清和源氏。仲正の孫。頼政の嫡男。母は源斉頼女。二条院讃岐の兄。
嘉応二年(1170)、隠岐守に任ぜられる。伊豆守(または権守)正五位下に至る。『平家物語』によれば、ある時秘蔵の名馬「木の下」を平宗盛に請われて貸したが、宗盛はこの馬に「仲綱」という焼き印を捺すなどして侮辱し、これが頼政らの挙兵の一因になったという。治承四年、以仁王の令旨を受けた父に従い兵を挙げたが、宇治川の合戦で平氏に敗れ、弟の兼綱、子の宗綱らと共に自害した。
嘉応二年(1170)の住吉社歌合、同年の建春門院北面歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合、安元元年(1175)と治承三年(1179)の右大臣兼実歌合などに出詠。また俊恵の歌林苑の会衆であった。後世、武家百人一首などに名を列ねている。千載集初出。
俊恵法師歌林苑の
咲きまじる花をわけとや白雲の山をはなれて立ちのぼるらむ(玉葉151)
【通釈】紛れるように咲いていた桜の花を、はっきり見分けてくれというわけで、白雲は山を離れて空にのぼってゆくのだろうか。
【語釈】◇咲きまじる花 雲と見分けがたく咲き交じっていた花。
【補記】俊恵が主宰していた歌林苑の月例歌会での作。《桜の花と白雲は紛らわしい》という常套的な趣向を踏まえ、山を離れてゆく白雲に心があるかのように見なして興じている。『治承三十六人歌合』では第二句「花を見よとや」。
花の歌とてよめる
山ざくら散るを見てこそ思ひ知れたづねぬ人は心ありけり(千載97)
【通釈】花見は風流なことだと思っていたが、山桜の散るさまを見て、思い知ったよ。花を見に訪ねてこない人こそ、「心ある」人だったのだと。
【語釈】◇心あり 和歌では「情趣・風流を解する」意で使われることが多い。ここでは少し意味をずらせて、「思慮深い」ほどの心に用いている。
【他出】治承三十六人歌合、六華集
三月尽の心をよみ侍ける
身の憂さも花見しほどは忘られき春の別れを嘆くのみかは(千載128)
【通釈】我が身の辛い境遇も、花を見ていた間は忘れることができた。三月も末になった今、春との別れが悲しいだけではない。不遇の身の上を思い出し、また悶々として暮らさねばならぬことを歎くのだ。
【語釈】◇春の別れを嘆くのみかは 春の別れを悲しんで嘆いているだけだろうか、いやそれだけではない。「かは」は反語。
【補記】栄進を得ぬまま、叙任の季節である春をやり過ごす嘆き。桜の花が唯一の慰めだったと言うのである。
題しらず
心さへ我にもあらずなりにけり恋は姿のかはるのみかは(千載878)
【通釈】心までもが、自分のものではないようになってしまった。恋をするとやつれて別人のようになると言うが、姿が変わるだけではなかったのだ。
【補記】思うにまかせず、恋に乱れる心を「我にもあらず」と言いなした。
【他出】続詞花集、治承三十六人歌合
【参考歌】和泉式部「和泉式部続集」
問ふやたれ我にもあらずなりにけり憂きを歎くは同じ身ながら
見月恋故人といへる心をよめる
先立ちし人は闇にやまよふらむいつまで我も月をながめむ(千載998)
【通釈】先立って逝った人は、無明長夜の闇に迷っているのだろうか。私もいつまで現世にとどまって月を眺めていられるだろう。いずれ迷妄のうちに死に、故人のように闇の長夜をさまようことになるのだろうか。
【語釈】◇見月恋故人 月ヲ見テ故人ヲ恋フ。
更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月16日