平康頼 たいらのやすより 生没年未詳 通称:平判官 法名:性照

信濃守頼季の子。阿波の出身という。
後白河院の北面に仕え、検非違使左衛門尉に任ぜられた(このため平判官の通称がある)。安元三年(1177)、京都鹿ケ谷で藤原成親・俊寛らと清盛討滅の謀議に加わり、これが漏れて鬼界島(薩摩沖の硫黄島)に流された。この間、周防で出家し、性照と号した。鬼界島では熊野三所権現を勧請して帰洛を願ったという(平家物語の「卒都婆流」などに説話化されている)。翌年大赦によって召還され、帰京後は東山双林寺に住み、仏教説話集『宝物集』を著した。文治二年(1186)、源頼朝の推挙により阿波麻殖保の保司に補された。
建久二年(1191)の石清水若宮歌合、建久六年(1195)の民部卿(吉田経房)家歌合、正治二年(1200)の石清水若宮歌合などに出詠。千載集初出。勅撰入集六首。

心のほかのことありて、知らぬ国に侍りける時よめる

薩摩潟おきの小島に我ありと親にはつげよ八重の潮風(千載542)

【通釈】薩摩潟の沖の小島に私がいると、親に告げてくれ、海をはるかにわたってゆく潮風よ。

【語釈】◇心のほかのこと 思いもかけぬこと。安元三年(1177)の鹿ケ谷事件による配流のことを言う。◇知らぬ国 薩摩国の鬼界が島(今の硫黄島)。歌の「おきの小島」も同地を指す。◇薩摩潟(さつまがた) 源平盛衰記に「薩摩方(ママ)とは惣名也」とあり、硫黄島などのある海域の総称であったらしい。「潟」は遠浅の海。◇八重の潮風 八重の潮路(しほぢ)、すなわち幾つもの潮の流れを越え、海上を吹き渡る風。「八重の潮路」は後拾遺集などにも見え古くから歌に用いられた語であったが、「八重の潮風」は康頼のこの歌が最初の用例のようである。

【補記】『平家物語』の「卒塔婆流」などにも引かれて名高い歌。配流地の鬼界が島で千本の卒塔婆を作った時、書き付けた歌という。第三句「われはありと」とする本もある。

【参考歌】催馬楽「道の口」
みちのくち 武生(たけふ)の国府(こふ)に 我はありと おやに申したべ 心あひの風や さきむだちや

【主な派生歌】
きえやらで浪にただよふうたかたのよるべしらせよ八重の潮風(後鳥羽院)
かへりみるわが古郷の雲の波けぶりも遠し八重の潮風(九条左大臣女[玉葉])
春霞かすむ波路はへだつともたより知らせよ八重の潮風(尊良親王[新葉])
薩摩潟八重の潮風つげやらむあはれ憂き身は親だにもなし(藤原惺窩)

とほき国に侍りける時、都の人にいひつかはしける

思ひやれしばしとおもふ旅だにも猶ふるさとは恋しきものを(玉葉1140)

【通釈】思いやって下さい。しばしの間と思う旅でさえ、やはり生まれ育った故郷は恋しいものなのに。ましてや帰るあてのない我が身はいかばかりかと……

【補記】『平家物語』によれば、前の歌と同じ時に詠んだ歌。この「ふるさと」は都を指す。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日