北海道以北の島々を総称して「えぞが千島」と呼んだ。平安時代後期、和人と蝦夷の交易が急激に進展するにつれ、和歌にも「千島」「えぞが千島」の名がしばしば見えるようになる。蝦夷の風土やそこに住む人々の風習は、都人たちのエキゾチシズムを刺戟したようだ。
やそしまの千島のえぞがたつか弓心づよさは君にまさらじ 藤原清輔[夫木抄]
いたけもるあま見る時に成りにけりえぞが千島をけぶりこめたり 西行[山家集]
あたらしやえぞが千島の桜花ながむる色もなくて散るらん 慈円[花月百首]
尋恋
ゆきて我が心のおくをかたらばやたとへばえぞが千島なりとも 正徹[草根集]
江戸幕府は道南に松前藩を置き、蝦夷地の支配を委ねた。やがて南下政策をとる帝政ロシアとの間で緊張が高まり、領土問題にまで発展する。安政元年十二月、日露和親条約が締結され、サハリン(樺太)を日露両国の共同領有地とした。しかしその後も露人との間で小競り合いや衝突が絶えず、明治八年(1875)、樺太・千島交換条約によって遂にサハリンはロシアの領土、千島列島全島は日本の領土と決したのである。
月前祝 重哉
波あらき蝦夷が千島のはてまでも光あまねき弓張のつき [大江戸倭歌集]
室の八島こさふくえぞが千島まであたら今夜の月や澄むらん 貞徳[逍遥集]
四海清
筑紫の海えぞの千島の沖かけて浪たたぬ世はにごるともなし 加藤千蔭[うけらが花]
寄道祝
奥えぞの果まで靡く君が代に開けぬ道はあらじとぞ思ふ 香川景樹[桂園一枝]
【註】「奧えぞ」はサハリン島(樺太)。
大神の
あまざかる蝦夷をわが住む家として並ぶ千島のまもりともがな 〃[愛国百人一首]
表紙 |歌枕紀行|歌枕一覧 |