宇多天皇 うだてんのう 貞観九〜承平一(867-931) 諱:定省(さだみ)

光孝天皇の皇子。母は班子女王。醍醐天皇の父。系図
清和天皇代の貞観九年、故仁明天皇の皇子、時康親王の第七子として生れる。元慶年間(877-885)、陽成天皇の侍従を務める。この頃、清涼殿で在原業平と相撲を取ったり、東遊(あずまあそび)の舞人をつとめたりした。
元慶八年(884)二月、陽成天皇が譲位して、父の時康親王が践祚(光孝天皇)。この時、兄弟と共に臣籍に下り源朝臣定省を名乗った。三年後の仁和三年(887)、父帝は崩御するが、その遺志を受けた太政大臣藤原基経の推挙を受けて親王に復し、ただちに立太子、践祚した。この時二十一歳。
阿衡の紛議を経て基経を関白に任じたが、藤原氏の専横を嫌った天皇は、四年後の寛平三年(891)、基経が薨ずると、菅原道真を重用して政治の刷新を図った(これを「寛平の治」と呼ぶ)。
寛平八年(896)九月、内裏で菊の歌宴を開く。寛平九年(897)七月、皇太子敦仁親王(醍醐天皇)の元服を機に譲位。その際、藤原時平・菅原道真を重用するよう親王に訓戒したという。
太上天皇となって後は風流の世界に遊ぶこと多く、昌泰元年(898)、亭子院女郎花合を主宰、紀貫之らを臨席させた。同年十月には大和国に行幸し、菅原道真・素性法師らが供奉して歌を詠んだ。
一方仏教の信仰も篤く、昌泰二年(899)、仁和寺で出家し、以後は法皇と称した(同号の初例である)。延喜四年(904)、仁和寺に御室を造営。同七年、熊野行幸。延喜十三年(913)、亭子院歌合を主宰。承平元年(931)七月十九日、仁和寺に崩御。仁和寺の北の大内山に葬られた。亭子院、寛平法皇などとも称される。後撰集初出、勅撰入集計十七首。『亭子院御集』『寛平御集』の名で伝わる御集がある(桂宮本叢書二十、私家集大成一、新編国歌大観七などに所収)。

歌合せさせたまけるとき、花を

春風の吹かぬ世にだにあらませば心のどかに花は見てまし(万代集)

【通釈】春風の吹かない世でさえあったなら、花は心のどかに見ただろうに。

【補記】延喜十三年(913)三月十三日、宇多法皇主催の歌合『亭子院歌合』。歌合本文では作者表記「御」とあり、万代集でも「寛平御製」とあって宇多法皇の御製と見て間違いない。但し続後撰集には「延喜御製」すなわち醍醐天皇の作としている。

【他出】亭子院歌合、続後撰集

【参考歌】在原業平「古今集」
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

延喜十三年の歌合によませたまける

水底に春や来るらむみよしのの吉野の川にかはづ鳴くなり(秋風集)

【通釈】水の底にも春が来たのだろうか。吉野の川で河鹿が鳴いているよ。

【補記】『秋風集』の作者表記に「寛平のみかどのおほみうた」とあり、『亭子院歌合』本文からも宇多法皇の御製であることが確かめられるが、続後撰集は「延喜御製」とする。なお『秋風集』は真観の撰と推定されている私撰集。

【他出】亭子院歌合、続後撰集、歌枕名寄

題しらず

おほぞらをわたる春日の影なれやよそにのみしてのどけかるらむ(新古1019)

【通釈】そなたは春の太陽だとでもいうのか。宮中をよそに見ながら、悠然としているのは。

【補記】恋歌。『大和物語』四十八段によれば、里に下ったまま久しく宮に戻って来ない「刑部の君」という更衣に宇多天皇が贈った歌。

【他出】寛平御集、大和物語

【主な派生歌】
おしなべてかすむや雪げ大空をわたる春日の影の寒けさ(正徹)

小八条の御息所につかはしける

手枕にかせる袂の露けきは明けぬと告ぐる涙なりけり(新古1181)

【通釈】私が手枕に貸していた袂が露っぽいのは、「もう朝が明けました」と告げて泣いたそなたの涙だったのか。

【補記】「小八条の御息所(みやすどころ)」は大納言源昇の娘、貞子。後朝(きぬぎぬ)の別れの後、贈った歌。『寛平御集』によれば貞子の返歌は「物をのみ思ふ寝覚めの枕には涙かからぬ暁ぞなき」。

君子内親王、賀茂の斎院におはしましける時、菊花につけて奉らせ給ひける

ゆきて見ぬ人のためにと思はずはたれか折らまし庭の白菊(続古今496)

【通釈】行っても逢えないあなたのためと思わなかったら、誰が折ろうか。美しい庭の白菊を。

【補記】「君子内親王」は寛平五年(893)より薨時の延喜二年(902)まで賀茂斎院。『大和物語』第四十九段にも見える歌。

【参考歌】紀貫之「貫之集」「新古今集」
ゆきて見ぬ人もしのべと春の野のかたみにつめる若菜なりけり

法皇吉野の滝を御覧じける

宮の滝むべも名におひて聞こえけり落つるしらあわの玉とひびけば(後撰1237)

吉野宮滝
吉野宮滝

【通釈】吉野宮滝はなるほどその名に相応しいと聞えるよ。落ちる白泡が玉のように響くのだから。

【語釈】◇宮の滝 奈良県吉野郡吉野町宮滝。かつて吉野離宮が営まれた場所。◇むべも 「なるほど、もっともだ」という意を込めた語。「滝」の名を持つ宮殿ゆえ、「むべも名におひて」と言っている。

【補記】宇多法皇の吉野行幸は昌泰元年(898)。

【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕

【主な派生歌】
宮の滝むべも暮れゆく春風に落つるしらあわや桜なるらむ(藤原基家)

宮滝御覧じてかへらせ給ふとて、龍田山をこえさせ給うける日、時雨のし侍りければ

世の中に言ひながしてし龍田川見るに涙ぞ雨と降りける(新拾遺1760)

【通釈】世に長く言い伝えられて来た龍田川――見れば涙が雨のように降ることよ。

【語釈】◇龍田川 奈良県生駒郡三郷町あたりの大和川をかつては龍田川と呼んだらしい。◇言ひながしてし 言い伝えてきた。「ながし」は川の縁語。

【補記】昌泰元年(898)の吉野行幸の時、龍田山を越える日に時雨が降ったので詠んだという歌。新拾遺集以前の歌集には見えない。

亭子のみかどおりゐ給うける秋、弘徽殿(こきでん)の壁に書きつけ侍りける   伊勢

別るれどあひも惜しまぬ百敷(ももしき)を見ざらむことや何かかなしき

【通釈】別れても、一緒に惜しんでくれる者などいない宮中ですから、見ることができなくなっても悲しくなどありません。

【語釈】◇百敷 宮廷。「大宮」などの枕詞であった「ももしきの」から、「ももしき」を大宮と同一視しての謂。

みかど御覧じて、御返し

身ひとつにあらぬばかりをおしなべてゆきめぐりてもなどか見ざらむ(後撰1323)

【通釈】別れを惜しむのはそなた一人だけではないぞ。皆が皆、巡り巡って、またいつか再会しようではないか。

【補記】この贈答は『大和物語』第一段などにもほぼそのまま見える。寛平九年(897)、宇多天皇の譲位が近づき、それと共に宮中を離れることになった伊勢の歌と、宇多天皇の返歌である。御製の解釈には諸説あり、上は水垣の私解である。

亭子院の御前の花のいとおもしろく朝露の置きけるを召して見せさせ給ひて

白露のかはるも何か惜しからむありてののちもやや憂きものを(後撰279)

【通釈】白露がうつろうように、境遇が変わったとしても、惜しいことなどあろうか。永らえて後も、いずれにせよ儘ならぬ憂き世なのだ。

【補記】「亭子院」は宇多上皇の御所。今の西本願寺あたり。譲位後まもなくの御作と思われる。伊勢の返しは、「植ゑたてて君がしめゆふ花なれば玉と見えてや露も置くらむ」。後撰集巻六秋に収めるが、季節詠ではない。


最終更新日:平成16年02月28日