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クリスタルグリン・マーメイド  − 前編 −


 メタクリル窓の向こうの海の中に、緑の海の水よりもっと透き通った緑の、どきっとするほど綺麗な女の子が、何ひとつ隠さない裸で浮かんでいた。

 1

 ――その頃ぼくたちは、ちょっとでも健康な女の子をパートナーにしようと、野良犬みたいにギスギスした顔で、お互いの隙をうかがっていた。
 パートナーを見つけるのは大事なことだ。ほとんどそのためだけにぼくたちは生きていると言ってもいい。パートナーを見つけて、セックスして、子供を作る。それがぼくたちに与えられた一番大事な務めだ。
 与えられた? そう、この仕事は博士たちに、「総滅戦」の前から生きている化け物みたいな爺さん婆さんたちに、命令されたものだ。
 可能な限り多くの子供を作れ。
 その理由はみんなよく分かっている。「総滅戦」で世界は壊されてしまった。陸地は見渡す限りの砂漠になり、大気は長半減期の放射性物質で満ち、海は銅を始めとする重金属が溶け込んで死の緑色に染まった。
 この街は海からプランクトンやネクトンを漉しとって食べ物を得ているけど、その食べ物にも重金属や放射能が無視できないほど含まれている。ぼくらはそれを食べるしかないから、体内に有毒物質が蓄積して、死ぬ。
 そりゃもうバタバタ死ぬ。去年一年間に生まれた子供は三百八十五人。うち百二人がその年のうちに死んだ。乳児死亡率、二十六パーセント。「総滅戦」の前のどんなひどい国だって、こんなに赤んぼが死にやしなかった。
 だから博士たちは、子供を作れ、と言う。
 だからぼくたちは、セックスする。
 でもそれだけが理由じゃない。
 この、海と陸の境目にある街――ヒラニプラにうんざりしていたからだ。
 ヒラニプラは閉鎖都市だ。ずっと前に建設された研究学園都市。その高度な科学力と機械群が、「総滅戦」の時に巨大な街全体を完全に密封したので、ぼくのご先祖たちは生き残ることができたんだ。
 偉そうに。なんだって生き残ったんだか。
 いっそ全滅してしまえばよかったんだ。いくら大きいっていっても、とどのつまりヒラニプラは箱庭だ。ぼくらは一生その外へ出ることはできず、小さなメタクリル樹脂の窓から外界を見つめることしかできない。
 灰色の陸地とうす気味悪い緑の海に挟まれた、息が詰まりそうな牢獄。
 その拷問に耐えるために、ぼくたちは仲間と圧縮肉の切れっぱしを争い、廃棄区画の機械を壊して回り、女の子に贈り物を届け、そして――セックスする。
 ちょっとでも現実を忘れるために、キモチのいいことをする。男の子も、女の子も。


 そんなギスギスした毎日だけど、だからこそ、四六時中ケンカをしているわけにはいかない。夜、部屋に戻れば、二つの四段ベッドに八人の男の子が集まる。そこを非戦闘区域にするのは、ぼくたちの暗黙の掟だった。――すぐ破られる掟だったけど。
 その夜は、掟がなんとか守られ、恒例のイルチとジミタの飲料尿ゲンカも口先だけで収まった、しずかな夜だった。
「ヤム」
 三段目のベッドに入ったぼくに、一番上のノクテルが小さな声で話しかけた。
「あのな……すげえニュースがあるんだ」
 ぼくは無視して、壁に差し込んだイヤフォンのリズミックを聞いていた。ノクテルの「すげえニュース」に乗ると、すぐ配給メダルをたかられる。昨日も二十トークン巻き上げられた。
「ほんとにすげえんだ」
 トロット・トロット。単調な弾楽に合わせて壁を指ではじく。作曲機が毎週作る不思議なリズミック。いや、曲じゃないらしいんだけど、意味を調べようとするやつはいない。
「なんだ……聞く気ないのか」
 ノクテルはしばらくベッドのはしからこっちを見下ろしていたけど、じきに顔を引っ込めた。
 ちょっと気になった。ノクテルがこんなにあっさり引っ込むなんておかしい。
 メダルがほしいんじゃないのかもしれない。ぼくは顔の上の天井を蹴った。
「なんだよ」
「ん……いいよ」
「よくないよ。言い出しといてなんだ」
「聞きたいか」
「聞きたいよ」
 正直どうでもよかったけど、ぼくはうなずいた。
 するとノクテルは、再びベッドのはしに顔を出して、前回りでこっちに降りてきた。
「実はな……」
 そう言ったけれど、ノクテルは後を続けようとしない。なんだか変にゆるんだ顔で、にやにやしている。ぼくはイヤフォンを外して、その胸を押した。
「早く言えよ。もったいぶらないで」
「ん。……リメルとやった」
 ぼくはしばらく、意味がわからずに、あぐらをかいて膝をつまんでいるノクテルを見つめた。
 その、彼らしくもない照れの仕草と、今の言葉が、ゆっくりと頭の中で結びついた。
「やったって……セックス?」
「しーっ」
 ノクテルが指を立てたけど、遅かった。
「セックス?」「誰だ、ノクテルが?」「マジかよ!」
 部屋中のみんながいっぺんに顔を出した。こういうことになるとほんとに耳がいい。
 ノクテルは、かえって得意げに胸を張った。
「ああ、やった。一番乗り……だよな?」
 部屋を見回す。みんなはこくこくとうなずいた。ぼくもだ。
 この街の若者の仕事が子供を作ることだっていっても、ぼくたちエレメンタルの五年生は、まだ誰もセックスをしたことなんかなかったんだ。
「聞きたいか」
「当たり前だろ!」「言えよ、早く」「リメルと? どこで?」
 ノクテルはぼくに構わずにするりとベッドを降りて、床に座りこんだ。みんなが次々と車座になり、ジミタが戸口で見張りに立った。
 ノクテルが低い声で話し出す。
「今日の仕事のあとよ、二人で医学棟のCT室に行ったんだ。あそこ人いないし、ベッドあるだろ。約束してあったから、リメルは素直についてきた。そこで一発キメてやったよ」
「あのうるさいリメルが?」「どうだった、よかった?」「リメル、イったか?」
「イったよ。中にどくどく出したら、まっかな顔で『熱いっ』つって、ぶるぶる震えて」
「げえ、マジ?」「一発かよ」「フェラは?」「ま、マンコってどうなってんだ」
「おい、待て待て」
 部屋長のケックが仕切る。
「いっぺんに聞くな。一人ずつだ一人ずつ。ヤム、おまえは?」
 ぼくはベッドから半分顔を出したまま、言った。
「ぼくはいいよ。……あ、一つだけ」
「なんだ」
「昨日の二十トークン、プレゼントに?」
「そうさ」
 ノクテルが言った。
「あれで百貯まったから、農業室でバラ買ってきたのさ。それ渡したら、リメルなんかイチコロだったよ」
「……そう」
 ぼくはベッドに寝転がった。
 ――つまり、女子五年のリーダーのリメルも、結局はプレゼントで落ちるような子だったんだ。
 自分でもおかしかったけど、妙にさめていた。
「……で、リメルのマンコはさ、澄ました顔してるくせにやけに色赤くてよ。びらびらがあって毛も少し……」
「毛ぇ?」「あいつもう生えてんのかよ」「に、匂いは?」
 みんなの熱っぽいひそひそ声を聞きながら、ぼくはぼんやり考えた。
 セックスがしたくないわけじゃない。むしろ、すごくしたい。去年からマスターベーションも始めたし、イルチに見せられた昔のフォトで、やり方も覚えた。
 でもぼくはノクテルほど要領がよくない。ケックほどカッコいいわけでもない。だから今まで、セックスなんて当分先だと思ってた。ひょっとしたら、一生できないかもって。
 だけど、リメルでさえ。
 真面目なリメルでさえプレゼントで落ちたんだから、エニアならなおさら。
 ぼくが狙ってるのは、六年のエニアだった。狙ってるなんて言うのもおこがましい。エニアはプラチナの糸みたいなきれいな髪が自慢で、月一回の定期検診でも体重が落ちたことがなくて、ぼくたち五年生や六年生たちの憧れの的だった。人気がありすぎて、かえって誰も手を出していないくらいだ。
 だから逆にチャンスがあるかもしれない。エニアはプレゼントが好きだって公言してる。そしてぼくには、今まで二年間貯めたメダルが、二千トークンもある。
「……それでよ、乳首なめながら「入れていいか?」って聞いたら、うんうんって言いながら「ちゃんと養ってね」とか言いやがって……」
 ぼくはまたイヤフォンをさして、ノクテルの声を消した。
 トロット・トロット。リズミックで心を静めて、マスターベーションを我慢した。

 2

 日に日に壊れていく街を維持して、毎日の生活に必要な品物を作るために、ぼくたちは一日十一時間、週六日働く。朝七時から夕方六時まで。夜中はロボットが監視作業だけをする。
 男の子は食料プラントと動力プラント。女の子は縫製工場や厨房。時間は同じだけど、子供を産む女の子のほうが安全で楽な仕事を与えられている。
 これがどういうことかというと、毎日夕方六時になると、みんな一斉に自由になるってことだ。だから、抜け駆けするのはすごく難しい。
 でも、ちょこっとの運と知識があれば、女の子と二人きりになることもできないわけじゃない。
 ぼくはその日、知識を使ってストレージ棟に潜りこんだ。理由は分からないけど、エニアがたまに、人気のないここに来ているのを知っていたから。
 そして、運もどうやらあったらしかった。
「エニア」
 曲がり角をから声をかけると、少し先でエニアが振り返った。プラチナの髪がふわっと浮く。
 ぼくはいつも見とれてしまう。
 白いタイトスーツの胸が、もう膨らんでいる。腕もふっくらしてすごく柔らかそうだ。
 女の子はみんなスカートを短くして男の子を誘っているけど、中でもエニアは思いきり切り詰めている。ぷりっとしたお尻で持ちあがった裾から、ショーツの端が見えそうなぐらいだ。実際、むちむちした太ももの間に白いショーツが見えることもよくある。わざと見せてるんだろう、と言われてもエニアは否定しない。
 そんな肉付きのいい体で、背丈が一五八もあるから、八年生や九年生ともうセックスしてるって噂もある。
 ぼくは、つい下のほうに行ってしまいそうになる視線を、苦労して持ち上げながらエニアを見つめた。エニアは切れ長の目でぼくを見返して、「なあに?」と柔らかく言った。
「ぼ、ぼく五年のヤムです」
「ヤム? ……ああ、知ってるわ。前期の労働賞をもらったコよね」
 体がふわっと軽くなったみたいだった。ぼくのことを知ってくれていたなんて。
「なんの用?」
 エニアが近づいて、覗き込んだ。ぼくのほうが三センチ低い。クッキーの匂いがした。
「これ……」
 ぼくは、後ろ手に隠していたものを突き出した。ばさっ、と包みがエニアの胸に当たる。
「まあ……」
 エニアはびっくりしたようにそれを見つめてから、手に取った。受け取ってくれた!
「開けていい?」
「うん」
 がさがさとスフ紙を破る。出てきたものを見て、エニアはぱっと顔を輝かせた。
「ドレス……」
「越冬祭、もうすぐだから」
 ぼくが選んだのは、シルクの紅いドレスだった。縫製工場の再生品じゃない。昔の居住棟からごく稀に見つかる、発掘品だ。需品部の婆さんに渡す賄賂も入れて、六百トークンもした。食べ物が貴重なここヒラニプラでも、百回は食事ができる金額。
「高かったんじゃない?」
「別に……」
「ありがとう、嬉しいわ」
 エニアは太陽みたいに笑う。それだけでぼくはとろけそうになる。セックスさせてくれって言いたかったけど、とても無理だ。
 そう思っていたら、エニアが突然、ぼくの手を握った。
「ね。……あたしのことが好きなの?」
 どきん、と心臓がはねた。ぼくはこくっとうなずいた。
「じゃあ、あたしと……したい?」
 はねるどころじゃなかった。心臓ががんがん鳴って耳元で血の音がした。
 エニアはピンクの唇をきゅっと吊り上げて、死ぬほど色っぽく笑った。
「じゃあね、今は時間がないから……ほんのちょっと、ね」
 エニアはぼくの手を引っ張った。夢の中のようにふらふらした足取りで、ぼくはついていった。
 狭い備品庫の中に入った。エニアは注意深くドアノブをいじって、鍵がかからないようにした。閉めないのかなと思ったのは一瞬で、エニアの腕が触れて、電気が走ったみたいにぼくは震えた。
 エニアはボックスに腰掛けて、甘えるようにぼくを見つめた。
「いいわよ……」
「いいわよって……せ、セックス?」
 くすっと笑うと、エニアはぼくの手を取って、妙なことを始めた。
 さっきのドレスを包んでいたスフ紙でぼくの両手を包んで、ひもで縛ってしまう。ぼくは、古いポスターで見たボクシングの選手みたいな格好になってしまった。
「ちょっとって言ったでしょ。そうやって触るだけよ」
「紙越しに?」
「いや? いきなりセックスなんて礼儀知らずじゃない?」
 からかうようにエニアが笑う。ぼくはあわてて首を振った。女の子に触るのだって、生まれて初めてだ。
 つばを飲んで、ぼくはエニアの肩をつかんだ。それから、エニアを触り始めた。
 腕。首。胸。おなか。服と紙の二重の邪魔ものがあったけど、それを通じても分かる。柔らかいあったかい柔らかいあったかい。弱く揺する。ぐっとつかむ。指先が溶けて埋まってしまいそうだ。
 本当にエニアの体はきれいだ。健康度だけならエニアより高い女の子もいるけど、エニアは太ってはいない。太る前ぎりぎりでたっぷり肉をつけている。肌も白くてつやつやだ。エニアとやるのとエニアを食べるのとどっちがいいか、そんなバカな言い合いでケンカがおきたこともある。
 ペニスがズボンに堅く食いこんで痛い。息が台風みたいにぜいぜいとのどを通る。エニアが「息かけないで……」と顔をそむける。あわててよそを向いて、手をうんと伸ばした。
 エニアは白い太ももをぴったり合わせている。そこに手を突っ込むと、ぎゅーっと強く挟まれた。力を入れて無理やり開かせて、スカートをめくろうとすると、手を押さえられた。
「見ちゃダメ。それに、もっと優しく……ね?」
「う、うん」
 エニアが少しだけ、足を開いた。ぼくは頭が爆発しそうに興奮しながら、そこに手を入れた。
 肌に針を刺したら肉があふれてきそうなぐらい、ぴんと張りつめた太ももの奥に、狭くて柔らかい場所があった。スフ紙のがさがさがじれったい。〇・一ミリでも近づけようと、指先を覆うしわをできるだけ少なくして、ぼくはエニアのあそこに押しつけた。
 くにっ、とデザートのゼラチンみたいな感触。
「んふ……うふ……」
 ものすごくいやらしい眺めだった。ぼくの目の前に憧れのエニアが座っていて、そのスカートの奥に手を突っ込んで、ごそごそ触っている。エニアは大人びたかわいい顔をほんの少し赤くして、ぼくの腕に両手の爪を食いこませ、きらきら光る目で自分の股のあたりを見ている。
 ぼくは我慢できずに、左手をペニスに押し当ててぐいぐい動かした。
「エニア……キモチいい?」
「いいわよ。ヤム……上手ね」
「ぼくも……ぼくもいいよ。エニアってぷにぷにで熱くって……」
「セックスしたいのね」
 エニアがぼくを見上げた。その赤くなった顔を見たとたん、ぼくは抑えが効かなくなった。
 このまま裸にして噛みついて突っ込んでたくさん出してちぎって食べてやる。
「えっ、エニアっ!」
 さっとエニアの目が冷えた。まるで予想していたような変わり方だった。
 抱きすくめようとしたぼくの腕を、空気みたいにするっと避けて、エニアはドアに走った。ドレスは忘れずにつかんでいる。そのままドアを開けて、外に出ていった。
「エニア……」
 足元の床がなくなったような気持ちだった。いっぺんに熱が冷めた。
 ぼくは、なんてことをしてしまったんだろう。
 せっかくエニアがチャンスをくれたのに、欲望に負けてそれを逃してしまった。
 エニアはちゃんと、危なくなるって分かってたんだ。だからドアの鍵を開けておいたんだ。ぼくの汚い気持ちなんかお見通しだったんだ。
 高望みだった。分不相応だったんだ。
 涙が出てきた。視界が曇った。
 それを拭く気も起きずにぼんやり立っていると、ぼやけた視界に、白いものが映った。
「ほんと、男の子ってせっかちなんだから」
 あわてて涙を拭くと、ドアから体を半分入れたエニアが見えた。
「エニア! ああ、ごめん!」
「いいのよ。あたしと触りっこしたんだから、したくなるのは当然よ」
 エニアはまた、優しくにっこりと笑った。
「でも、言ったでしょ。最初からセックスはさせてあげない。ちゃんと手順を踏んでから。今日はここまで。――ね?」
「う、うん」
「また来てね」
 さっとエニアは出ていった。


 その後どこをどう歩いたんだか、よく覚えていない。エニアに許してもらえた嬉しさで、ろくに標識も見ずに、歩いたり走ったり立ち止まったり叫んだりしていたような気がする。
 ふと気付くと、照明の消えた薄暗い部屋にいた。
 壁の一面が水槽になって、そこから緑色の光が差している。こんな部屋、見たことない。――いや、人に会いたくなかったから、放棄区画の方に来てしまったんだ。見たことがないのは当たり前だった。
「ふふふ、エニアか……」
 ぼくはだらしなく笑いながら、ぶらぶら部屋の真ん中に歩いていった。あの子と、エッチなことができた。また来てねって言ってくれた。
 やった。ちくしょう、やったぞ!
 どん、と水槽に背中でもたれて、長々とため息をつく。
 ノクテルに自慢してやろうかな。セックスしてからのほうがいいかな。それとも、あいつはおしゃべりだから、話さないほうがいいかな。
 いいや、話さなきゃ。なんたってあいつはもうセックスしてるんだから。本番のときにどうやったらいいのか、詳しく聞いたほうがいい。ああ、この前ちゃんと聞いておけばよかった。
 そんなことを考えながら、無意識に手の甲で水槽を叩いて、リズミックの鼻歌を歌っていた。トロット・トロット。
 そうだ、セックスだ。ぼくは、ひょっとしたらエニアとセックスできるかもしれない。ううん、きっとできる。あんなに優しく笑ってくれたんだから。体を触らせてくれたんだから。
 思い出すと、また胸がどきどき鳴り出した。エニアの柔らかい体。いい匂い。
 ペニスが大きくなる。ぼくはきょろきょろ辺りを見まわした。誰もいないんだから、ここでマスターベーションしたって……
 ゆらり、と影が動いた。
「え?」
 ぼくはもう一度周りを見た。誰もいない。実験卓が一つだけ置かれた暗い部屋には、水槽からの緑の光が満ちているだけだ。
 水槽の、光……照明が死んでいるのに、光?
 違う、水槽じゃない。窓だ。ここは海面下の部屋なんだ!
 また、影が動いた。緑色の光が波打って右から左へと乱れていく。
 ゾッと鳥肌が立つのを感じながら、ぼくはおそるおそる振り向いた。
「ひ……!」
 そこに、彼女が――
 
 メタクリル窓の向こうの海の中に、緑の海の水よりもっと透き通った緑の、どきっとするほど綺麗な女の子が、何ひとつ隠さない裸で浮かんでいた。
 
 心底驚いた。
 ぼくは指一本動かせずに、その子と向き合っていた。
 まばたきしない大きな海草色の瞳が、ぼくをじっと見ていた。あごは丸く、唇は薄く、鼻の形ははっきりしなくて、おまけにちょっと八重歯が覗いていて、四年生の子供みたいに幼なかったけど、寒気がするほど綺麗だった。
 可愛い女の子だった。――でも女の子のはずがなかった。
 人間のはずがない。放射能の空気と銅の水の中に出ていく人間はいない。そんなことをすれば、ただでさえ短い寿命が十分の一に縮んでしまう。それに、人間の女の子が、初対面から裸を見せるはずがない。
 いや、そんなのは大事なことじゃない。
 だって彼女には――足がなかった。
 足がなくて、腰の下は長い尾になっていた。耳のところには手のひらぐらいの放射状のひれがついていた。ゆるやかに右のほうに流れている、体長と同じぐらいある黒い髪は、三秒に一回ぐらいのサイクルで太くなったり細くなったりしていた。
 海の中に女の子がいる。
 その驚きは、ゆっくり別の驚きになった。
「あれ」が目の前にいる。
 ……日曜日の授業で見せられた資料を思い出した。「総滅戦」で使われた数々の兵器。その中には、作った人間の正気を疑うような奇怪なものもあった。人間の脳を使ったコンピューターや、人間の手足を使った動力源、それに、人間そのものを改造した兵器。
 そのひとつ、ネクティ。
 誰でも知っていることだけど、圧縮肉の原料の「プランクトン」と「ネクトン」は、「浮遊生物」と「遊泳生物」のことだ。その名を付けられて、遊泳動物に改造されてしまった人間が、ネクティだ。
 まさかそれが、目の前に現われるなんて……
 ネクティは、かすかに尾を動かしながら、直立した状態でじっとこっちを見ている。姿は人間に似ているけど、人間のような知性はないはずだ。攻撃してくるのかどうか、よく分からない。
 ぼくは左右を見て、メタクリル窓の厚さを調べた。――七センチはある。これなら千メートルの水圧にも耐えられる。攻撃されても大丈夫だ。
 安心したぼくは、じっくりとこの珍しい生き物を見つめた。
 身長は――いや体長は、ぼくより少し小さいぐらい。年も下かもしれない。顔はそれぐらいだ。でも胸はふくらんでいる。
 上半身は人間によく似ている。髪の太さが変わるのは、それが「えら」だからだけど、最大でも二ミリぐらいにしかならないから、あまり違和感はない。鼻は匂いをかぐだけの器官になっているはず。耳のところのひれは外耳だ。左のほうがちょっと大きい。
 腕や胴は人間と変わらない。ちゃんとおっぱいが、乳房がある。緑色の……
 一番変わっているのは尾。尾というか下肢というか。
 おとぎ話に出てくる人魚とは、似ているようで違う。腰の下から伸びる下肢は、魚みたいなものじゃない。二本の足が融合したものだから、骨も二組あって、膝の位置で曲がり、先端は小さな二枚のひれになっている。早い話がアザラシと同じだ。
 でもネクティの下肢には、毛もうろこもない。エメラルド色の肌はつま先までずっと滑らかなままだ。
 そんな姿を、ぼくはガラスに穴が開くほど夢中で見つめた。
 見れば見るほどきれいだった。人間を壊して作られたもののはずなのに、元からそういう姿だったみたいに、自然で美しい生き物だった。
 それにしても……
 ふと疑問が湧いた。
 どうしてこのネクティは、ここに現われたんだろう?
 その答えは、すぐわかった。
 ぼくが身動きした拍子に、手が窓にあたった。コツン、という音を聞いて、ネクティはピクッと耳びれを動かした。
「ああ、そうか」
 窓を叩いていたから、それを聞きつけたんだ。
 ぼくはもう一度窓を叩いてリズミックを鳴らしてみた。トロット・トロット。するとネクティは、その指のところに顔を寄せて、カリカリと引っかいた。
 目が寄っていて、なんだか可愛かった。
 リズムを変えると、こっちを向いて、唇から八重歯を出して、うれしそうに笑った。
 笑ったんだ。
 その笑顔はエニアとは全然違っていた。すごく純粋な、生まれて初めて笑う赤んぼみたいな、混じりけのない笑みだった。
 ぼくがリズミックをやめると、ネクティはまた上っていって、直立した。
 しばらくして、ぼくは気付いた。この子は命令を待っているんだ。ネクティはそういう風に作られているものだから。
「命令か……」
 ぼくはちょっと考えこんだ。
 この子はやっぱり、人間じゃない。寄ってきたのは、人工の音を聞いて反射行動を起こしたせいだし、命令がないから動こうともしない。ほっておけばいつまででも、多分、飢え死にするまでここで待っているだろう。
 絶対服従する女の子。
 何かがチリッとぼくの背筋を走った。
 ぼくはネクティを見上げた。いや、女の子だからネクティス、かな。
 ネクティスは、当たり前だけど、何も着ていない。丸見えだ。
 おっぱいも、あそこも。
 この子は人間じゃない。でも、それは下肢や耳だけだ。他のところは人間そっくり。そしてこの子は、エニアと違って、それを隠そうともしないんだ。
 ごくっとつばを飲んで、ぼくは言った。
「……おいで」
 手招きする。ネクティスは素直に近づいてきた。ぼくは顔を窓に押しつける。
 海水は緑だけど、濁ってはいない。ネクティスの体が、血管が透けるほどくっきり見えた。
 おっぱいは小さめだけれど、完璧な形をしていた。水の浮力できれいな半球になっていて、少しも垂れていなかった。乳首は小指の爪ぐらいもないほど小さくて、少しだけ緑が濃い。かすかな水の流れでもふるっと揺れているから、ずいぶん柔らかいんだろう。ぶつけたら傷ついてしまいそうなほど、肌もすべすべだ。回遊魚の腹みたいにつやつやしていた。
 ぼくはだんだん興奮してきた。多分、すごくあさましい顔でじろじろ見ているはずなのに、ネクティスはおとなしく立ったまま、静かにこっちを見ている。
 それどころか、ぼくが夢中で手招きしたら、すっと近づいてきて、窓におっぱいを押しつけてくれた。
 むにゅっと真ん丸の接触面ができた。思った通り、すごく柔らかそうだった。ぼくは思わず、窓に唇を押しつけていた。
 冷たい硬さ。人間じゃない怪物。それがなんだって? 目の前に本物の、絵でもフォトでもない女の子のおっぱいがあって、思う存分見られるんだ。ぼくはそのことで頭が一杯だった。
 みっともなく窓をなめ回しているうちに、小さな乳首がくりっくりっと動いた。よく見ると、ネクティスも胸を押しつけたままちょっとずつ体を動かしていた。ぼくと目が合うと、大きな目を細めてにーっと笑った。
 それからまた、切なそうに乳首を押し付ける。下半身も。
 ぼくは、細かく震えながらネクティスの下半身に目を移した。他の女の子なら、絶対に見せてくれないそこを――
 ネクティスはぴったり窓に押しつけていた。
 薄く盛りあがったスマートな腹筋の下、骨盤のV字が合わさるところが少しへこんで、その真ん中にネクティスの性器があった。その下には、太ももが融合したむっちりした下肢が、細いひざ小僧まで続いている。
 ネクティスの性器は、人間と違って、他のところよりも色が薄かった。わずかに緑がかった生白いひだが、縦長の亀裂を挟んで左右二枚ずつ重なっている。そのてっぺんには小さな突起が――
 ぼくは目をそらしそうになった。なんとなく、魚の排泄口みたいな味気ない穴を想像していたのに、ネクティスのそこは、イルチに見せられた女の子のフォトにそっくり――ううん、人間の女の子に比べて毛がない分、よけいいやらしくて、よけいショックだったんだ。
 ネクティスがそこを押しつけているから、プレパラートで挟んだ顕微鏡標本みたいに、平べったく潰れたひだや粒がまざまざと見える。どんな女の子だって、たとえ恋人同士だって、こんな風に見せてくれやしない。
 もう限界だった。ぼくはズボンを脱ぎ捨てた。ペニスをつかんで、力いっぱいしごき始めた。
 なんてみっともないんだろう――そういう思いはすぐになくなった。ネクティスはぼくのペニスを見ても、いやな顔をしなかったんだ。かすかに笑ったまま、おっぱいとあそこを窓に押しつけるだけ。
 やっぱりこの子は人間じゃない。恥ずかしいなんて思わなくていい。
 そう分かると、あとは欲望しかなかった。
「あ、あ、あ、あ……ああっ!」
 エニアに焦らされていたから早かった。ぼくはこの可愛いネクティスのあそこに突っ込んだつもりで、思いきり射精した。ひだとひだの間に向かって青白い液が飛んで、メタクリル窓にぶつかってだらだら流れ落ちた。
「はあーあ……」
 窓にもたれかかって、ぼくはぐったりとひざを付いた。
 いつのまにか閉じていた目を開けると、顔を下げたネクティスと目があった。不思議そうに窓にかかった白い液を見ている。それから、自分のあそこに目をやった。
 指で、軽く触れる。
 ぼくはなんだか、すごく恥ずかしくなって、手を振った。
「こら。……そんなことしちゃだめだよ」
 するとネクティスは、何を思ったのか、くるっと身をひるがえして強く水を蹴った。
「あ……!」
 止める間もなく、ネクティスは緑色の海の中に消えてしまった。
 ぼくはしばらく、ぼんやりと窓の外を見ていた。岩礁にたゆたうひょろりとした海藻と、ゆっくり歩く気味の悪い真っ白い蟹。ネクティスは戻ってこない。
 戻って来たって……なんになるんだ?
 ぼくは今さらながら気付いた。あの子に言葉は通じない。声をかけても届かないし、絶対に触れることはできない。
 あの子は、この海に適応したネクティで、自由にどこへでも行ける。でもぼくは、閉じ込められた囚人なんだ。
 今のことは一時の夢。
 ――そう思いながら立ちあがったけれど、また会いたい、という気持ちを消すことはできなかった。

 3

 その気持ちは、あてのない願いじゃなかったんだ。
 あれから何度か、ぼくはエニアにプレゼントを贈った。なんと言っても、エニアは本当にセックスできるかもしれない相手だったから。
 エニアはいつも、笑ってプレゼントを受け取ってくれた。でも、最初のときみたいに触らせてくれることはなかった。ひょっとしたら、あのドレスほど素敵なプレゼントを渡せなかったからかもしれない。だとしたらぼく自身が好かれてるわけじゃ――
 そんなことを考えそうになるたびに、ぼくはあの窓の部屋へ行った。でも、ネクティスは姿を見せなかった。
 ぼくはそこで、直前に会ったエニアの顔や、ネクティスの体を思い浮かべながらマスターベーションしていたけど、やがてあることに気付いた。
 ネクティスがやってきたのは、リズミックの音を聞いたからだ。リズミックは、作曲機が作っている。
 でもあれは、もともと作曲機なんかじゃなかった。
 ぼくは記録棟に飛んでいって、ネクティの資料を調べた。そして、踊り出したいほど嬉しいことを見つけた。
 今ではほとんど誰も見ようとしない古いファイルの中に、リズミックでネクティを操る方法が書いてあったんだ。
 リズミックをうまく使えば、ネクティにいろいろな命令を出すことができる。というより、もともとリズミックは、ネクティのような水棲動物とコミュニケートするために作られた音波言語だった。作曲機はそのシーケンサーなんだ。
 ぼくはその古いファイルを持って作曲機のところへ行き、楽譜をコンバートして命令文をリズミックに直した。そして、その弾楽を頭にたたきこんだ。
 どきどきしながら窓の部屋に下りて、メタクリル窓で再召集のリズミックを叩くと――来てくれた!
 緑の水の奥から、あのネクティスが本当に来てくれたんだ!
 前回は、ぼくが最後に手を振ったのを見て、任務終了の合図だと誤解したらしい。今度は誤解なんてさせない。ぼくは的確な命令でネクティスを窓のそばまで来させると、彼女の体を眺めながら、もう一度思いきりマスターベーションした。
 その時に、気がついた。
 ネクティスも、どこかで聞いてきたらしい。ぼくのペニスを見て、自分のあそこを見比べ、それが生殖器だって理解したそぶりをした。
 そして――一緒にマスターベーションしてくれたんだ。
 ネクティの性行為なんか知らない。でも、昔の「総滅戦」から今まで生き残っているってことは、ちゃんと繁殖しているんだろうし、性器の形も人間によく似ているから、セックスのやり方も近いんだろう。
 ネクティスは、ペニスをしごくぼくの前で、うっとりした顔で指をあそこに当て、軽くひだを開きながらいじって、いっしょにしてくれた。
 ものすごくうれしかった。間に窓があったけれど、そんなこととは関係なく、セックスしているような気持ちになった。この子はぼくを主人として認め、なんの代償もなしに、ぼくの性欲のはけ口になってくれたんだ。
 ぼくが射精するのと一緒に、ネクティスもぴくぴく体をくねらせて、ぱあっと長い髪を広げた。ひくついた性器から透明な粘液がにじんで、周りの光を縞状に屈折させた。
 イったんだ。
 感動するほど綺麗だった。ぼくは胸が痛くなった。この子を抱きたい。ペニスを突っ込んで思いきり射精したい。
 でも、それはかなわないことだ。彼女は外に、ぼくは中にいるし――第一、ネクティの彼女と人間のぼくじゃ、子供を作れない。
 ぼくたちは、子供を作るためにセックスするんだから。
 だからぼくは、願望を願望のままで押しとどめた。
 そうやって自制することには、妙な副産物もあった。エニアの態度が変わったんだ。
 ある日、なんとなく毎週恒例みたいになったプレゼントの時間の後、エニアが色っぽい顔で言った。
「ヤム、最近あんまりガツガツしてないわね。ちょっとカッコよくなったかな」
「そう?」
「あれから触らせてあげなかったけど……どう? 今日は、触ってもいいわよ」
 ぼくはエニアをしげしげと見つめて、聞いた。
「最後までさせてくれる?」
「あん」
 エニアは笑いながらぼくの肩を叩いた。
「なあんだ、やっぱり変わってないんじゃない」
 その態度が、わけもなく気にさわって、ぼくは顔を背けた。
「いいよ。別に……」
「そう? それじゃあね」 
 あまり残念そうでもない顔で、エニアは手を振って行ってしまった。
 そのあともちろん、ぼくは窓の部屋に行って、ネクティスを呼びつけ、二回もマスターベーションした。
 従順におかずになってくれるネクティスを見ながら、ぼくは考えていた。エニアはやっぱり、ぼくのプレゼントが目当てみたいだ。体と引き換えにぼくをからかうのが楽しいだけで、本当はぼくのことなんかどうでもいいんだ。
 それに引き換えネクティスは、本当に優しい。ぼくがどんなに無理を言ってもいやな顔一つせず従うし、第一それを無理だなんて思ってないみたいだし、それに――これが一番大事だ。
 ネクティス自身、楽しんでるように見える。
 ネクティスのお尻を見ながら、ぼくはペニスをこする。
 ネクティスのお尻は、人間だった頃の名残で、ちゃんと二つのふっくらした丸みがある。その下にぽつっとお尻の穴――排泄腔が閉じていて、あとは長い巻きスカートを履いたみたいな、すらっとした下肢に続いている。
 突き出したそのお尻に向かって、ぼくは射精する。前側で指を動かしていたネクティスも、一緒にばたりと尾の先を振る。
 もうすっかり、人間の性欲を刺激するコツを飲み込んでいる。ネクティスはダッチワイフとしての任務も忠実にこなす。
 それでもぼくは、エニアをあきらめる気にはなれなかった。
 ぼくが生きている限り子供を作る義務があり、エニアとセックスできる可能性はまだゼロじゃなかったからだ。この大前提は破れない。
 そう思っていた。あの日までは。
 

 その日、飲料尿の再生装置の修理を終えたぼくたちは、疲れ切って部屋へと戻るところだった。
 通路を歩いていると、向こうから女の子の集団がきた。同じ五年生の子たちだった。ぼくたち男の子の間に、目に見えない電気が走る。
 ちょっとでもいいところを見せ、ほかの奴を押しのけようとする競争心。
 五歩ぐらいまで近づいたところで、ケックが口火を切った。
「やあ、リメルたちじゃないか。仕事は終わった?」
「うん。終わったわよ」
 先頭にいた、ショートカットの気の強そうな女の子が答えた。その子が部屋長のリメルだ。
「夕食は?」
「まだだけど」
「よかったらおれたちと食わないか」
「一級食おごるぜ」
「おれはココアつけるよ」
 ちびのジミタの言葉に、すかさずイルチが対抗した。
 女の子たちは、くすくす笑いながらこっちを伺う。
「どうしよっかなあ」「今日はケーキがほしいよね」「あ、それ賛成!」
 笑い声で花が咲いたみたいだ。女の子は、ぼくたちが狙ってることをよく知ってる。意味ありげにウインクしたり、さりげなくソックスを直したりして、ぼくたちの目を引きつけようとする。
 ところが、リメルがとげとげしい声で言った。
「悪いけど、このあと需品部に回るから」
「えーっ?」「ご飯食べてからでも……」
「七時までに受け取らないと閉まっちゃうでしょ! バイオフィルターがないとトイレに入れないじゃない!」
 ぴしゃりと言って、リメルはずんずん歩き出した。女の子たちは肩をすくめると、短いスカートをこれみよがしにひらひらさせて、リメルについて行った。
「トイレなんか、となりの区画の借りりゃいいじゃないか……」
 イルチがぼやいた。
 ぼくはノクテルの横顔に気付いた。そう言えば彼は、横を向いたまま黙っていた。
 ケックもそれに気付いたらしい。ノクテルの肩を叩く。
「引きとめてくれればよかったんだよ。リメルはおまえのものだろ」
 意地の悪いからかい口調だった。
 当然だ。一人の男の子がふられれば、別の誰かにチャンスが回るんだから。
 ノクテルはナイフみたいな目付きでケックをにらんだけど、すぐに肩を落とした。
「もうおれのじゃないよ」
「へえん? 誰かに取られたのか」
「知らねえよ。……でも、あれから一発もやらせてくれないんだ」
「若いもんは速いからねえ」
 ジミタが言って、みんなはどっと笑った。でもその笑いは、中途半端に消えてしまった。自分に初体験のときが来れば、すぐイってしまうに違いない。それはみんな分かってる。
 いや、そんなことで気落ちしたわけじゃなかった。みんなの苛立ちを、イルチが代弁した。
「結局おれたち、あいつらに振り回されるしかねえんだよな」
 そうだ。ぼくたちは野良犬だ。
 可愛い女の子たちの手足に、香りに、味に、ちょっとでも触れさせてもらおうと、舌を出してしっぽをふる、情けない犬。
「どっかにタダでやらせてくれる女の子いねえかなあ」
「見せてくれるだけでもいいよ」
「さっきのキュラに頼めよ。ソックスいじるときパンツ見えてたぞ」
「ただの趣味なんだよ。あいつ頼んでも絶対二人きりになってくれねえもん」
「くあーっ、やりてえ!」
 みんながガンガン床を踏み鳴らして叫ぶ。ぼくは内心、ちょっと愉快だった。
 ぼくにはネクティスがいる。どんな恥ずかしいことでも命令通りにしてくれるあの子が。
 それに、エニアだっている。みんなに話さなくてよかった。バレないうちになんとか口説いて、セックスまで持っていってやるんだ。
 そんなことを考えていると、ケックの言葉が耳に入って、ぼくはびっくりした。
「エニアに頼んでみろよ。あいつブルーだから、やるだけならOKかもしれないぞ」
「え……」
 頭を殴られたみたいな気がした。ぼくは瞬間的にカッとなって、ケックの腕をつかんだ。
「嘘だ!」
「はあ? なんだよ」
「え、エニアがブルーなんて……」
「ああ、噂だよ。七年の連中が言ってたんだ。でもどうせ、やっかみ半分の冗談……」
 最後まで聞かずに、ぼくは走り出した。みんながぽかんとした顔で見ていた。
 稲妻みたいに廊下をふっとんで、ストレージ棟まで行った。いつもエニアに会う場所。廊下には、彼女はいなかった。
 嘘だ、嘘に決まってる、エニアがブルーなんて、もうブルーなんて。
 頭の中がぐちゃぐちゃのまま、ぼくは闇雲にストレージ棟を歩き回った。そして備品庫のひとつの前で、はっと立ち止まった。
 中から人の声が聞こえていた。エニアと――誰か、男の子の声。
 その時ぼくはもう、半分ぐらい悟っていたんだと思う。エニアがなぜ、居住棟から離れたストレージ棟にいつも来ていたのか、それを考えれば。
 でも、半分は信じられなくて、確かめずにはいられなかった。
 そっとドアを開けようとした。開かなかった。中から鍵がかかっていた。だから、隙間から中を覗いて――
 ぼくは凍りついた。
「はんッ!」
 ふぬけのようにうっとりした顔のエニアが、背中を反らせた。
 ボックスに両手をついたエニアの背中に、ズボンを下げた七年のシグマがぴったり体をくっつけて、めくりあげたスカートの下の真っ白なお尻に、ぐりぐり腰を押し付けていた。
「はっ、はあんっ、もっと、もっとお!」
 シグマが赤黒いものをエニアに突き刺す。透明な滴がぴちゃぴちゃはねて、膝まで下ろしたエニアのショーツに垂れる。がくっ、がくっとあごを浮かせながら、胸をつかんだシグマの手をエニアは強く押しつける。
「どうだ? エニア。おれの、いいだろ?」
「うん、うん」
「おまえはおれのだろう? 五年のガキなんかにやらせなかったろうな」
「ばかあ……そんなわけないじゃない」
 聞いてる耳が溶けそうなぐらい甘い声で、エニアがすねる。
「あの子、すごいメダル持ちだったんだもの。ちょっと分けてもらっただけよう」
「それだけか?」
「ひぃんっ! そ、それだけ……ちょっと、触らせてあげたけど……」
「こいつ」
 シグマがエニアの綺麗な金髪をくわえて、ずるーっとなめる。
「本当に触らせただけか?」
「ほ、本当だってば。あたしに出していいのはシグマだけ……」
「だよな。ここは、おれのだよな」
「――ッ!」
 ぐいぐいっと突き上げられて、エニアは蛇みたいに体をくねらせる。
「っはあ! そ、そう。あたしは、シグマのがいいの。シグマにたっぷり出してもらうのが好きなのっ!」
「おれも好きだぜ。おまえのアソコ、とろっとろに熱くて」
「出してぇ、また出してえ。中いっぱいにして、キモチよくしてッ!」
「ほんとに好きだな。もう必要もねえのによ」
 必要、ない――
「おれの子供孕んじまったのに、まだほしいのかよッ」
 頭がすーっと冷えた。
「ほしい、ほしいのぉ!」
「それじゃくれて……やるぜっ!」
 エニアのぷりぷりしたお尻が、シグマの腰に押されてぐいっと潰れた。
 そのまま二人はぶるっと震えた。死にそうな息を吐いたエニアが爪でボックスを引っかいて、キィーッといやな音を立てた。
 ぼくは幽霊みたいにふらふらとそこを離れた。
 吐き気がした。頭は氷みたいに冷えてるのに体はめちゃくちゃ熱くて、ペニスがズキズキしていた。おなか一杯に精子を受けとめている、怖いほど綺麗なエニアの姿で興奮していたけど、心の中は絶望でぐたぐたに脱力していた。
 エニアは、ほんとにブルーだった。妊娠判定検査陽性だった。
 つまりぼくと会うずっと前からシグマとセックスしてたんだ。そのためにストレージ棟に来ていたんだ。それが本気だから鍵をかけて邪魔が入らないようにしてたんだ――
 そんな考えがまとまりもなく頭の中を流れて、じきにひとつの結論が浮かんだ。
 ぼくはもう、エニアに子供を産ませられない。
 ぼくは、何度も壁にぶつかりながら、しゃにむに走った。

 
 気がつくと、また窓の部屋にいた。
 不思議なことに、そこにはもうネクティスが来ていた。柔らかい笑顔を浮かべて、窓の外でゆっくり8の字に泳いでいる。
 ぼくの寂しさを感じたのかな――などと甘いことを、一瞬だけ考えた。ばかな考えだ。ネクティにそんな感情や知性なんかない。足音を聞きつけただけだろう。
 でもその時ぼくは、知性がなかろうと動物なみだろうと、とにかく誰かにそばにいてほしかった。
「ネクティス……」
 窓に背中を預けて、ぼくは見上げた。ネクティスが肩越しに、鼻をこすりつけていた。
「ぼくさ……ふられちゃったよ……」
 ネクティスは笑っている。なんの感情もない、ただ無垢なだけの微笑み。
「ぼくなんか一生、子供を作れないんだ。楽しむためのセックスだって、できやしないんだ……」
 声をかけられている、ということはわかるんだろう。うん、うん、とネクティスはうなずく。なんて残酷で、なんて素直なんだろう。殺したくなる。
 そのどす黒い憎しみと、空っぽの絶望が、ぼくの中でゆっくりと固まっていった。
 ううん、それだけじゃない。もっと別の気持ち――ヒラニプラの街に閉じ込められた無力感や、毎日のケンカの疲れや、ずっと続いている食料不足のせいの空腹――そんなものも混ざっていたろう。
 いや、なんの気持ちかなんて、もうどうでもいいんだ。そういういろんなどろどろしたものが、ぼくの中で一杯になってあふれた。それだけのことなんだ。
 ぼくは、ふらりと立ちあがった。
「ネクティス……」
 振り返って、見つめる。
「いいよ、きみで。ぼくは……きみと……」
 ぼくは、メタクリル窓を叩いた。
 トロット・トロット・トロッテ・ト
 それから、その部屋を出た。


 探す必要なんかなかった。それはヒラニプラのどこにでもあって、一番目立つ赤と黒と黄色のごてごてした封印が、何重にも貼りつけてあった。
 放棄区画の隅でそれを見つけると、ぼくは力いっぱいひねった。
 外界ハッチの開閉ハンドルを。
 百二十回ハンドルを回すと、ハッチはゆっくりと手前に開いた。その隙間から、さあっと冷たい風が入ってきた。
 潮と砂と毒の、さわやかでピリピリする香り。
 ぼくは外に出て、ハッチを閉じた。それから、初めて見る空と海、世界に残されたすべてのものを見渡した。
 コンクリート色の重そうな雲が低い空を遠くまで覆っていた。
 白骨の色の砂浜が遠くまで伸びて、その向こうは五百メートルはありそうな断崖だった。
 海は規則正しく波を運び、すぐ消える泡を渚に伸ばしていた。水の色は毒々しい緑だったけど、透明度だけは恐ろしく高かった。
 それらすべてを冷たい、ヒラニプラの循環空気とは比べ物にならないほど冷たい大気が覆って、ひょうひょうと風を吹かせていた。
 そう、もう冬が近い。
 ぼくは砂浜に踏み出した。波打ち際に足を入れると、水はまだぬるかった。膝まで入って、こぶしで水面を叩いた。
 パシャッパ・パシャッパ・パシャッパ・パン!
 それを、馬鹿みたいに何百回も繰り返した。
 そうしながら、ちょっとだけ振り返って、要塞のように巨大なヒラニプラの建物を見つめた。なんとなく、笑いたくなった。やってみれば、すごく簡単なことだった。あれはもう、ぼくを閉じ込めないんだ。
 それは本当の意味の解放じゃないけど……
 ピシャンと音がしたので、ぼくは前を見た。
 海より深いエメラルド色の肌の、怖いほど綺麗な女の子が、崩れる波の向こうから顔を出していた。
「ネクティス……」
 ぼくたちは、意味があるのかどうか分からない微笑みを交わした。
 それから近づいて、抱きしめて、殺人狂みたいに乱暴に彼女を犯しまくった。


―― 後編へ ――

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