尊良親王 たかよししんのう(たかなが-) 生年未詳〜延元二(1337) 通称:一品中務卿親王

後醍醐天皇の第一(または第二)皇子。母は為世のむすめ藤原為子であり、歌道家二条家の血を引く。宗良親王の同母兄。
吉田定房に養育される。嘉暦元年(1326)、元服して中務卿に任ぜられる。元弘元年(1331)、一品に叙せられる。同年の元弘の乱に際し笠置山に潜行、その後赤坂城に入ったが、父帝が六波羅に幽閉されたのを知って自らも入京し、北条方に捕われた。翌元弘二年(1332)、土佐に配流される。建武新政後の建武二年(1335)、鎌倉で足利尊氏が叛旗を翻すと、上将軍として新田義貞らと東下。箱根竹の下の戦に敗れ、環京。延元元年(1336)十月、皇太子恒貞親王・義貞らと越前金ヶ崎城に入るが、翌年三月、斯波高経・高師泰らの攻撃を受けて落城、自刃した。薨年は三十歳前後と思われる。福井県敦賀市の金崎宮に祀られている。
建武二年(1335)の内裏千首に出詠。また元弘元年(1331)の百首歌(「一宮百首」)、配流地土佐での百首歌などを詠んでいる。新葉集に四十四首、続後拾遺集に一首入集。

元弘元年百首歌よみ侍りける中に

世の憂さを空にもしるや神無月ことわりすぎてふる時雨かな(新葉1118)

【通釈】この世の憂さ辛さを空にあっても知っているのか。いくら神無月と言っても度を超えて頻りと降る時雨であることよ。

【補記】新葉集巻十六雑上。「元弘元年百首歌」は尊敬閣文庫に「一宮百首」として伝わる百首歌。元弘の乱前後に詠まれたものらしい。この歌は増鏡「むら時雨」にも見え、同書に拠れば、笠置落城後、後醍醐天皇が六波羅に捕われたのを知った尊良親王が自らも入京し、北条方の佐々木判官時信のもとに預けられた時、思いに耽って詠んだ歌としている。

【先蹤歌】宗尊親王「柳葉集」
かかるべき時はさなれど神無月ことわりすぎてふる時雨かな

土佐国にて百首歌よみ侍りける中に、冬月

わが庵は土佐の山風さゆる夜に軒もる月もかげこほるなり(新葉1124)

【通釈】私の粗末な住まいは今土佐にあるが、こんな南の国にあっても山風は寒々と吹く冬の夜、軒の破れから漏れる月光も凍りついているようだ。

【補記】新葉集巻十六雑上。元弘二年(1332)三月から翌年五月の鎌倉幕府滅亡まで、親王は二条為明と共に土佐に流され、畑(高知県幡多郡)に置かれた。

土佐国にて百首歌よみ侍りける中に、杜蝉を

せめてげに杜のうつせみもろ声になきてもかひのある世なりせば(新葉1083)

【通釈】実に激しい勢いで森の蝉が一斉に鳴く――私も声を合せて泣きたいけれど、泣いても甲斐があるならともかく、誰一人聞いてくれないこの境遇ではないか。

【補記】新葉集巻十六雑上。「うつせみ」はもともと蝉の抜け殻を言うが、ここでは単に蝉の意で用いる。

とほき国に侍りける比、聞擣衣といふ心をよめる

聞きなるる契りもつらし衣うつ民のふせ屋に軒をならべて(新葉370)

【通釈】砧の音を毎夜聞き馴れる境遇に身を置こうとは、前世からの因縁も辛いことだ。衣を打つ民の茅屋に軒を並べて。

【補記】新葉集巻五秋歌下。「衣うつ」は布に艷を出すため、砧(衣を打つための台)の上で、槌などによって衣を叩くこと。晩秋の山里で聞かれるその響は趣深いものとして歌に詠まれた。「ふせ屋」は軒の低い貧しい民家。土佐か北陸での作であろう。


最終更新日:平成15年05月10日