契沖 けいちゅう 寛永十六-元禄十四(1640-1701)

本姓下川氏。尼崎藩士元全の子。祖父は加藤清正の重臣であったが、加藤家は父の代で没落し、下川家も禄を離れた。
幼くして大坂今里の妙法寺に入り、十三歳の時に剃髪。高野山で十年ほど修行した後、大坂に帰り、生玉の曼陀羅院の住職となる。のち寺を去って放浪の旅に出、三十歳頃、和泉の名家伏屋(ふせや)家などに寄食、この間和漢の典籍を読破したという。四十の歳に大坂に戻り、再び妙法寺に入って住職となる。のち高津の円珠庵に隠居して多くの著述を成し、元禄十四年一月二十五日、六十二歳で没した。
妙法寺の住持をしていた頃、徳川光圀の知遇を得、下河辺長流の後任として画期的な万葉注釈書『万葉代匠記』を執筆、その後の国学者たちに大きな影響を与えた。また万葉集研究から派生した課題として仮名遣の解明に取り組み、『和字正濫鈔』によって歴史的仮名遣の基礎を据えたことも大きな業績であった。歌集に『自撰漫吟集(延宝集)』『漫吟集』など、古典注釈書に『古今余材抄』『勢語臆断』『源注拾遺』『新勅撰評註』『百人一首改観抄』などがある。他に歌枕研究等でも先駆的な仕事を残した。今井似閑・野田忠粛・海北若冲らを門人とした。

「自撰漫吟集」 校註国歌大系15・岩波版契沖全集13
「漫吟集(竜公美本)」 岩波版契沖全集13・新編国歌大観9
「漫吟集類題」 岩波版契沖全集13

  3首  1首  3首  1首  1首  8首 計17首

はつせのや里のうなゐに宿とへば霞める梅の立枝をぞさす(漫吟集類題)

【通釈】初瀬の里の子供に宿はないかと尋ねると、霞にぼんやりと見える梅の立ち枝を指差すばかりだ。

【語釈】◇はつせ 大和国の歌枕。今の奈良県桜井市初瀬。長谷寺がある。◇うなゐ 垂らしてうなじにまとめた髪型。またその髪型をした子供。十二、三歳くらいまでの子を言う。

【補記】梅の立ち枝では鶯の宿である(笑)。深く立ち込める霞ゆえ、子供が指差してくれた先に梅の枝しか見えず、宿の在り処はどことも知れない、というのだろうか。のどかな山里で旅人が出くわした「をかし」の状景。因みに「初瀬」と「うなゐ」の取り合せは謡曲『井筒』を連想させもする。

【参考】杜牧「清明」(→資料編
借問酒家何処有 牧童遥指杏花村(借問す酒家何れの処にか有る 牧童遥かに指さす杏花村)
  禅性法師「新古今集」
はつせ山ゆふこえくれて宿とへば三輪の檜原に秋風ぞふく
  下河辺長流「晩花集」
朝菜つむ野辺のをとめに家とへば主(ぬし)だにしらずあとの霞に

江梅

夕づく日霞こもりし影消えて寒き入江をわたる梅が香(漫吟集類題)

【通釈】紅い夕陽――霞のうちに籠っていたその光が消えて、寒々とした入江を渡ってゆく梅の香りよ。

【語釈】◇夕づく日 夕方にさす陽。紅く染まった夕陽。

【補記】周到にシチュエーションを設定し、滲むような色彩、微妙な光の推移、余寒の風の冷たさなど、複雑な季節の情趣を一首のうちに歌い込めている。

【参考歌】西園寺実氏「続拾遺集」
うらがるるあしの末葉に風すぎて入江をわたる秋の村雨

つつじ

かげろふの岩根のつつじ露ながらもえなんとする花の色かな(漫吟集類題)

【通釈】岩のほとりの躑躅は、露をつけたまま燃えてしまいそうな、そんな花の色であるよ。

【語釈】◇かげろふの 下記参考歌より「いは(岩)」の枕詞として用いているらしい。

【補記】同題の「山陰はくれぬにくれてつつじ原てれる岡べはいり日をぞつぐ」も情景髣髴、印象に残る。

【参考歌】作者不詳「古今和歌六帖」
かげろふの岩垣沼のかくれにはふしてしぬともながれはいはじ

橘の陰ふむ道にしのべども昔ぞいとど遠ざかりゆく(漫吟集類題)

【通釈】橘の木蔭を踏んでゆく道――その花の香に過ぎ去った時を恋い慕っても、昔はますます遠ざかってゆくばかりだ。

【補記】「橘の陰ふむ道」は万葉集に由来する語であり、この「昔」は万葉の昔と考えられる。契沖の尚古主義がよくあらわれた歌。

【本歌】三方沙弥「万葉集」
橘の蔭踏む道の八衢に物をぞ思ふ妹に逢はずして
  よみ人しらず「古今集」
さ月まつ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする

秋の歌とて

空の色は水よりすみて天の川ほたるながるる宵ぞ涼しき(漫吟集類題)

【通釈】夜空の色は水よりも澄んで、天の川を蛍が流れてゆく宵の涼しいことよ。

【補記】澄んだ秋の夜空、銀河を背景に舞う蛍を、天の川を流れてゆくと見た。

秋夕

難波がた霧間の小船(をぶね)こぎかへりけふもきのふもおなじ夕暮(漫吟集類題)

【通釈】難波潟に立ち込めた霧のすきまに小舟が見える――漁を終え、漕ぎ帰ってゆくのだ――今日も昨日も変わらない夕暮の景色であるよ。

【補記】難波潟(なにはがた)は淀川下流域に広がっていた浅海。和歌では蘆におおわれた侘しい土地として詠まれることが多い。

【参考歌】良暹法師「後拾遺集」「百人一首」
さびしさに宿を立ち出でて眺むればいづくも同じ秋の夕暮

夕けぶり麓の里にたなびきて月ぞのぼれる山風のうへに(漫吟集類題)

【通釈】夕方の炊煙が麓の里に棚引く頃、月が山の端を昇った、吹き下ろす風の上に。

【補記】下句は特異な表現。夕煙たなびくのどかな山里と、月が輝き始める明澄な夜空との対比が印象的。

山路霜

山深み霜ふむ跡の一すぢや木の葉のおくの人の通ひ路(漫吟集類題)

【通釈】山深く、霜を踏んだ跡が一筋ついている――散り積もった木の葉の尽きる、さらにその奧へと続く人の通り路なのだろうか。

【補記】これも綿密に景を作り上げた歌。その状景から、山深く住む隠者への共感がしみじみと伝わってくる。

【参考歌】曾禰好忠「詞花集」
山里はゆききの道の見えぬまで秋の木の葉にうづもれにけり

初恋

きのふまで何とはなくて思ふこと今日定まりぬ恋のひとつに(漫吟集類題)

【通釈】昨日まで何となくもやもや思い悩んでいたことが、今日はっきりと定まった、恋という一つのことに。

わかれの心をよめる

ともにたつ宿の梢の朝鳥のかへる夕べをいづくにかねん(漫吟集類題)

【通釈】共に出発する宿の梢の朝鳥――その鳥がここに帰って来る夕べ、私はどこに寝床を取るのだろうか。

【補記】羈旅歌。夕方には塒に戻る鳥との対比において、今宵の宿も知れぬ漂泊の思いを詠んだ。

旅の歌(二首)

出でてこしわが故里を人とはばいづれの雲をさしてこたへん(漫吟集類題)

【通釈】捨てて出て来た我が故郷を人が尋ねたら、どちらの雲を指して答えよう。

【補記】契沖の漂泊の生涯をよく象徴する歌。

【参考歌】藤原元真「新古今集」
しら玉か露かととはむ人もがな物思ふ袖をさしてこたへむ

別れこし心まどひにふる里の山さへあとに行くかとぞみる(漫吟集類題)

【通釈】別れて来た悲しみに心は乱れ、振り返れば故郷の山さえも自分から離れ、後の方へと退いて行くかと思うのだ。

【補記】契沖には哀切な旅の歌が少なくない。他にも「心ある人に一夜の宿かりて馴るるも悲し明日のふる里」「草枕ゆふべゆふべに数ふれば野暮れ山暮れ我は来にけり」など。

無常をよめる歌ども

玉椿それもつひには朽ちぬべし千代も八千代も夢にやはあらぬ(漫吟集類題)

【通釈】玉椿――それもついには朽ちてしまうだろう。千代も八千代も夢ではないか。

【補記】哀傷歌。玉椿は椿の美称。長寿のめでたい植物として賀歌に詠まれたが、契沖は旧来の和歌の文脈を否定してリアルな認識を差し出している。同題に「朝顔のしほれし花をはかなしと夕露の身のおもふなりけり」「きえぬ露しなぬ命のなき世とは誰かはしらで誰かしりたる」など佳詠が少なくない。

述懐の歌

花紅葉その錦にも立よらじいないな我は世捨人なり(漫吟集類題)

【通釈】花・紅葉の織り成す錦繍――そんな風景にも立ち寄るまい。いやいや。私は世捨て人なのだ。

真言宗のこころをよめる

いかでわれ昔の人に似てしがな今の仏はたふとくもなし(漫吟集類題)

【通釈】どうかして私は昔の人のようになりたいものだ。今の仏者は尊くもない。

【補記】「仏」は悟りを得た者。契沖は高野山で十年修行を積んだ真言宗の僧侶であったが、真言宗は即身成仏(人間が現身のままで悟りを開き仏になること)を修行の目的とする。

釈教の歌とて

野べの露山の雫もしかま川海に出でてはかはらざりけり(漫吟集類題)

【通釈】野辺の露も、山の雫も、飾磨川が必ず海へと出て行くように、いつかは大海に出、そうなれば皆変わりはないのである。

【補記】「野辺の露」「山の雫」は羇旅歌によく用いられた語で、命のはかなさと共に、苦しい旅としての人生をも暗示していよう。「しかま川」は播磨国の歌枕。船場川の古名。

【参考歌】作者不詳「万葉集」巻十五
わたつみの海に出でたるしかま川たえむ日にこそあが恋やまめ
  飛鳥井雅経「明日香井集」
野べの露やまのしづくとたちぬれてかごとがましき旅衣かな

詠富士百首和歌

ふじのねは山の君にて高御座(たかみくら)空にかけたる雪のきぬがさ(漫吟集類題)

【通釈】富士の嶺は山の君主であって、空に高々と君臨する――その玉座に懸けた雪の絹傘よ。

【補記】「高御座」は君主の玉座。「きぬがさ」は玉座を覆う天蓋。富士山をすっぽり覆って積もった雪を絹傘に喩えた。

【参考歌】柿本人麿「万葉集」巻三
久かたの天ゆく月を網に刺し我が大君は衣笠にせり


更新日:平成18年03月26日
最終更新日:平成18年08月07日