最澄 さいちょう 天平神護二〜弘仁十三(766-822) 諡号:伝教大師

父は三津首百枝、母は藤原氏と伝わる。生地は近江国滋賀郡。生年は『叡山大師伝』から神護景雲元年とするのが定説であったが、最澄に与えられた度牒・戒牒の現存している記述から天平神護二年生誕と考えられるという(日本古代氏族人名辞典)。十五歳で得度し、延暦四年(785)、二十歳の時東大寺で具足戒を受け、比叡山に入山。延暦二十三年(803)渡唐し、天台宗・密教などを学ぶ。翌年帰国すると、宮廷に迎えられ、宮中での修法を行なうと共に、日本仏教の改革に着手した。『顕戒論』『守護国界章』『法華秀句』などの著述がある。和歌の勅撰入集は新古今集以下に五首。

比叡山根本中堂
比叡山根本中堂

比叡山中堂建立の時

阿耨多羅(あのくたら)三みやく三菩提(さんぼだい)の仏たち我が立つ(そま)冥加(みやうが)あらせたまへ(新古1920)

【通釈】最上の悟りを得られた仏たちよ、根本中堂建立のために、我らの立つ比叡山にご加護をお与え下さい。

【語釈】◇比叡山中堂 延暦寺の根本中堂。延暦七年(788)建立。◇阿耨多羅三みやく三菩提 無上正等正覚、または無上正遍知などと訳す。仏陀の悟り。◇我が立つ 「立つ」には「根本中堂が建つ」の意を籠めるか。◇杣 杣山。材木を伐り出す山。ここでは比叡山を指す。◇冥加 仏の加護。

【他出】和漢朗詠集、俊頼髄脳、奥義抄、袋草紙、古来風躰抄、定家八代抄、歌枕名寄、和歌無底抄、源平盛衰記、安撰集

【鑑賞】「いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有にて、これを詠みたる人もさすがなれど、此歌を勅撰集に加へたる勇気も称するに足るべくと存候。第二句十字の長句ながら成語なれば左迄口にたまらず、第五句九字にしたるはことさらにもあらざるべけれど、此所はことさらにも九字位にする必要有之、若し七字句などを以て止めたらんには上の十字句に対して釣合取れ不申候。初めの方に字余りの句あるがために後にも字余りの句を置かねばならぬ場合は屡々有之候。若し字余りの句は一句にても少きが善しなどいふ人は字余りの趣味を解せざるものにや候べき」(正岡子規「歌よみに与ふる書」)。

【主な派生歌】
おほけなくうき世のたみにおほふかな我が立つ杣に墨染の袖(*慈円[千載])
山たかみ我がたつ杣にたておきし瑠璃のとぼそは曇るともなし(藤原家隆)
跡ふかき我がたつ杣にすぎふりてながめすずしきにほの湖(藤原定家)
契りあれば此山もみつ阿耨多羅三藐三菩提の種や植ゑけん(津守国夏[太平記])


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日