楠木正行 くすのきまさつら 生年未詳〜正平三(1348) 通称:小楠公

楠木正成の長子として河内に生まれる。建武三年(1336)、湊川の戦で父が戦死した時は十一歳であったという(十三歳とも)。楠木一族の頭領となり、南朝に仕える。正平二年(1347)、足利尊氏が派遣した細川顕氏・山名時氏らの軍を摂津国で撃破、敗走させた。しかし翌年、四条畷の戦で高師直・師泰らに敗れ、弟正時と刺し違えて自害した。出陣前、吉野の如意輪堂の壁板に記した「梓弓」の歌は名高い。明治二十二年(1889)、河内飯森山麓の四条畷神社に祀られた。

正行・正時・和田新発意(しんぼち)・舎弟新兵衛・同紀六左衛門子息二人・野田四郎子息二人・楠将監(しやうげん)・西河子息・関地(せきぢ)良円(りやうゑん)以下、今度の(いくさ)に一足も不引(ひかず)、一所にて討死せんと約束したりける兵百四十三人、先皇の御廟(ごべう)に参て、今度の(いくさ)難義ならば、討死(つかまつ)るべき(いとま)を申て、如意輪堂の壁板に各名字を過去帳に書(つらね)て、其奥に

かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる(太平記)

【通釈】生きては還るまいと予め決心したから、鬼籍に入る我らの名をここに書き留めるのである。

【語釈】◇梓弓 「いる」の枕詞として用いるが、また武器の名を出すことによって、書き留める「名」が兵(つわもの)の名であることや、戦場に向かう決意などが暗示される。◇いる 射る・入るの掛詞。

【補記】太平記巻二十六、「正行参吉野事」。正行が摂津で北朝軍を破った翌年の正平二年(1347)十二月、尊氏は高師直・師泰ら諸将を派遣、軍兵六万が淀川の両岸に充満した。決戦を前に、正行は弟正時・和田賢秀ら一族を率いて吉野行宮に参上、後村上天皇より「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」との仰せを頂いた。その後後醍醐天皇の御廟に参り、如意輪堂の壁板に各自の名を記して、その奥にこの歌を書き付けたという。


最終更新日:平成15年05月24日