閑院 かんいん 生没年未詳

命婦。延喜(901〜923)頃の人。「閑院」は藤原冬嗣(775〜826)の旧宅の名で、延喜頃は清和天皇の皇子貞元親王(869〜910)が住んでいたので、同親王と何らかの関係があったか。後撰集で藤原敏行から歌を贈られている「閑院の御」と同一人物とすれば、地位の高い女官であったに違いない。『大和物語』にも「閑院の御」として見え、平貞文(定文)と歌を贈答している。古今集の二首をはじめ、勅撰入集は計五首。

中納言源昇朝臣の近江介に侍りける時、よみて遣れりける

逢坂のゆふつけ鳥にあらばこそ君が往き来をなくなくも見め(古今740)

【通釈】逢坂の関にいる鶏であれば、あなたの往き来を哭きながら見送ろうものを、私にはそれも出来ないのです

【語釈】◇源昇 の子。中納言就任は延喜八年(908)。近江介であったのは仁和四年(888)から寛平三年(891)。◇逢坂(あふさか) 山城・近江の国境をなす峠道。畿内と東国を隔てる関があった。古くは相坂とも書いた。◇ゆふつけ鳥 木綿付け鳥。鶏の異名。関所に飼われていて、騒乱などがあった時、都の四境で御祓いに用いられたという。

【補記】古今集恋四。恋人が近江介であった時、任地に因む歌枕「逢坂」の関所の鳥に言寄せて、京と近江を慌ただしく往還する相手と「逢う」ことの難しさを嘆いた歌。実際には鳥にあらぬ我が身、泣きながら見送ることも叶わないのである。

【他出】綺語抄、奥義抄、和歌童蒙抄、五代集歌枕、袖中抄、和歌色葉、定家八代抄、色葉和難集、歌枕名寄

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
相坂の木綿つけ鳥もわがごとく人や恋しき音のみなくらむ

藤原忠房が昔あひ知りて侍りける人の、身まかりにける時に、弔ひにつかはすとてよめる

さきだたぬ悔いの八千(やち)たび悲しきは流るる水のかへりこぬなり(古今837)

【通釈】先立つことのない悔いが、何度も繰り返し悲しいのは、流れる水のように、過去は帰って来ないからなのです。

【語釈】◇さきだたぬ悔い 先行することのない後悔。後悔先に立たずという諺と同じ意味合い。「自分の方が先に死ぬべきだったという悔い」と解する説もあるが、弔問歌として相応しいとは思えない。

【補記】忠房の旧知の人が亡くなった際、忠房へ弔問に贈った歌。

【他出】新撰和歌、奥義抄、万葉集時代難事、定家八代抄

【主な派生歌】
さきだたぬ世々の契りを恨みても悔いのやちたびねをのみぞなく(葉室光俊)
さめてのち悔いのやちたびかなしきは昔をみつるうたたねの夢(宗尊親王)
涙川くいのやちたび思へどもながれし名をばせくかひもなし(宗良親王)
おもひ川くいの八千たびうつたへにいとど浪こす袖のしがらみ(正徹)
散りぬれば悔いのやちたびかへりこぬ水のゆく手の井手の山吹(下河辺長流)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年01月30日