独楽吟 橘曙覧『志濃夫廼舎歌集』より

独楽吟 千人万首附録

底本には井手今滋編輯、昭和二年(1927)岩波書店刊『橘曙覧全集』を用いた。漢字は通用字に改め、濁点・送り仮名等を加え、難読字にはルビを振るなどした。但し曙覧の癖のある用字法(草を艸と書くなど)はなるべくそのまま残すようにした。

独楽吟

たのしみは(くさ)のいほりの(むしろ)敷きひとりこころを静めをるとき

たのしみはすびつのもとにうち(たふ)れゆすり起こすも知らで寝し時

たのしみは珍しき(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時

たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの(ほか)に能くかけし時

たのしみは百日(ももか)ひねれど成らぬ(うた)のふとおもしろく出できぬる時

たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ(かしら)ならべて物をくふ時

たのしみは物をかかせて善き(あたひ)惜しみげもなく人のくれし時

たのしみは空暖かにうち晴れし春秋(はるあき)の日に出でありく時

たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時

たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつづけて煙艸(たばこ)すふとき

たのしみは(こころ)にかなふ山水(やまみづ)のあたりしづかに見てありくとき

たのしみは尋常(よのつね)ならぬ(ふみ)()にうちひろげつつ見もてゆく時

たのしみは常に見なれぬ鳥の来て軒遠からぬ樹に鳴きしとき

たのしみはあき米櫃(こめびつ)に米いでき今一月(ひとつき)はよしといふとき

たのしみは物識人(ものしりびと)に稀にあひて(いに)しへ今を語りあふとき

たのしみは(かど)売りありく魚買ひて()(なべ)の香を鼻に嗅ぐ時

たのしみはまれに魚()て児等皆がうましうましといひて食ふ時

たのしみはそぞろ読みゆく(ふみ)(うち)に我とひとしき人をみし時

たのしみは雪ふるよさり酒の(かす)あぶりて食ひて火にあたる時

たのしみは(ふみ)よみ()めるをりしもあれ声知る人の(かど)たたく時

たのしみは世に解きがたくする(ふみ)の心をひとりさとり得し時

たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来りて銭くれし時

たのしみは炭さしすてておきし火の紅くなりきて湯の煮ゆる時

たのしみは心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき

たのしみは昼寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時

たのしみは昼寝目ざむる枕べにことことと湯の煮えてある時

たのしみは湯わかしわかし埋火(うづみび)を中にさし置きて人とかたる時

たのしみはとぼしきままに人集め酒飲め物を食へといふ時

たのしみは客人(まれびと)えたる折しもあれ(ひさご)に酒のありあへる時

たのしみは家内(やぬち)五人(いつたり)(いつ)たりが風だにひかでありあへる時

たのしみは(はた)おりたてて新しきころもを縫ひて妻が着する時

たのしみは三人(みたり)()どもすくすくと大きくなれる姿みる時

たのしみは人も()ひこず事もなく心をいれて(ふみ)を見る時

たのしみは明日物くるといふ(うら)を咲くともし火の花にみる時

たのしみはたのむをよびて門あけて物もて来つる使(つかひ)えし時

たのしみは木芽(このめ)()やして大きなる饅頭を一つほほばりし時

たのしみはつねに好める焼豆腐うまく()たてて食はせける時

たのしみは小豆(あづき)(めし)の冷えたるを茶漬(ちやづけ)てふ物になしてくふ時

たのしみはいやなる人の来たりしが長くもをらでかへりける時

たのしみは田づらに行きしわらは()耒鍬(すきくは)とりて帰りくる時

たのしみは(ふすま)かづきて物がたりいひをるうちに寝入りたる時

たのしみはわらは墨するかたはらに筆の運びを思ひをる時

たのしみは()き筆をえて()づ水にひたしねぶりて(こころ)みる時

たのしみは庭にうゑたる春秋(はるあき)の花のさかりにあへる時時(ときどき)

たのしみはほしかりし物銭ぶくろうちかたぶけてかひえたる時

たのしみは神の御国(みくに)(たみ)として神の教へをふかくおもふ時

たのしみは戎夷(えみし)よろこぶ世の中に皇国(みくに)忘れぬ人を見る時

たのしみは鈴屋(すずのや)大人(うし)(のち)に生まれその御諭(みさとし)をうくる思ふ時

たのしみは数ある(ふみ)(から)くしてうつし()へつつとぢて見る時

たのしみは野寺山里日をくらしやどれといはれやどりける時

たのしみは野山のさとに人遇ひて我を見しりてあるじする時

たのしみはふと見てほしくおもふ物(から)くはかりて手にいれし時


公開日:平成二十年三月十日
最終更新日:平成二十年三月十日