成尋阿闍梨母 じょうじんあざりのはは 生没年未詳

家集の記事から永延二年(988)頃の生れと推測される。大納言源俊賢の娘。藤原実方の子の僧(義賢または貞叙)と結婚し、成尋・成尊(仁和寺律師)を儲ける。長和三年(1014)か四年頃、夫と死別した。
延久二年(1071)、子の成尋は入宋を奏上し、同四年、日本を発った(扶桑略記)。この際、別れを悲しんで詠んだ歌々が『成尋阿闍梨母集』として残された(『成尋阿闍梨母日記』とも称される。以下「成尋母集」と略称)。没年は延久五年(1073)以後。千載集初出。勅撰入集は九首。
なお成尋は帰国することなく、宋の開宝寺で入滅した(『続本朝往生伝』など)。

勅撰集と『成尋阿闍梨母集』より六首を抜萃した。歌の順番は『成尋阿闍梨母集』に従い、ほぼ年次順となるはずである。

成尋法師入唐し侍りける時、よみ侍りける

しのべどもこの別れ路を思ふには唐紅の涙こそふれ(千載491)

【通釈】こらえても、我が子と離れ離れになるこの別れを思えば、深紅の涙が雨のように降るのです。

【語釈】◇この別れ路(ぢ) 「この」に「子の」が掛かる。◇唐紅(からくれなゐ) 大陸渡来の紅。深紅色。子の渡航先である唐(から)の国を掛ける。

成尋法師入唐し侍りけるに、母のよみ侍りける

もろこしも(あめ)の下にぞありと聞く照る日の本を忘れざらなん(新古871)

【通釈】遥かな唐の国も、同じ太陽が照らす空の下にあると聞く。だから日の本、つまり日の出ずる国であるこの国を、忘れないでほしい。そしていつかきっと帰ってきてほしい。

【語釈】◇天の下 「天」には「雨」の意が掛かり、「雨の下」は「照る日のもと」の対語となる。◇忘れざらなん (息子が)忘れないでほしい。この「なん(なむ)」は他者への希望をあらわす終助詞。

【補記】家集では「もろこしも天の下にぞありと聞くこの日の本は忘れざらなん」。

阿闍梨(あざり)の「かならず()で来て、失せなば跡なりとも見む」とありし、思ひ出でられて

涙川なくなくなりて絶えぬとも流れけりとはあとに来て見よ(成尋母集)

【通釈】泣いてばかりいて、涙の川は尽きてしまうだろう。たとえそうなっても、私が涙を流したあとだけは、後から来て見ておくれ。

【語釈】◇涙川 絶えず流れる涙を川に喩えて言う。◇なくなくなりて 「なく」に泣く・無くの両意を掛ける。◇絶えぬ 命が絶えることも暗示している。

【補記】子の阿闍梨が「必ず帰って来て、亡くなっていたら、菩提を弔いましょう」と言ったのを思い出しての作。

ことごとおぼえぬままに、あやしけれど、言ひつつ慰めはべる、人々のおのが思ひ思ひ物言ふも、耳にも聞き入れられず、ゆかしうおぼつかなきことのみおぼゆるに、十月にもなりぬ。しぐるる雨の音いたうすれば、あらあらしうきこゆれば

荒ましき雨の音にも遥かなるこのもといかが時雨ふるらん(成尋母集)

【通釈】荒々しい雨の音が聞える――それにつけても思うのは、遥かな唐土のあの子のこと。雨に遭ったら、木の下で雨宿りしているだろうか。かの地では、どんなふうに時雨が降るのだろうか。

【語釈】◇このもと 「木の下」「子の許」を掛けている。

むかし、ことわりしらぬ、とたれか言ひけんとぞおぼゆる、なほ空も見えず曇りて、暮れぬれば

拝むともまつにいり日の暮れぬめり猶いとはしき(あめ)の下かな(成尋母集)

【通釈】子との再会をいくら仏に祈願しても、松の木ならぬ「待つ」うちに、日は暮れてしまい、願いはかなわぬまま終わってしまいそうだ。闇に覆われて、いっそう厭わしく感じられてならない地上の世界だ。

【語釈】◇ことわりしらぬ 道理をわきまえない。

あしたの日の雲をはらひていづるにも、日にそへてつくりけむ罪を、露ものこさず消(き)やし給へとねんじ、ゆふべの月のひかりを見ても、にやせんまでさそひ給へとたのむ

朝日まつ露の罪なく消えはてば夕べの月はさそはざらめや(成尋母集)

【通釈】朝日を待って果敢なく消えてゆく露のように、罪もなくこの世を去ったなら、夕べの月よ、おまえは私を浄らかな世界へと誘ってくれるだろう。そうでないわけがあろうか。

【語釈】◇朝日まつ露 朝日にあたれば消えてしまう露。「束の間の命」の喩え。先蹤「世の中を何にたとへんあかねさす朝日待つ間の萩の上の露」(源順)。


更新日:平成15年12月03日
最終更新日:平成19年02月16日