元文三年(1738)三月、代々尾張藩の重臣を勤めた横井家に生まれる。名は宏時。通称金吾、のち吉平・十郎左衛門。千秋は雅号。
家督を継ぎ尾張藩の御家人などを務める。天明五年(1785)、本居宣長の門に入り、名古屋鈴屋門の中心人物となる。宣長の『古事記伝』の出版に尽力するなどした。享和元年(1801)七月二十四日没。六十四歳。
著書に『白真弓』『八尺勾瓊考』『詩歌論』(続歌学全書三所収)など。本居大平編の家集『木綿苑家集』がある。
以下には簗瀬一雄編著『横井千秋全歌集』(1992年刊)より『木綿苑家集』所載歌五首を抄出した。
田中の道麿が霊を祭りて、よめる
神無月 時雨の
【通釈】神無月、時雨が降る岡のほとり、楓の紅葉の下の樺桜の返り花も、去年の同じ日に一巡して再び咲いている。榛の木の老翁の魂も帰って来るだろうかと、床の塵を払い、幣帛を手に持って、今か今かと空を仰いで待つが、我が家のいささ群竹をそよがせることもなく、翁の姿はいささかも目に見えて来ない。言葉をかける方法もないので、からの手を無益に組んで、独りごとを言い、歌を歌いながら、亡き翁を偲んでいる私である。
【語釈】◇田中の道麿(みちまろ) 美濃国多芸郡榛木村出身の国学者。本居宣長に入門し、主に万葉集の研究で知られる。晩年は名古屋に住み、尾張国学に大きな足跡を残した。天明四年(1784)十月四日、没。六十一歳。◇かへる手 楓の古称。葉の形が蛙の手に似ることによる。◇樺桜 桜の一種。一重の白花。他の桜に遅れて咲く。◇衣摺る 「榛の木」の枕詞として用いる。榛の木の樹皮・果実は染料となるゆえ。◇榛の木の老翁 田中道麿の号。生地に由来。◇いささ群竹 もとは万葉集の大伴家持の歌に見える語であるが、ここでは「いささけ」の枕詞のように用いている。御霊が訪れず、竹叢がいささかもそよがない、といった意も添わる。
【補記】田中道麿の一周忌、天明五年(1785)十月の詠。「千秋は道麿の門人ではないが、宣長に従う同門の先輩としてうやまったのである」(簗瀬一雄編著『横井千秋全歌集』)。万葉集の挽歌の影響を強く受けながら、樺桜の返り花に寄せて亡き人を偲ぶ心を切々と詠んでいる。作者には短歌の佳品も乏しくないが、見るべき作は長歌の方に多い。
同じく墓所の歌(二首)
ありし世は
【通釈】生前、その樹皮を衣服に摺り染めて着た人――田中道麿翁の生きたしるしとして立っている、榛の木よ、ああ。
【補記】詞書の「同じく」は田中道麿(前歌の語注参照)のことを指す。次の一首からすると、没後三周年に詠んだ歌。
枯れて
【通釈】冬に枯れ春に生え、生えてはまた枯れて、いつの間にか三年霜が降り時を経た、墓の上の草よ。
貧家の蚊遣り火を、その人に代りて、よめる
反歌
蚊遣り
【通釈】[長歌] 道のほとりに近い、ひしゃげた小屋の中で、ああ私は沓を作って、世過ぎの仕事とするが、なかなか暮らしは立たず、一日でさえ過ごすことは難しいのに、「重い馬荷にいっそう上荷を積み重ねる」という諺のように、足の立たない病の母を抱えている。撫でることもできかね、養うこともできかねて、夏の短い夜も長く感じながら眠らずに起きていて、妻と私と、交代で枕辺に蚊遣火を焚き、火を吹き立てて、くすぶる煙――その煙のように胸のふさがる思いであるよ。
[反歌] 蚊遣火を焚く私が寝てしまうと、母が寝られずに起きておられる――それが切ないのである。
【語釈】[長歌] ◇蚊遣(かや)り火 蚊を追い払うために焚く火。かつては杉の木、よもぎの葉、榧(かや)の木などを用いたという。◇玉鉾の 「道」の枕詞。◇伏せ庵の 曲げ庵の内に 地面に伏すようにして傾いている粗末な小屋の内で。万葉集の山上憶良の長歌「貧窮問答歌」にある「伏廬の 曲廬の内に」に由る。◇重き荷に 表荷を打つと 同じく万葉集巻五、山上憶良の長歌に「ますますも 重き馬荷に 表荷打つと いふことのごと」とあるのに由る。◇妹とあれと 妻と私と。底本(簗瀬一雄編著『横井千秋全歌集』初版)は「妹とあれど」とあるが「と」の濁点は誤りであろう。
【補記】貧しい人の身になり代わって詠んだという歌。憶良の貧窮問答歌の影響下、夜も寝ずに母の介護をする苦しさを、蚊遣火の煙に託して歌い上げている。
公開日:平成20年03月24日
最終更新日:平成20年04月16日