藤原清正 ふじわらのきよただ 生年未詳〜天徳二(958)

中納言兼輔の次男。母は不詳だが、「清正母」の歌が後撰集に見える。兄に雅正、弟に守正がいる。子に光舒と女子(「清正女」として拾遺集に歌が載る)がいる。
延長八年(930)、従五位下。天暦元年(947)、蔵人。同三年、従五位上・兼斎院長官・修理権亮。天暦四年二月、近江介。左近衛少将などを経て、天暦十年正月、紀伊守。同年十月、還昇。
天暦三年の藤花宴で講師を勤める。天暦九年内裏紅葉合・天暦御時内裏前栽合・同中宮歌合に出詠。また天暦御時の屏風歌に詠進するなど、村上天皇代の宮廷歌壇で活躍した。三十六歌仙の一人。家集『清正集』がある。後撰集初出。勅撰入集三十一首。

殿上はなれ侍りてよみ侍りける

(あま)つ風ふけひの浦にゐる(たづ)のなどか雲居にかへらざるべき(新古1723)

【通釈】天つ風が吹くという名の吹飯の浦にいる鶴が、どうして雲の上に帰らないことなどあろうか。――そのように、私もいつかは再び昇殿を許されるであろう。

【語釈】◇天つ風 「吹く」から「ふけひ(吹飯)の浦」にかかる枕詞。◇ふけひの浦 和泉国の歌枕に吹飯の浦があるが、紀伊国の歌枕吹上(ふきあげ)の浜と古来混同され、掲出歌でも紀伊国の歌枕として詠んでいるらしい。◇雲居 殿上。

【補記】『清正集』の詞書は「紀のかみになりて、まだ殿上もせざりしに」とあり、紀伊国守となって都を離れる時、紀伊の歌枕「ふけゐの浦」に言寄せて、いつか帰京し昇殿を許されることを願って詠んだ歌。但し『忠見集』によれば、清正が紀伊守となった頃、壬生忠見が清正に代わって少弐命婦に贈った歌とある。清正の代表歌とされ、彼が三十六歌仙に選ばれたのもこの歌あってのことに違いない。因みに清正が紀伊守に就いたのは天暦十年(956)正月で、同年十月には還昇を果たしている。

【他出】清正集、忠見集、前十五番歌合、三十人撰、和漢朗詠集、三十六人撰、俊成三十六人歌合、定家八代抄、歌枕名寄

【主な派生歌】
あしたづの沢辺の声はとほくともなどか雲ゐに聞こえざるべき(信西)


更新日:平成12年09月20日
最終更新日:平成21年07月17日