三形王 みかたのおおきみ 生没年未詳 略伝

系譜は未詳であるが、天平宝字三年(759)六月十六日、淳仁天皇の父舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の尊号を追贈する際、従五位下より従四位下に越階昇叙されており、淳仁天皇若しくは舎人親王との血縁関係が推測される。妻に弓削女王がいる(続紀延暦元年三月二十六日条)。名は御方王(万葉集)・三方王(続日本紀)にも作る。
天平感宝元年(749)四月、無位より従五位下に初叙される。天平勝宝九年(757)六月二十三日、自宅で宴を催し、大伴家持を招く。この時大監物とある(万葉20-4483)。以後もたびたび家持らと宴に同席している。天平宝字三年(759)六月、従四位下(既述)。その後何らかの咎を受けて(おそらく恵美押勝の乱に連座したか)官位を奪われたらしく、宝亀三年(772)正月三日、無位より従五位下に叙せられている(この時以後『続日本紀』には三方王とあり、三形王とは別人物とみる説もある)。同年八月、淡路に派遣され、淳仁廃帝の改葬、行道・読経などを行う。その後備前守に任ぜられ、宝亀十年正月には従四位下に昇ったが、天応二年(782)閏正月、氷上川継の乱に連座した藤原浜成(娘は川継の妻)が参議・侍従を解任されたのと同じ日、日向介に左遷された。同年三月二十六日、桓武天皇を呪い殺す呪法を行った罪で、妻弓削女王と共に日向国に任国配流に処せられる。以後の消息は不明。
万葉集に二首の歌を残す。

十二月十八日、大監物三形王の宅にて、宴する歌

み雪降る冬は今日のみ鶯の鳴かむ春へは明日にしあるらし(万20-4488)

【通釈】雪の降る冬は残すところ今日ばかり。鶯の鳴く春は明日からであるそうです。

【補記】天平勝宝九歳(757)の作。この宴が催された十二月十八日(太陽暦翌年一月三十一日)はまさに立春の前日にあたる(内田正男『日本暦日原典』雄山閣)。ゆえに「冬は今日のみ」「春へは明日」と言っている。当時すでに具注暦が毎年官給されており、官人はみな正確な節日を知ることができた。

山斎(しま)属目(しよくもく)して作る歌

鴛鴦(をし)の棲む君がこの山斎(しま)今日見れば馬酔木(あしび)の花も咲きにけるかも(万20-4511)

馬酔木の花
馬酔木の花

【通釈】鴛鴦が羽を休めるお宅のこの山斎には、今日見れば馬酔木の花さえ咲いているのでした。

【語釈】◇鴛鴦(をし) おしどり。カモ科の水鳥。雄の冬羽は色彩が美しい。◇山斎(しま) 泉水・築山などのある庭園。◇馬酔木 ツツジ科のアセビ。早春から盛春にかけ、白または薄紅色の壺形の花が枝先に群がり咲く。

【補記】天平宝字二年(758)二月、平城京の中臣清麻呂邸における宴での作。清麻呂邸の庭園を讃美する。同じ宴で大伴家持甘南備伊香も馬酔木の花を讃える歌を残している。


更新日:平成15年12月27日
最終更新日:平成15年04月18日