込んだ。博士が毛布を軽く持ち上げて、ぼくの腕を見せた。
 そこには、ぎょっとするほどたくさんの点滴の針が刺さっていた。数えたら、五本もあった。
 博士がつぶやくように言った。
「あなたはこれを、痛くないと言ったわね」
「……はい」
 気分が悪かった。というより気味が悪かった。どうしてぼくは、こんなにたくさんの針に、今まで気付かなかったんだろう。
 ぼくたちが黙りこんでいると、いきなり隣のカーテンがシャッと開いた。そこにも人がいたんだ。
 紅茶色の髪の可愛らしい女の子が顔を出した。
「博士、あたしもう行ってもいい? ……あら、ヤムじゃない」
「キュラ」
 リメルの部屋の女の子だった。例の、わざと男の子に下着を見せたりする、ちょっといたずらなところのある子だ。
「キュラはどうして?」
「ちょっと熱が出ただけよ。ね、博士?」
「……ああ、いいでしょう。仕事に戻りなさい」
「やった。寝てるだけってつまんないのよね。男の子もいないし」
 キュラは医療用のガウン姿だった。一度カーテンを引いて、その中で普段着に着替える。カーテンの閉め方が甘かったのは、わざとだろう。ぼくは彼女の期待通り、隙間から着替えをちらりと見てやった。
 小さめのお尻をきゅっと突き上げてスカートを履いてから、キュラはカーテンを開けて出てきた。どうだった? と言わんばかりに、色っぽい目でぼくを見る。
「じゃああたし、戻るから。ヤム、今度何かおごってね」
「分かったよ」
「バイ、博士」
 ぼくと博士は軽やかに出ていくキュラの背中を見送った。そのあと博士は、いやに乾いた声でつぶやいた。
「彼女はもう、好きにさせるしかない」
「どういうことなんですか」
 博士はぼくを見下ろした。その顔は相変わらず植物みたいな無表情だった。
 ……いや、違うのかな?
 無表情を装おうとしている顔、そんな風に一瞬見えた。何か隠しているような。
 でも博士は、それ以上打ち明けたことを言わずに、短く命令しただけだった。
「二級食を特配します。食べたら眠りなさい。明日から午前当直のみで働くこと」
「午後は?」
「自室待機を命じます。出歩かないように」
「そんな!」
 ぼくは起きあがろうとしたけど、点滴のチューブに引っ張られて、起きられなかった。
 自室待機にされたらネクティスに会えない。そんなこと耐えられない。
 そう思ったけれど、言うことはできなかった。外へ出ることは厳重に禁止されている。
「いつまでですか?」
「私が指示するまで」
「それっていつ!」
「くれぐれも安静にね」
 ぼくの声は届かなかった。メリンガー博士は背中を丸めて出ていった。


 どうしてそのことに気付かなかったんだろう。
 いや、気付かなかったことそのものが、事実を示していたんだ。あんなにはっきり兆候があったんだから、他人の事だったら気付かないわけがない。自分のことだったから、当然気付かなかったんだ。
 ぼくはその恐ろしいことに気付かないまま、ただ悶々と毎日を過ごした。
 ネクティスに会えない、そのことだけで頭が一杯だった。一日に三回もマスターベーションして、ケックやジミタにからかわれた。
 ぼくを閉じ込めるヒラニプラが嫌でたまらなかった。ヒラニプラのまずい食事や、潮くさい飲料尿や、重労働や、ずるい女の子たちや、卑屈な男の子たちや、厳格な博士たちや、コンクリートの分厚い壁でできた建物そのものを、ぶち壊してやりたかった。
 そういう苛立ちに加えて、たびたび貧血が襲ってきた。体が熱っぽく、思い通りに動かない。耳がよく聞こえず、目もぼんやりしてきた。
 いろいろな不満が凝り固まって、ぼくはもう、針でつつかれたら爆発しそうなほど、もやもやしていた。
 そんな時に、気付いてしまったんだ。


 その夜、消灯時間が過ぎてから、ぼくが部屋のベッドの三段目で、熱っぽい額を押さえて寝返りを打っていると、戸口のカーテンが動いて、廊下の光が入ってきた。
 誰か来たのかなと思っていると、そいつははしごに取り付いて、ギシギシ登ってきた。他の部屋の男の子が来るのは珍しくない。ぼんやり見ていると、そいつはぼくの横を通って、一番上のノクテルのベッドにするりと上がりこんだ。
「え……?」
 ぼくは、最近かすれ気味の目をこすった。今の子――スカート?
 女の子が男の子に部屋に来ることは、ほとんどありえない。輪姦してくれっていう意思表示だからだ。少なくとも男の子たちはそう受け取る。
 普通にセックスするんだったら、部屋に来なくても倉庫や物陰ですればいい。最悪、博士たちの管理する医学棟のベッドを使う方法もある。というか博士たちはそれしか許さないと言っているんだけど、そんな命令を守るやつはいないし、事実上よそでするのが黙認されてる。
 だからこの部屋に女の子が来たのは初めてだ。ぼくは半信半疑だったけど、すぐに聞き間違えようのない声が聞こえた。
「ン……り、リメル?」
「そうよ」
「なっ、どうしたんだ? おまえはおれを振ったんじゃ……そ、それよりこんなところに来るって、どういうことか」
「分かってるわよ! ノクテル――」
 抑えても隠せないヒステリックな甲高い声で、リメルがささやいた。
「抱いてよ! 思いっきり!」
「リメル……?」
 ギシッ、とぼくの上の天井が鳴った。他のみんなが次々にカーテンを開けて、顔を出す。
「抱いてって……今?」
「そうよ今すぐ! ここで、めちゃくちゃにして!」
「ここでって、みんなが」
「いいの見られたって、聞かれたって。来たって構わない! とにかくぎゅってしてほしいの誰でもいいの! いやならよそ行くわよ!」
「リメル!」
 ノクテルが起きあがった気配。
「どうしたんだ。……言ってみろよ」
「……んだの」
「え」
「キュラが、死んだのッ」
 うそ寒い風の音みたいなものが部屋に吹いた。みんなが、一斉に息を飲んだんだ。
「死んだって……」
「昨日の夜、血を吐いて医学棟に運ばれたのよ。そのままICU入りしたけど――さっき部屋にゲージ博士が来て、だめだったって」
「そんな、どうして」
「急性骨髄性白血病」
 リメルは震える声で言った。
「街の外の毒にやられたのよ。放射能と有毒物質の……血のがん。前から風邪っぽいって言ってたけど、まさか死ぬなんて……」
「リメル……外の毒はちゃんと濾過されてる」
「だったらあの子は外に出たのよ。でなくてもすべての毒を濾過しきれていないことぐらい、あなたも知ってるでしょ?」
 言葉を選ぶように少し間を空けてから、ノクテルが言った。
「なんていうか……きみがやられなくってよかったっていうか……」
「他人事じゃないのよ!」 
 リメルの叫びが全員の神経を切り裂いた。
「分かってるでしょ? ヒラニプラには今、十七歳以上五十歳以下の人間が一人もいないのよ。残ってるのは新陳代謝の遅い年寄りと、「総滅戦」の後で人工受精されたわたしたち子供、そしてそのわたしたちが産んだ赤ちゃんだけなのよ。その赤ちゃんもかたっぱしから死んでいってるわ!」
「でも、おれたちが死ぬとは限らないよ。爺さんたちはおれたちを生き延びさせてみせるって……」
「言うだけじゃない! できるわけないのよ。十七歳以上まで生き延びられた子供が一人だっている?」
「……」
「わたしたちみんな、死んじゃうのよ」
「言うなよ。口にするな」
「我慢できないんだもの! わたしの部屋、みんな泣きながら抱き合ってるの。一緒にいるとおかしくなりそう。こんなつらいこと、わたしたちだけで抱えていたくない!」
「わかった」
 ノクテルが何か吹っ切れたような声で言って、がたんと動いた。ごそっ、ごそっ、と布ずれの音がする。
「抱いてやる。いいんだよな」
「離さないで、あっためて。セックスしたかったら、してもいいから……」
 頭の上から、熱っぽいキスの音が聞こえてきた。しばらくして、ベッドがギシギシと規則的に揺れ始める。
 ぼくは上の空で、その振動を感じていた。
 そばのはしごに、ジミタの顔が覗いた。ぼくにちらっと目をやる。
「ヤム、見ないのか」
「うん……」
「おれは、入るぞ」
 はしごを上ったジミタが、ノクテルのベッドに乱入した。短い声がいくつか重なる。
「リメル、おれも」
「ジミタ? リメルはおれのだぞ」
「いいの、来て。みんなを呼んで」
「リメル?」
「わたし子供ほしい。死ぬ前に産みたい」
「おれのをか」
「違うあなたなんかどうでもいい、自分のをよ」
「そんな」
「妊娠させて。するまで抱いて。早く!」
 一斉に物音が起こった。ノクテルが戸惑っているうちに、部屋中のみんながはしごを上ってきた。ケックが、イルチが、血走った顔でノクテルのベッドに顔を突っ込み、互いに別のやつをベッドから引きずり下ろそうとする。みんなそんなことに慣れていないから、後ろめたさで目も合わせず、声も出さない。
 無言でリメルに群がっていく。本物の輪姦が始まっていた。
 そのうち、リメルがうわごとめいたあえぎを漏らし始めた。正気じゃない声だったけど、嬉しそうだった。
 それが引き金になった。
「どこへ行くんだ」
 一人、ベッドを降りようとしたぼくに、まだはしごにぶら下がっていたケックが声をかけた。ぼくはそれを無視して下に降りた。ケックもそれ以上聞かなかった。
 ぼくは廊下に出て、歩き出した。酔っぱらいみたいに壁や配管にぶつかった。さっきからずっと、リメルの言ったひとことが耳の中で反響していた。
 白血病。
「そういうことか……」
 ぼくのだるさや、熱っぽさは、そのためだったんだ。痛みが薄れたのや、目や耳が弱ってきたのも、神経がやられたからだろう。それ全部が白血病のせいとは限らないけど、他の原因があるにしたって慰めにもならない。キュラは死んだ。
 キュラが街から出たかどうかなんて知らない。でもぼくは出ている。どっちが危ないかは考えるまでもなかった。
 キュラが死んだのに、ぼくだけ生き残れるはずがない。
「ふうん、そうか……ふうん、死ぬんだ……」
 ごつんと消火栓に頭をぶつけたまま、ぼくはぶつぶつつぶやいた。悲しくもないのに涙がぽたぽた落ちた。ううん、悲しさを感じる心が麻痺してしまって、どうでもいいような気分になっていただけだった。本当はわめき出しそうだった。
「どうしよう……」
 ネクティスの顔が浮かんだ。ぼくはネクティスに甘えたいんだろうか? ネクティスとセックスしたいんだろうか?
 ううん、違う。
 リメルの気持ちが痛いほど分かる。死にたくない。消えたくない。消えるならせめて残したい。自分を。自分のものを。
 他人のものなんか、残したくない。
 そんなことが思い浮かんだけれど、どういう意味なのか、しばらく分からなかった。ぼんやりした頭で長いあいだ考えて、やっと分かった。
「はは、そうか。はは」
 ぼくは、ゆっくりと歩き出した。右腕を区画壁に強くぶつけたけど、鈍い振動を感じただけだった。もう、痛みなんか全然ない。
 消灯した六年女子の区画に、ぼくはふらふら入っていって、廊下からエニアのいる部屋に声をかけた。
「エニア、いる?」
「さっきトイレに行ったわよ。――あれっ、誰、男の子?」
 あわてたような声が聞こえたけど、構わずにそこを離れた。廊下の端のトイレに入る。
 エニアはなぜか、化粧や歯磨きをするわけでもないのに、洗面台でじっと鏡を見ていた。こっちを振り返り、ぼくだと気付いてぎょっと身を引く。
「誰……男? ヤムじゃない!」
「そうだよ」
「何しに来たのよ、ここ女の子用よ?」
「きみとセックスしに」
 冗談、というように苦笑しかけて、エニアは顔をこわばらせた。一歩ずつ後ろへ下がる。
「……本気?」
「本気だよ」
「いや。いやだからね。あたしあなたとはセックスしない」
「分かってたよ。シグマとしてるんでしょ」
 エニアは一瞬、何かつらいことを思い出したような、すごく痛々しい顔をしたけど、すぐに切れ長の目を細めて、ぼくをじっとにらんだ。――そんな顔をしてもエニアは可愛くて、ぼくはみとれてしまった。
「あたしに手を出したらシグマが黙ってないわよ」
「構わないよ」
「……こんなことをされるわよ!」
 だしぬけにエニアは壁に手を伸ばして、長い棒のようなフロアクリーナーをつかみ、ぼくに向かって振り下ろした。ぼくはほとんど同じタイミングで前に進んで、エニアの体を抱えこもうとした。
 ガツン! と肩でクリーナーが跳ね、じいんと弱い痛みが走った。ぼくは全然気にせず、エニアの細い腰をごぼう抜きに抱え上げて、トイレの個室へ入りこんだ。
「い、いやっ! 放して、放せ!」
 じたばたとエニアが暴れ、こぶしで思いきりぼくの頭を殴った。ぼくは落ちついてドアを閉め、鍵をかけた。間一髪廊下に足音がして、女の子たちの殺気立った声が聞こえた。
「エニア、大丈夫? 誰か男来なかった?」
「いるわよ! 助けて!」
「ほ、ほんとに?」
 女の子たちが殺到して、ドアをドンドンと叩く。ぼくは放っといた。トイレの個室は、博士たちじゃないと開けられない。
「誰なの!」「何する気なのよ!」 
「ヤムだよ。これからエニアと、セックスするんだ」
 みんなが、しんと静まり返った。エニアは、タイトスーツの胸ポケットから合金のコームを出して、櫛の歯でぼくの腕を力いっぱい引っかいた。
 ずばりと切れて血が飛び散った。ぼくはいっこう気にせずにエニアを壁に押しつけて、スカートの中に手を突っ込んだ。閉じた太ももの間をぐいぐい開く。
 エニアが混乱したように叫ぶ。
「なんなの、ヤム! あなたなんでこんなことを?」
「ぼくはもうすぐ白血病で死ぬんだ。だから子供を残したい」
「子供を……あたしと? 無理よ、あたしは」
「知ってるよ。だから来たんだ。ぼくは本当にエニアと子供を作りたかった。エニアがシグマの子を産むなんて我慢できない。だから……壊してやるんだ」
 ぼくはズボンを下げた。体中の神経が布で包まれたみたいに鈍くなっていて、そこもあまり感覚がなかった。でも視線を下げると、いつも以上に硬く大きくなっていた。
「ひ……やめてよ!」
 エニアがコームをめちゃくちゃに振りまわす。肩や腕に切り付けられながら、ぼくはエニアの両足の間に膝を突っ込んで開かせ、片足を無理に持ち上げた。
「やあっ、やめて! 殺すわよ!」
 エニアが怒りで血走った目でにらむ。でも片足を持ち上げてしまっているから、バランスが悪くてうまくぼくを殴れない。ぼくは持ち上げた足を肩にかついで、ねじれたショーツに包まれたエニアのあそこに、手のひらを押し付ける。
「はン!」 
 さすがにそこは敏感みたいだった。エニアが唇をかんで肩を震わせる。ぼくは伸びきったショーツのさらさらした布越しに、その下のぷっくりした肉の盛りあがりに、並べた指先をぐりぐり食いこませた。
「んは……いや、痛い……やめ……」
 怒りで赤かった顔が、もっと赤くなる。指先にじくじくと湿気がにじんできた。ぼくはぽつりとつぶやく。
「濡れてる」
「違ぁう!」
 エニアが絶叫して、ぼくの背中にコームの柄を突き刺した。ずぶり、と硬い感触が体の奥まで届いた。
 刺したエニアのほうが、はっと脅えた。
「や、ヤム……あたし……」
 ぼくはそれを痛がったりしなかった。エニアの抵抗が止んだチャンスとしか思わなかった。
 ショーツを引きちぎって、ひだの間にペニスを押し当てて、背伸びするみたいに思いきり力をこめた。
「ぐうっ?」
 エニアがのどの奥を鳴らして、少しでもぼくから逃げようと、片足で背伸びした。逃がさない。ぼくはエニアの腰をつかんで、ぼくの腰へと押し下げる。
 ほんのちょっとだけ湿っているエニアのあそこに、ぼくのものがみちみちと押し入った。粘膜同士が滑らずにはりついて、ずるっとすりむけたような気がした。
「い……た……」
 エニアの顔から怒りがはがれ落ちる。戸惑いと苦痛と恐怖の表情が広がって、まなじりに涙が盛りあがった。
「痛い……ヤム……」
「ぼくは痛くないよ」
「なんで……やめてよ、あたし死にそう……」
「ぼく、もう感覚がないんだ」
 ほんとに、ゆるくつかまれている程度の感触しかなかった。でも目を下ろすと、エニアのふっくらした太ももの横で、髪と同じきらきら光るような金色の毛の間に、ぼくのペニスがぎっちり突き刺さっていた。
「あは……やっと、やっと……エニアとできた」
「やめて」
 か細く言って、エニアがまたコームを突き刺した。効かない。
 ぼくは動き出す。エニアもぼくの背に何度もコームを刺す。
「やめて……やめてよ……なんで死なないの……」
 壊れかけの泣き顔に、憎しみと恐れを残したまま、エニアはうっとりし始めた。ペニスに巻きついたエニアのあそこがぬめってきて、じゅっじゅっと泡が垂れた。つかんだ太ももの裏で腱がぴくぴく震える。
「ばかあ……あんたなんか……あんたなんか死んじゃえ……」
 あの時の、耳がとろけそうな甘い声でエニアが言った。ぼくはその唇に唇を押しつけた。熱い吐息と、とろりと甘い唾液が口の中に広がって、ナイフのような歯がぼくの唇に噛みついた。エニアが最後の一撃とばかりに背中にコームを深々と刺し、すごい力でぐりぐりえぐった。
 その凶暴な抵抗も、ぼくにとっては力いっぱい抱きしめられるのと同じだった。
「エニア……出すよ……」
「最低よ……」
 腰の中でぐるぐるっと何かが流れ、熱いものがエニアのおなかめがけて飛び出していった。エニアがきつく目を閉じて、首が折れそうなほど顔を背けた。イってしまったのか、きゅうっとあそこを締め上げていたけど、首筋には嫌悪の鳥肌が立っていた。
「エニ……ア……」
 射精しながら、ぼくは乱暴に腰を突き上げた。エニアのおなかのシグマの子を突き殺すみたいに。ぐいぐい動いた拍子にエニアの片足を落としてしまい、とたんにすごい力で突き飛ばされた。
 ぼくはドアに背中を預けて息を吐く。エニアは壁にもたれたまま、スカートを持ち上げて自分のあそこに目を落とした。半開きの足の間から、ぼくの精液が赤いものと一緒にどろどろ垂れ落ちていた。
 エニアはそれをしばらく見つめてから、拭きもせずにぼくに目を移した。その顔を見て、ぼくはなんだかひやりとした。憎しみや脅えの熱が、すっぱり切り落としたようになくなっていた。うつろな瞳に、砂浜みたいな乾いた軽蔑だけが残っていた。
「……これで満足したの」
「満足なんか」
 ぼくはやけ気味に笑った。
「するわけないよ。きみはもう別の男の子の子供がいるんだもの」
「あなた、分かってない。……そんなの意味がなかったのに」
 エニアが何を言っているのか、よく分からなかった。聞く気力もなかった。
 その時、背後で鍵の音がした。ドアを開けたのは、メリンガー博士だった。へたり込んでいるぼくと、スカートを放したエニアを見比べて、ため息をつく。
「こうなったか……ヤム、なぜエニアを?」
「エニア、シグマの子供がいるんです。それが憎かったから……」
「エニアはもう妊娠していない」
「そうですか」
 耳のせいで聞き間違えたんだと思って、ぼくは軽くうなずいた。
「いつ生まれるんですか」
「生まれはしないわ。胎児は流れてしまった。おそらく放射能症でしょうね」
「流れた……」
 もうろうとしたぼくの頭がその言葉を理解するまで、だいぶ時間がかかった。それからぼくはエニアを見上げた。エニアは吐き捨てるように言った。
「五日前よ。……この先もう一度妊娠できるかどうかも分からないって」
 エニアは、冷たい顔で博士を見つめた。
「教えて。ヤムも白血病だって言った。あたしも同じように、痛みも分からない体になって死んじゃうの」
 メリンガー博士は、長い間沈黙してから、こくりとうなずいた。
「そうか……」
 エニアは、ふっと表情を緩めた。一瞬、笑ったように見えたけど、すぐに涙を流し始めた。そのまま、ぺたんと床にしゃがみこんだ。
「あたし、死んじゃうんだ……ふふ……ヤムなんかと一緒に……はは……」
 最低、最低、とエニアは泣きながら笑った。
 ぼくは呆然としていた。ぼくが死んでもエニアは生き続け、他の男の子たちの目を集め続ける。そう思ったから、最後にエニアにすがったのに。
 ぼくはエニアが好きだった。可愛いエニアが壊れてしまって、すごく悲しかった。
「なんで……エニアまで……」
「きみたちだけじゃないわ」
 博士の声が聞こえた。
 博士はまた、エニアに死を予告した時よりも長く沈黙してから、言った。
「隠してもいずればれるでしょう。ここで公表するわ。あなたたち皆が……死にます」
 博士の背後の女の子たちが、ひっと息を呑んで凍りついた。
「ど、どうして?」
「五年生のキュラや、六年生のエルマッキが死んだのは知っていますね」
 博士は目を閉じ、悲しげに言った。
「先月末、最後のダクトフィルターが損耗しました。――それ以来、ヒラニプラには外気をそのまま取り入れているのです」
 女の子たちは、無言で顔を見合わせた。でも、誰かに聞く必要なんてなかった。それは、人に聞かなくても分かりすぎるぐらい分かる、簡単な事実だった。
 もう、みんなが毒に侵されてしまったんだ。
「私たちの力はもはや尽きました。教授会はあなたたちに何もしてやれません。速やかな死を望むのであれば医学棟へ。そうでなければ、あとは好きに」
 博士は、最後にしわだらけの顔を歪めて涙を落とした。
「ごめんなさい」
 博士は去っていった。
 泣きじゃくるエニアの笑い声だけが、立ち尽くす女の子たちとぼくの周りを巡っていた。

 6

 ぼくは廊下をのそのそ歩いていた。
 どこかからひっきりなしに悲鳴が聞こえ、空気は煙くさく、爆発音までした。激しい足音が聞こえたから区画壁の陰に身を隠すと、血走った目をした八年生の男の子たちがバタバタと走っていった。
 廊下の角で、誰かにぶつかった。その子が倒れると、ばかでかいザックから圧縮肉のタッパーがいくつも転がった。
 ノクテルとリメルだった。ノクテルはリメルをかばってナイフを振り上げたけど、ぼくだと気付くと、そのまま一度手を止めて、言った。
「ヤム、見逃してくれるか?」
「なんで」
「おれたちは、このまま放棄区画に行って隠れる」
「放棄区画だってここと同じ空気だよ」
「でも他の連中はいない。おれはリメルを守ってやる」
「ああ……」
 ぼくは軽く手を上げた。
「行けば。幸せにね」
「……ありがとう」
 二人が走って行くのを、ぼくは少しの希望を込めて見つめた。あんな連中ばかりだといいな、と思った。
 でも、彼らが向かったのが、さっきの八年生たちのいる方向だということを忘れていた。やがて、ノクテルの絶叫とリメルの悲鳴が聞こえてきた。ぼくは深くため息をついた。
 ヒラニプラは、死につつあった。
 エニアが壊れたあと、博士たちは放送をかけた。死は免れられず、全員が数日で死ぬ。それが知れ渡ると、この騒ぎになった。
 強姦、略奪、逃走、殺し合い。
 ぼくが重い体を動かして歩いて行くと、三年生の部屋のカーテンが開いて、小さな裸の女の子がぴゅっと飛び出した。ぼくに気付いて、悲痛な顔で手を伸ばす。
「助け――」
 上級生らしい太い手が何本もカーテンから伸びて、その子を引っ張りこんだ。中からは数人分の、くぐもった悲鳴や、放心したようなあえぎ声が聞こえてきた。
 ぼくはその前をすぎてさらに歩いた。
 厨房を覗くと、部屋の隅に一人の女の子と二人の男の子がしゃがんで、赤黒いものをむさぼっていた。ぼくに気付いて、女の子が何かを差し上げた。
「食べる?」
 ソックスを履いた足だった。
「本物の肉、初めてでしょ。おいしいよ」
 親切そうに言って、九年生らしい髪の長い女の子はにっこり笑った。顔も服も血まみれだった。周りの男の子たちがうなずいた。三人とも発狂していた。
 それから男の子たちは、髪の長い女の子に視線を向けると、物も言わずに押し倒してナイフを何度も突き立て、その子も食べ始めた。ぼくはそこを離れた。
 またしばらく行くと、廊下沿いの展望窓の前で、五人ぐらいの女の子たちが、飲み物のコップを持って静かに座っていた。
 ぼくを見て、優しく笑う。
「あら、一人?」
「そうだよ」
「一緒に飲まない?」
「いいよ。のど乾いてないから」
「そう。残念ね」
「ね」
 女の子たちは顔を見合わせて笑うと、ぶるぶる震える手でコップの中のものを飲んだ。
 そして、次々に口から血を吐いて倒れた。
 ぼくも倒れた。もう限界だったんだ。エニアに刺された背中からは、ずっと血が流れつづけている。痛くはなかったけど、どんどん力が抜けていった。
 でも、ここで死にたくはなかった。ぼくは這って進んだ。
 もう、ヒラニプラに期待できることは何もなかった。逃げ遅れた女の子たちはみんな犯されてしまうだろう。広大な放棄区画に逃げ延びたカップルだって、放射能症で死ぬだろう。たてこもった連中は食料がなくなるだろう。飢え死にするぐらいならまだいい。最悪、強いやつに食べられる。さっきの場所ではもうそれが始まっていた。リメルやエニアだって今ごろは……。
 ヒラニプラのものはすべて、消え去ってしまうんだ。
 いや。
 ぼくは、ともすれば気を失いそうになりながら、必死に廊下を這い進んだ。
 消えない。
 消さない。
 ただ一つ残るものがある。
 実際に何度か気を失い、そのまま冷たい眠りに落ちそうになりながら、ぼくは笑えるほどのろのろと廊下を這いつづけた。正気ならとても這っていけるような距離じゃなかった。ひょっとしたら、狂っていたからこそたどり着けたのかもしれない。
 放棄区画のハッチにつくと、ものすごい努力をしてハンドルを回した。それが終わるころには、ほぼ体力を使い果たしていた。
 ギイ、と開いたハッチから、ひょうひょうと冷たい風が吹き込んできた。ぼくはその中に身を乗り出し、斜面を砂浜に向かって転げ落ちた。
 うまい具合に満潮だった。ぼくは波打ち際に横たわって、空を見た。
 雲はいよいよ低く、辺りは夕暮れのような暗さだった。強い風が海から陸に吹きまくっていた。海鳴りがどうっと鳴ったかと思うと、強い波が打ちつけて、ぼくの体を揺さぶった。
 水は、やっぱりぬるかった。事実じゃないけど、意識や五感が、皮膚から遠く離れた体の内側に縮み上がってしまったようで、水の冷たさも分からなかった。外界のことはぼんやりとした影絵だった。
 そんな中で、ぼくは最後の行動を取っていた。
 ピシッピ・ピシッピ・ピシッピ・ピッ
 指先に力を注いで、水をはじいた。必ず来る、という確信があった。
 そして、来た。
 空を向いたぼくの視界に、鉄灰色の雲を背景にして、若草の塊のような透き通った緑色の姿が現われた。
 やっぱりネクティスは、最後までぼくを見捨てなかった。
「……」
 声を出したつもりだったけれど、気管に水が入っていた。ぼくはせき込み、いつまでもせき込んだ。根こそぎ気力を失って、そのあとしばらくぐったりと横たわった。
 ネクティスはそんなぼくを見つめていたけれど、すぐに、いつもと同じ理由で呼ばれたと解釈したらしかった。波打ち際にやってきて、ぼくのズボンを下ろし、両足を開かせた。
 それから、ぼくの上に横たわってきた。
『リ・イ』
 動かないぼくに、微笑みながらネクティスはおっぱいとあそこをこすりつけた。何秒かに一回波が押し寄せて、ぼくらを丸ごと飲み込んだ。ネクティスは息が楽にできて、嬉しそうだった。
 ぼくの体は、ぼくの意識ほど軟弱じゃないみたいだった。ネクティスのしなやかで強い体の重さがかかると、ぼくより先にペニスが気付いて、ゆっくり脈打ちながら大きくなった。
 ネクティスはそれを持つと、心得顔で自分の下腹の位置を合わせた。ちょうど男女逆の正常位みたいな形になる。
 そしてネクティスは、目を細めてのどをさらしながら、腰を進めて犯された。
『アア』
 ネクティスはうっとりとぼくを抱きしめながら、腰を上下させてぼくに犯される。ぼくが何もしないのに「犯されてくれ」る。本当に、どこまでも、果てしなくネクティスは従順だった。
 ぼくはセックスしに来たわけじゃなかった。でも、今までの何十回もの愛撫と同じように、ネクティスの無限の献身を受けていると、矢も盾もたまらず犯したくなってきた。
「……」
 ぼくのかすかな口の動きを、ネクティスは利口に読み取った。はじけるようなおっぱいでぼくの頬を挟みこみながら、腰と下肢を激しく上下させて、思いきりぼくのものを絞り上げた。
 意識の底にかすかな白い光が生まれて、小さくはじけた。
 それが射精だった。ぼくは、前立腺を出た精液が尿道を走ってネクティスの子宮に流れこんで行くのを、おしっこをする時のように落ちついたまま感じていた。ネクティはちろっと舌を出して目を強く閉じ、感極まったようにイっていたけど、ぼくの快感は小指の先のような鈍くて小さなものだった。
 その射精の時に、ぼくの中でトコトコいっていたものが、二回ほどストップした。最期なんだな、としみじみ思った。心臓ももうだめだ。
 そう、ぼくは死ぬ。
 でもただじゃ死なない。ヒラニプラのみんなのように朽ち果てていくだけじゃない。ネクティスとは子供を作れないけど、だからってあきらめない。
 ぼくは血を吐くようにして気管の水を押し出すと、この世界に刻み付けるようにはっきりと、言った。
「ネクティス
 ぼくを
 食べて」
 その時、不思議にも風が止まって、雲が切れた。白い光のはしごが斜めに何本も降ってきて、あたりを照らし出した。海鳴りさえ消えた空っぽの静寂の中で、ぼくはぼくがほんのわずかしか知らなかった世界を、以前より少しだけ余計に見た。
 緑の海を白く長く照らす光の道。
 沖合いはるかに伸びたその道の果てに、夕焼けの時にすら見えなかった新しい陸地の形が、確かに見えたような気がした。
 海の果てにある、新しい世界。人間はそこにたどりつけない。でもネクティスなら行ける。
 ネクティスとひとつになれば、ぼくだって。
 ネクティスが不思議そうに顔を寄せる。ぼくは顔をあお向け、自分の喉を指差し、それから指をネクティスの唇に当てた。
 その瞬間、心臓が止まった。
 ぼくはこときれ、目から脳に入ってくる最後の光景を見た。
 ネクティスの笑顔。分かった、というような嬉しそうな笑顔。
 何が嬉しいんだろう。こき使われた恨みを晴らすことか? 新しいエサを食べられることか? 人間の命令を果たせることか?
 いや、そうじゃない。
 ぼくは確信する。ネクティスも、ぼくを愛してくれていたんだ。
 なぜなら、喉に突き刺さった彼女の牙が優しかったから。一番大切なものに触れる慈しみがあったから。
 丁寧にむさぼられながら、ぼくは喜びの海にひたる。
 ネクティス。
 一緒にどこまでも行こう。


―― 終わり ――

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