藤原範兼 ふじわらののりかね 嘉承二〜長寛三(1107-1165) 通称:岡崎三位

式部少輔能兼の長男。母は兵部少輔高階為賢の娘。権中納言範光・式部少輔範季らの父。父方の叔母は源頼政の母。
天治二年(1125)、昇殿を許され、大治元年(1126)、蔵人として鳥羽院に仕える。左衛門少尉・式部少輔・東宮学士・大学頭などを経て、保元元年(1156)、越前介を兼ね、従四位上に叙せられる。永暦元年(1160)、近江守を兼ね、応保二年(1162)、大学頭から刑部卿に転任。同三年、従三位に叙せられる。長寛三年(1165)、出家。
大治五年(1130)の殿上蔵人歌合、応保二年(1162)の中宮育子貝合などに出詠。自邸でも俊恵らを招いて歌合を催した(『林葉和歌集』)。しかし歌人よりむしろ歌学者として名高く、編著に『和歌童蒙抄』『五代集歌枕』『後六々撰』が伝わる。『後六々撰』は公任の『三十六歌仙』に倣い、中古の歌仙三十六人の秀歌を選んだもの。いわゆる中古三十六歌仙は同書に由来する。
千載集初出。勅撰入集二十首。『夫木和歌抄』によれば家集があったらしい。

花落客稀といふ事を

花ちればとふ人まれになりはてて厭ひし風の音のみぞする(新古125)

【通釈】花が散ると、訪れる人はすっかり稀になってしまって、歓迎しなかった風の音ばかりがする。

【補記】歓迎したい客は来ず、避けかった風ばかりがなおも訪れる、落花後の皮肉な淋しさ。

【本歌】凡河内躬恒「古今集」
我が宿の花みがてらにくる人は散りなん後ぞ恋しかるべき

平治元年、大嘗会主基(すき)方、辰日、参入音声(さんにふおんじやう)生野(いくの)をよめる

大江山こえていく野の末とほみ道ある世にもあひにけるかな(新古752)

【通釈】大江山を越えて、生野まで行く道は遠い――そのように遥かに続く王道の正しく実現された御代に生まれ合わせました。

【語釈】◇大江山 山城と丹後の国境の山。◇いく野の末とほみ 生野まで行く道の先は遠いので(そのように遥かに続く王道の…と続く文脈)。生野は京都府福知山市に地名が残る。《行く野》を掛ける。◇道ある世 天子による正しい政道が実現される世。

【補記】平治元年(1159)の二条天皇の大嘗会の主基方(西の斎場)の参入音声(舞人らの登場音楽)の際に生野を詠んだ歌。

【他出】定家十体(麗様)、歌枕名寄、大嘗会悠紀主基和歌

【参考歌】小式部内侍「金葉集」
大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立

二条院御時、上の男ども百首歌たてまつりける時、忍ぶる恋の心をよめる

月待つと人には言ひてながむれば慰めがたき夕暮の空(千載873)

【通釈】月の出を待つと人には言って、外へ出て眺めると、心を慰めてはくれそうにない夕暮の空であった。

【語釈】◇月待つと… 実は恋人の訪れが待ち遠しくて、外へ様子を窺いに行ったのであろう。女の立場で詠んだ歌である。◇慰めがたき 恋に堪え忍んでいる心を慰めてはくれそうにない。◇夕暮の空 夕暮の空もまた、それを眺める者の心のように憂鬱な色に染まっていたのであろう。

【他出】定家八代抄、時代不同歌合

【本歌】柿本人麻呂「拾遺集」
あしひきの山より出づる月待つと人には言ひて君をこそまて

【主な派生歌】
帰りつる名残の空をながむれば慰めがたき有明の月(*九条兼実[千載])

二条院御時、艶書の歌召しけるに

忘れゆく人ゆゑ空をながむればたえだえにこそ雲も見えけれ(新古1295)

【通釈】私を忘れてゆく人を思って空を眺めると、雲も途切れ途切れに見えるのだった。あたかもあの人の訪問が途絶えがちなように。

【補記】女の立場で詠む。古人は恋などに悩むとき空を眺めて気を晴らす習慣があったが、その空の景色もまた辛い恋のことを思い出させるという皮肉。二条天皇の時代、艶書合(けそうぶみあわせ)に詠出した歌。艶書合とは、恋文としての贈答歌を詠進させ披講した歌合。

【他出】定家十体(幽玄様)、定家八代抄、時代不同歌合、三五記

三井寺にまかりて、日頃すぎて帰らむとしけるに、人々名残惜しみてよみ侍りける

月をなど待たれのみすと思ひけむげに山の端は出で憂かりけり(新古1504)

【通釈】「さっさと山の端を出て来ればいいのに」なんて、月を待ち焦がれて恨んだものです。どうしてそんなこと思ったのでしょう。こうして自分が山を離れる時になって、まったくよく分かりましたよ。山の端を出ることが、どんなに気の進まないものか。

【語釈】◇三井寺 近江国の園城寺。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年04月08日