尊円親王 そんえんしんのう 永仁六〜正平十一(1298-1356) 通称:大乗院宮・青蓮院宮

伏見院の第五(または第六)皇子。入道親王。母は三善俊衡女(永福門院播磨局)。後伏見院花園院の弟。
延慶元年(1308)、青蓮院に入り、慈道法親王に入門。延慶三年(1310)、親王宣下。翌応長元年、剃髪して尊彦より尊円と改名。元徳三年(1331)九月、後伏見院の命により幕府軍の戦勝を祈願する。同年十月、天台座主となる(以後、三度任命)。延文元年(1356)正月、四天王寺別当に補される。第十七世青蓮院門跡。世尊寺行房・行尹に書を学び、のち一世の名筆とうたわれ、御家流の祖と仰がれる。正平十一年九月十三日、薨去。五十九歳。
和歌には熱心で、五十首歌・三十首歌などを度々詠んだが、二条為世ら二条派歌人の点を受けており、伏見院の皇子でありながら京極派の歌風には馴染まなかったらしい。北朝の後光厳院が為定を支持して二条派の歌風を受け入れた背景には、尊円親王の進言があったという(近来風体抄)。貞和百首作者。続千載集初出。勅撰入集計四十三首。『尊円親王百首』(貞和百首)、『尊円親王五十首』、『尊円親王詠法華経詠百首』等の定数歌が伝存する。ほかに家集があったらしい(実隆公記)が、伝わらない。慶運に命じて慈円の家集『拾玉集』を編集させた。

貞和二年百首歌めされし時

志賀の浦や浜松がえの春の色を空にふかめて立つ霞かな(新千載17)

【通釈】志賀の浦の美しい浜松の緑――その色をいっそう深くして空にまで広げたように立ちこめる霞であるよ。

【補記】「常緑の松も春になれば色が増さる」と詠んだ宗于の歌を踏まえる。その色を空にまで広げたところが早春歌としてのめでたさ。

【本歌】源宗于「古今集」
ときはなる松のみどりも春くれば今ひとしほの色まさりけり
【参考歌】よみ人しらず「後撰集」
はる深き色にもあるかな住の江のそこも緑に見ゆるはま松

百首歌たてまつりしに

桜花うつろふ色は雪とのみふるの山風ふかずもあらなむ(風雅239)

【通釈】桜の花の散るありさまは、雪とばかりに降る布留の山――山風よ吹かないでほしい。

【補記】「色」には「趣き」「様子」といった意味もある。「ふる」に「降る」「布留」を掛ける。布留山は奈良県天理市布留の山。石上神宮がある。

【本歌】凡河内躬恒「古今集」
雪とのみふるだにあるをさくら花いかにちれとか風の吹くらむ

百首歌たてまつりし時

かくてこそ見るべかりけれおく山のむろの戸ぼそにすめる月かげ(風雅1566)

【通釈】月はこのようにして見るのがよいのだ。奥山の僧房の戸に射し込んで来る澄んだその光よ。

【補記】風雅集巻十五、雑歌上。貞和百首では秋歌とする。「むろ」は籠って住む所で、ここでは僧房のこと。「戸ぼそ」は扉。「すめる」には「住める」を掛ける。

貞和百首歌めされし時

今もなほわが立つ杣の朝がすみ世におほふべき袖かとぞみる(新千載1664)

【通釈】伝教大師の昔から続き今もなお私が住持する比叡山――早朝、この山に立ちこめる霞を見れば、この世に覆いかけるための袖かと思うのだ。

【補記】新千載集巻十六、雑歌上。貞和百首では春歌に入れる。「わが立つ杣(そま)」は、最澄の歌「阿耨多羅三貘三菩提の仏たち我が立つ杣に冥加あらせたまへ」より比叡山の称となった。「立つ」は天台座主としての立場を言うとともに、「霞」の縁語となる。霞から袖を連想するのは、霞を春のまとう衣に見立てる和歌的発想に由る。袖で世を覆うとは、慈円の本歌により、仏法によって民を守り、世の平安を祈ることを寓意する。『拾玉集』を編纂させるなど、慈円に傾倒した作者らしい歌。

【本歌】慈円「千載集」
おほけなくうき世の民におほふかなわが立つ杣に墨染の袖

貞和二年百首歌たてまつりけるに

暮れかかる山の下道わけ行けば雲こそかへれあふ人はなし(新続古今947)

【通釈】暮れ始めた山陰の道を分けて行くと、谷へと帰る雲に逢うが、すれ違う人はいない。

【補記】新続古今集巻十、羈旅歌。

【参考歌】九条行家「風雅集」
人とはぬ谷のとぼそのしづけきに雲こそかへれ夕ぐれのやま


最終更新日:平成15年06月01日