藤原家経 ふじわらのいえつね 正暦三〜康平一(992-1058)

参議広業の子。母は下野守安倍信行女。子の正家・行家も勅撰集に歌を残す歌人。
右小弁、式部権大輔、左大弁、文章博士、信濃守、讃岐守などを歴任。正四位下に至る。
永承四年(1049)内裏歌合、同五年の祐子内親王家歌合に出詠。能因法師伊勢大輔康資王母藤原範永らとの交遊が知られる。道長の命によって上東門院のために万葉集を書写したという。『新撰朗詠集』などに漢詩文を残す。
後拾遺集初出。勅撰入集十六首(金葉集二度本の異本歌を含む)。家集『家経集』がある。

月の心をよめる

今よりは心ゆるさじ月かげの行方もしらず人さそひけり(金葉二度本異本歌)

【通釈】これからは、心を許さないようにしよう。月の光は人を誘い出し、行方も知らずにさまよわせてしまうのだった。

【補記】「秋の夜の月に心はあくがれて雲ゐに物を思ふころかな」(花山院)など、月に心奪われ、魂がさまよい出るといった趣の歌は少なくない。そうした耽美的な態度をよしとする歌が多い中、「心ゆるさじ」と警戒してみせたところに趣向の面白さを出している。なお、金葉集初度本では作者を藤原家綱とする。

【他出】金葉集初度本、別本和漢兼作集、題林愚抄

大井川にまかりて、落葉満水といへる心をよみ侍りける

高瀬舟しぶくばかりに紅葉ばのながれてくだる大井川かな(新古556)

【通釈】高瀬舟がとどこおってしまうほど、大井川には紅葉が川面を満たして流れ下ってゆくよ。

高瀬舟 フリー写真素材 フォトライブラリー
高瀬舟

【語釈】◇高瀬舟 河川で用いられた運送用の小舟。高瀬(浅瀬)でも航行できるよう、底が平らになっている。舳先は反り上がる。◇しぶく 「渋く」で「とどこおる」の意であろうが、「水しぶきをあげる」の意も響き、舟や川の縁語となる。◇大井川 大堰川とも。桂川の上流、京都嵐山あたりの流れを言う。

【他出】家経集、和歌一字抄、歌枕名寄、題林愚抄

信濃の守にてくだりけるに、風越の峰にて

風越(かざこし)の峯のうへにて見るときは雲は麓のものにぞありける(詞花389)

【通釈】風越山の峰の上にいて眺めると、雲は空の上にあるものでなく麓にあるものだったのだ。

【語釈】◇風越(かざこし)の峰 信濃の歌枕。飯田市の風越(ふうえつ)山のことという。「風が吹き越す峰」の意が響く。

【補記】信濃守として任国に下った時、風越の峰で詠んだという歌。『弁官補任』によれば家経が信濃守に任ぜられたのは長元五年(1032)二月八日。

【他出】家経集、金葉集三奏本、玄々集、別本和漢兼作集

【主な派生歌】
風越を夕こえくればほととぎす麓の雲の底に鳴くなり(*藤原清輔[千載])

能因法師、伊予の国にまかりくだりけるに、別れ惜しみて

春は花秋は月にとちぎりつつ今日を別れと思はざりける(後拾遺482)

【通釈】春には花を、秋には月を一緒に眺めようと約束して、その季節になるのを楽しみにしていたのに。約束を果たさないまま、今日が別れの日になるとは、思いもしなかったよ。

【補記】風流の友と別れる名残惜しさをしみじみと歌っている。『家経集』によれば能因に送った歌はもう一首あり、「音にのみ聞く高砂の松風に都の秋を思ひ出でよ君」。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年02月17日