大原今城 おおはらのいまき 生没年未詳 略伝

大原真人賜姓以前の名は今城王。大原真人は『新撰姓氏録』によれば敏達天皇の孫、百済王より出ず。父を高安王あるいは桜井王かと推定する説があるが、確かでない。母は万葉集によれば大伴女郎(伝不詳)。
天平二十年(748)十月、兵部少丞正七位下。天平勝宝七歳(755)頃、上総国朝集使大掾。またこの頃兵部大丞となり、兵部少輔であった大伴家持とさかんに親交し、宴で歌を詠み合う。天平宝字元年(757)五月、正六位上より従五位下に昇叙される。同年六月、治部少輔に遷任。その後左少弁・上野守を務め、天平宝字八年(764)正月、従五位上に昇る。その後しばらく消息が知れないが、宝亀二年(771)閏三月、無位より従五位上に復しており、何らかの咎により官位を没収されていたことが判る(恵美押勝の乱に連座したかとも思われる)。同三年九月、駿河守任官の後、消息不明。
万葉集に九首の歌を残す。また伝誦・伝読歌は八首に上る。

二十三日、式部少丞大伴宿禰池主が宅に集ひて、飲宴(うたげ)する歌二首

初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我は見つつ偲はむ(万20-4475)

【通釈】初雪よ、千重に降り積もれ。恋しがることの多い私は、それを見ながら(あの方に)思いを馳せましょう。

【語釈】◇見つつしのはむ シノフは「(雪を)賞美する」「遠い人や故人を思慕する」のどちらにも取れるが、この場合恋歌の体裁であり、かつ今城の次の歌から察するに、思慕するの意であろう。シノフ対象はこの場にいない人なので、主人池主ではあり得ない。今城の二首の後、挽歌と故人の歌が続くことからすると、この歌も故人を偲んだ歌のように思われる。この年五月には聖武天皇が崩じているが、「恋し」「偲ふ」は故天皇に対しては軽すぎる表現であり、宴の主人池主の亡き主君や近親などに思いを馳せた歌ではないか。あるいは既に死期が近かった諸兄(翌年正月六日、すなわちこの宴の約一カ月先に薨去する)を偲んだものか。

【補記】題詞の「二十三日」は、天平勝宝八歳十一月二十三日。

【参考歌】「万葉集」10/2334 (柿本朝臣人麻呂之歌集出)
あわ雪は千重に降り敷け恋しくのけ永き我は見つつ偲はむ

奥山の(しきみ)が花の名のごとやしくしく君に恋ひ渡りなむ(万20-4476)

右の二首は、兵部大丞大原真人今城。

【通釈】奥山に生える樒という花の名のように、しきりとあの方を慕い続けましょう。

【補記】この「君」は普通なら宴の主人である池主を指すはずだが、前歌との関連からやはりこの場にいない誰かを指すと考えるべき。「君」は敬意を込めた三人称代名詞的(あのお方)にも用いられた。

興に依りて、おのもおのも高円の離宮処(とつみやところ)(しの)ひて作る歌

高円の()のうへの宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや(万20-4507)

右の一首は、治部少輔大原今城真人。

【通釈】高円山の尾根に建つ離宮が荒れてしまっても、そこにお立ちになった帝の御名をお忘れすることなどありはしない。

【補記】天平宝字二年(758)二月、中臣清麻呂邸での宴での作。ほかに家持・中臣清麻呂らも歌を詠んでいる。高円は「家持アルバム」の高円山参照。「君」は聖武天皇


最終更新日:平成15年12月27日