柿本人麻呂 かきのもとのひとまろ 生没年未詳 略伝

万葉集より、人麻呂作歌75首、および柿本朝臣人麻呂歌集を出典とする歌25首、計100首を載せる。また付録として、拾遺集と新古今集に人麻呂作として採られた歌より18首を抜萃して併載する。訓は主に伊藤博『萬葉集釋注』、佐竹昭広ほか校注『萬葉集』(岩波新古典大系)に拠った。カッコ内の数字は万葉集の巻数と旧国歌大観番号である。

万葉集の人麻呂作歌羇旅歌 相聞 雑歌 挽歌
万葉集の人麻呂歌集歌
付録:勅撰集に採られた伝人麻呂作歌
 
※注釈の付いたテキストはこちら

―人麻呂作歌―

羇旅歌

柿本朝臣人麻呂の羇旅の歌 (七首)

玉藻刈る敏馬みぬめを過ぎて夏草の野島のしまの崎に舟近づきぬ(3-250)

淡路の野島の崎の浜風にいもが結びし紐吹き返す(3-251)

荒たへの藤江の浦にすずき釣る海人あまとか見らむ旅行く我を(3-252)

稲日野いなびのも行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古かこの島見ゆ(3-253)

灯火ともしび明石大門あかしおほとに入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず(3-254)

天離あまざかひな長道ながちゆ恋ひ来れば明石のより大和島見ゆ(3-255)

飼飯けひの海の庭よくあらし刈薦かりこもの乱れて出づ見ゆ海人の釣船(3-256)

柿本朝臣人麻呂、近江の国より上り来る時に、宇治川のほとりに至りて作る歌一首

もののふの八十やそ宇治川の網代木あじろきにいさよふ波の行くへ知らずも(3-264)

柿本朝臣人麻呂の歌一首

淡海あふみうみ夕波千鳥が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(3-266)

柿本朝臣人麻呂、筑紫の国に下る時に、海路にして作る歌二首

名ぐはしき印南いなみの海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は(3-303)

大君の遠の朝廷みかどとあり通ふ島門しまとを見れば神代し思ほゆ(3-304)

相聞

柿本朝臣人麻呂の歌

み熊野の浦の浜木綿はまゆふ百重ももへなす心は思へどただに逢はぬかも(4-496)

柿本朝臣人麻呂の歌三首

をとめらが袖振る山の瑞垣みづかきの久しき時ゆ思ひき我は(4-501)

夏野ゆく牡鹿をしかの角の束の間も妹が心を忘れて思へや(4-502)

玉衣たまきぬのさゐさゐしづみ家の妹に物言はずにて思ひかねつも(4-503)

柿本朝臣人麻呂、石見の国より妻に別れて上り来る時の歌二首 并せて短歌

石見いはみうみ つの浦廻うらみを 浦なしと 人こそ見らめ かたなしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚いさな取り 海辺を指して 和田津にきたづの 荒礒ありその上に か青くふる 玉藻沖つ藻 朝羽あさは振る 風こそ寄らめ 夕羽振る 波こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝しいもを 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈やそくまごとに よろづたび かへり見すれど いやとほに 里はさかりぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひしなえて しのふらむ 妹がかど見む 靡けこの山(2-131)

反歌二首

石見のや高角山たかつのやまの木の間より我が振る袖を妹見つらむか(2-132)

小竹ささの葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば(2-133)

 

つのさはふ 石見いはみの海の ことさへく からの崎なる  海石いくりにぞ 深海松ふかみるふる 荒礒ありそにぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の 深めて思へど さ寝しは 幾だもあらず はふ蔦の 別れし来れば 肝向きもむかふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大舟の わたりの山の 黄葉もみちばの 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず 妻隠つまごもる 屋上やかみの山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 天伝あまづたふ 入日さしぬれ 大夫ますらをと 思へる吾も 敷栲しきたへの 衣の袖は 通りて濡れぬ(2-135)

反歌二首

青駒あをこま足掻あがきを速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける(2-136)

秋山に落つる黄葉もみちばしましくはな散りまがひそ妹があたり見む(2-137)

雑歌

近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌

玉たすき 畝傍うねびの山の 橿原かしはらの ひじりの御代ゆ れましし 神のことごと つがの木の いや継ぎ嗣ぎに あめの下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて 青丹よし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離あまざかる ひなにはあれど 石走いはばしる 淡海あふみの国の 楽浪ささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇すめろきの 神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿おほとのは ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日はるひれる ももしきの 大宮処おほみやどころ 見れば悲しも(1-29)

反歌 (二首)

楽浪ささなみの志賀の辛崎からさきさきくあれど大宮人の船待ちかねつ(1-30)

楽浪の志賀の大曲おほわだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(1-31)

吉野の宮にいでます時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌

やすみしし 我が大君の きこしめす あめの下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内かふちと 御心みこころを 吉野の国の 花らふ 秋津の野辺のへに 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船めて 朝川渡り 舟競ふなきほひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高からし 水激みなそそく 滝の宮処みやこは 見れど飽かぬかも(1-36)

反歌

見れど飽かぬ吉野の川の常滑とこなめの絶ゆることなくまたかへり見む(1-37)

 

やすみしし 我が大君 かむながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神やまつみの まつ御調みつきと 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉もみちかざせり ゆきそふ 川の神も 大御食おほみけに つかへまつると かみつ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さでさし渡す 山川も 依りてつかふる 神の御代かも(1-38)

反歌

山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも(1-39)

伊勢の国にいでます時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂の作る歌 (三首)

嗚呼見あみの浦にふな乗りすらむをとめらが玉裳たまもの裾に潮満つらむか(1-40)

くしろつく答志たふしの崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ(1-41)

潮騒に伊良虞いらごの島辺榜ぐ船にいも乗るらむか荒き島廻しまみ(1-42)

軽皇子、安騎の野に宿します時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌

やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子みこ かむながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて こもりくの 泊瀬はつせの山は 真木立つ 荒き山道やまぢを 岩が根 禁樹さへき押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎あきの大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて(1-45)

短歌 (四首)

安騎あきの野に宿る旅人うち靡きいもらめやもいにしへ思ふに(1-46)

ま草刈る荒野にはあれど黄葉もみちばの過ぎにし君が形見とぞ来し(1-47)

ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(1-48)

日並ひなみしの皇子のみことの馬めて御狩立たしし時は来向ふ(1-49)

天皇の雷岳いかづちのをか御遊あそびたまひし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首

大君は神にしませば天雲あまくもいかづちの上にいほりせるかも(3-235)

長皇子の猟路かりぢの池に遊びし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌

やすみしし 我が大君 高光る 我が日の皇子みこの 馬めて 御狩立たせる 若薦わかこもを 猟路の小野に 鹿ししこそば い匍ひをろがめ うづらこそ い匍ひもとほれ 鹿ししじもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひもとほり かしこみと つかへまつりて ひさかたの あめ見るごとく 真澄鏡まそかがみ あふぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大君かも(3-239)

反歌一首

ひさかたのあめ行く月をあみに刺し我が大君はきぬがさにせり(3-240)

或本の反歌一首

大君は神にしませば真木の立つ荒山中あらやまなかに海を成すかも(3-241)

七夕の歌一首

大船に真楫まかぢしじき海原を漕ぎ出て渡る月人壮士をとこ(15-3611)

右は柿本朝臣人麻呂の歌。

挽歌

日並皇子尊ひなみしのみこのみこと殯宮あらきのみやの時に、柿本人麻呂の作る歌一首并せて短歌

天地あめつちの 初めの時し ひさかたの あまの河原に 八百万やほよろづ 千万神ちよろづがみの 神集かむつどひ 集ひいまして 神分かむはかり はかりし時に 天照らす 日女ひるめみこと あめをば 知らしめすと 葦原の 瑞穂みづほの国を 天地あめつちの 寄り合ひの極み 知らしめす 神のみことと 天雲の 八重かきわけて 神下かむくだし いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 清御きよみの宮に 神ながら 太敷きまして 天皇すめろきの 敷きます国と 天の原 石門いはとを開き 神上かむあがり 上りいましぬ 我が大君 皇子のみことの 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の たたはしけむと 天の下 四方の人の 大船の 思ひ頼みて あまつ水 あふぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓まゆみの岡に 宮柱 太敷きいまし 御殿みあらかを 高知りまして 朝言あさことに 御言みこと問はさず 日月ひつきの 数多まねくなりぬる そこ故に 皇子みこ宮人みやびと ゆくへ知らずも(2-167)

反歌二首

ひさかたのあめ見るごとくあふぎ見し皇子の御門みかどの荒れまく惜しも(2-168)

あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜渡る月の隠らく惜しも(2-169)

或本の歌一首

島の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池にかづかず(2-170)

柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女はつせべのひめみこ忍壁皇子おさかべのみことに献る歌一首 并せて短歌

飛ぶ鳥の 明日香の川の かみつ瀬に ふる玉藻は しもつ瀬に 流れらばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし つまみことの たたなづく 柔膚にきはだすらを 剣大刀つるぎたち 身に添へ寝ねば ぬば玉の 夜床よとこも荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 玉垂たまだれの 越智をちの大野の 朝露に 玉裳たまも湿づち 夕霧に ころもは濡れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君ゆゑ(2-194)

反歌一首

敷栲しきたへの袖へし君玉垂たまだれの越智野過ぎゆくまたも逢はめやも(2-195)

右は、或本には、「河島皇子を越智野に葬りし時に、泊瀬部皇女に献る歌なり」といふ。日本紀には「朱鳥の五年辛卯の秋九月、己巳の朔の丁丑に、浄大参川島薨ず」といふ。

高市皇子城上きのへ殯宮あらきのみやの時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやにかしこき 明日香の 真神まかみの原に ひさかたの あま御門みかどを 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠いはがくります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面そともの国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見わざみが原の 行宮かりみやに 天降あもりいまして 天の下 治めたまひ す国を 定めたまふと とりが鳴く あづまの国の 御軍士みいくさを 召したまひて ちはやぶる 人をやはせと まつろはぬ 国を治めと 皇子みこながら けたまへば 大御身おほみみに 大刀たち取りかし 大御手おほみてに 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ 整ふる つづみの音は いかづちの 声と聞くまで 吹きせる 小角くだの音も あた見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 差上ささげたる はたの靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の 風のむた 靡くがごとく 取り持てる 弓弭ゆはずの騒き み雪降る 冬の林に 旋風つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きのかしこく 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れてきたれ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の なば消ぬべく く鳥の 争ふはしに 度会わたらひの いつきの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇とこやみに 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂みづほの国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の 天の下 まをしたまへば 万代よろづよに しかしもあらむと 木綿花ゆふはなの 栄ゆる時に 我が大君 皇子の御門を 神宮かむみやに よそひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲しろたへの 麻衣着て 埴安はにやすの 御門の原に あかねさす 日のことごと ししじもの い匍ひ伏しつつ ぬば玉の 夕へになれば 大殿おほとのを 振りさけ見つつ 鶉なす い匍ひもとほり さもらへど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに おもひも いまだ尽きねば ことさへく 百済くだらの原ゆ 神葬かむはぶり はぶりいませて あさもよし 城上きのへの宮を 常宮とこみやと 高くまつりて かむながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具かぐ山の宮 万代に 過ぎむと思へや あめのごと 振りさけ見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ かしこくあれども(2-199)

短歌二首

ひさかたのあめ知らしぬる君ゆゑに日月も知らず恋ひわたるかも(2-200)

埴安の池の堤の隠沼こもりぬの行方を知らに舎人とねりまと(2-201)

或書の反歌一首

哭沢なきさは神社もり神酒みわ据ゑまめども我が大君は高日知らしぬ(2-202)

明日香皇女の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌

飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋いはばし渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆればふる 打橋に ひををれる 川藻もぞ 枯るればゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ やせば 川藻のごとく 靡かひし よろしき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を そむきたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折り挿頭かざし 秋立てば 黄葉もみちば挿頭し 敷栲しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月もちづきの いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 でまして 遊びたまひし 御食みけ向ふ 城上きのへの宮を 常宮とこみやと 定めたまひて あぢさはふ 目言めことも絶えぬ しかれかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥あさとりの 通はす君が 夏草の 思ひしなえて 夕星ゆふつづの か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば なぐさもる 心もあらず そこ故に せむすべ知れや おとのみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く しのひ行かむ 御名みなに懸かせる 明日香川 万代よろづよまでに はしきやし 我が大君の 形見にここを(2-196)

短歌二首

明日香川しがらみ渡しかませば流るる水ものどにかあらまし(2-197)

明日香川明日さへ見むと思へやも我が大君の御名忘れせぬ(2-198)

柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血きふけつ哀慟あいどうして作る歌二首 并せて短歌

天飛ぶや 軽の路は 我妹子わぎもこが 里にしあれば ねもころに 見まくしけど やまず行かば 人目を多み 数多まねく行かば 人知りぬべみ さねかづら 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 磐垣淵いはかきふちの こもりのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲隠くもがくるごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉もみちばの 過ぎてにきと 玉づさの 使の言へば 梓弓あづさゆみ 音に聞きて 言はむすべ せむすべ知らに おとのみを 聞きてありえねば が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 我妹子わぎもこが やまずで見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉たすき 畝傍うねびの山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾たまほこの 道行く人も 一人だに 似てしかねば すべをなみ いもが名呼びて 袖ぞ振りつる(2-207)

短歌二首

秋山の黄葉もみちを茂みまとひぬる妹を求めむ山道やまぢ知らずも(2-208)

黄葉もみちばの散りぬるなへに玉づさの使を見れば逢ひし日思ほゆ(2-209)

 

うつせみと 思ひし時に 取り持ちて 我が二人見し 走出はしりでの 堤に立てる つきの木の こちごちのの 春の葉の 茂きがごとく 思へりし いもにはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世の中を そむきしえねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾あまひれ隠り 鳥じもの 朝いまして 入日なす 隠りにしかば 我妹子わぎもこが 形見に置ける 若き児の 乞ひ泣くごとに 取りあたふる 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と 二人我が寝し 枕く 妻屋つまやのうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易はがひの山に が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば(2-210)

短歌二首

去年こぞ見てし秋の月夜つくよは照らせども相見し妹はいや年さか(2-211)

衾道ふすまぢ引手ひきての山に妹を置きて山道を往けば生けりともなし(2-212)

或本の歌に曰く

家に来て我が屋を見れば玉床のほかに向きけり妹が木枕こまくら(2-216)

吉備津釆女きびつのうねめが死にし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌

秋山の したへるいも なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひ居れか 栲縄たくなはの 長き命を 露こそば あしたに置きて 夕へは ゆといへ 霧こそば 夕へに立ちて あしたは 失すといへ 梓弓 音聞く我も 髣髴おほに見し こと悔しきを 敷栲の 手枕たまくらまきて つるぎ大刀たち 身に添へ寝けむ 若草の そのつまの子は さぶしみか 思ひてらむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと(2-217)

短歌二首

楽浪ささなみの志賀津の子らがまかの川瀬の道を見ればさぶしも(2-218)

そら数ふ大津の子が逢ひし日におほに見しくは今ぞ悔しき(2-219)

讃岐の狭岑さみねの島にして、石の中の死人しにひとを見て、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌

玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ かむからか ここだたふとき 天地あめつち 日月ひつきとともに り行かむ 神の御面みおもと 継ぎ来たる 那珂なかの港ゆ 船浮けて 我が榜ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 見れば 白波騒く 鯨魚いさな取り 海をかしこみ 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑さみねの島の 荒磯面ありそもに 廬りて見れば 波のおとの 繁き浜辺を 敷栲の 枕になして 荒床あらとこに 自臥ころふす君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾たまほこの 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ しき妻らは(2-220)

反歌二首

妻もあらば摘みてげまし沙弥さみの山野のうへのうはぎ過ぎにけらずや(2-221)

沖つ波来寄る荒礒ありそを敷栲の枕とまきてせる君かも(2-222)

柿本朝臣人麻呂、香具山のかばねを見て悲慟ひどうして作る歌一首

草枕旅の宿りにつまか国忘れたる家待たまくに(3-426)

土形娘子ひぢかたのをとめを泊瀬の山に火葬せる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首

こもりくの泊瀬の山の山のにいさよふ雲は妹にかもあらむ(3-428)

溺れ死にし出雲娘子いづものをとめを吉野に火葬せる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌二首

山のゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく(3-429)

八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ(3-430)

柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自らいたみて作る歌一首

鴨山の磐根しける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ(2-223)

―人麻呂歌集歌―

天を詠む

あめの海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎ隠る見ゆ(7-1068)

雲を詠む

あしひきの山河やまがはの瀬の鳴るなへに弓月ゆつきたけに雲立ち渡る(7-1088)

山を詠む

鳴神なるかみの音のみ聞きし巻向まきむく檜原ひばらの山を今日見つるかも(7-1092)

河を詠む

ぬば玉の夜さり来れば巻向の川音高しも嵐かも(7-1101)

葉を詠む(二首)

いにしへにありけむ人もがごとか三輪の檜原ひばら挿頭かざし折りけむ(7-1118)

ゆく川の過ぎにし人の手折たをらねばうらぶれ立てり三輪の檜原は(7-1119)

覊旅にて詠む

大穴牟遅おほなむぢ少御神すくなみかみの作らしし妹背の山は見らくしよしも(7-1247)

所に就けて思ひを発ぶ

巻向の山辺やまへとよみて行く水の水沫みなわの如し世の人吾等われ(7-1269)

行路

遠くありて雲居に見ゆるいもいへに早く至らむ歩め黒駒(7-1271)

物に寄せて思ひを発ぶ 旋頭歌 (四首)

夏蔭の妻屋の下にきぬ我妹わぎも うらけてがため裁たばややおほに裁て(7-1278)

梯立はしたて倉梯川くらはしがはいはの橋はも 男盛をさかりに吾が渡してし石の橋はも(7-1283)

春日はるひすら田に立ち疲る君は悲しも 若草の妻なき君が田に立ち疲る(7-1285)

青みづら依網よさみの原に人も逢はぬかも いは走る淡海県あふみあがたの物語せむ(7-1287)

木に寄す

天雲あまくものたなびく山にこもりたるが下心木の葉知るらむ(7-1304)

花に寄す

この山の黄葉もみちの下の花をあれはつはつに見てなほ恋ひにけり(7-1306)

弓削皇子に献る歌

さ夜中と夜は更けぬらし雁がの聞こゆる空を月渡る見ゆ(9-1701)

舎人皇子に献る歌

泊瀬はつせ川夕渡り来て我妹子わぎもこが家の金門かなどに近づきにけり(9-1775)

春の雑歌

久かたの天の香具山この夕へ霞たなびく春立つらしも(10-1812)

秋の相聞

そ彼と我をな問ひそ九月ながつきの露に濡れつつ君待つ吾を(10-2240)

冬の雑歌

巻向の檜原もいまだ雲居ねば小松がうれゆ沫雪流る(10-2314)

相聞 旋頭歌 (二首)

新室にひむろの壁草刈りにいましたまはね 草のごと寄り合ふ処女をとめは君がまにまに(11-2351)

新室を踏みしづむ子が手玉たたま鳴らすも 玉のごと照らせる君を内へと申せ(11-2352)

正に心緒を述ぶ歌 (三首)

たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに(11-2368)

人の味寐うまいは寝ずてはしきやし君が目すらを欲りて嘆くも(11-2369)

朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えてにし子ゆゑに(11-2394)

物に寄せて思ひを陳ぶ歌 (三首)

月見れば国はおやじそ山へなうつくし妹は隔りたるかも(11-2420)

【通釈】月を見れば、いるのは同じ国なのだ。山を間にへだて、いとしい妻と遠く隔てられているのだなあ。

 

大野らに小雨降りしくのもとに時と寄りが思ふ人(11-2457)

 

遠き妹が振りさけ見つつ偲ふらむこの月のおもに雲な棚引き(11-2460)

―付録:勅撰集に採られた伝人麻呂作歌より―

奈良のみかど龍田河に紅葉御覧じに行幸ありける時、御ともにつかうまつりて

龍田川もみち葉ながる神なびのみむろの山に時雨ふるらし(拾遺219)

題しらず

あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝ん(拾遺778)

大津の宮の荒れて侍りけるを見て

さざなみや近江あふみの宮は名のみして霞たなびき宮木守みやぎもりなし(拾遺483)

題しらず

奥山の岩垣沼のみごもりに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ(拾遺661)

 

我が背子を我が恋ひをれば我が宿の草さへ思ひうら枯れにけり(拾遺845)

 

朝寝髪われはけづらじうつくしき人の手枕ふれてしものを(拾遺849)

 

たらちねの親の飼ふの繭ごもりいぶせくもあるか妹に逢はずて(拾遺895)

 

恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙の道ゆき人にことづてもなき(拾遺937)

 

荒ちの狩る矢のさきに立つ鹿もいと我ばかり物は思はじ(拾遺954)

 

山科の木幡こはたの里に馬はあれど徒歩かちよりぞ来る君を思へば(拾遺1243)

 

なく声をえやは忍ばぬほととぎす初卯の花の影にかくれて(新古190)

 

さを鹿のいる野のすすき初尾花いつしかいもが手枕にせむ(新古346)

 

秋萩のさき散る野辺の夕露にぬれつつ来ませ夜はふけぬとも(新古333)

 

秋されば雁の羽風に霜ふりてさむき夜な夜な時雨さへふる(新古458)

 

垣ほなる荻の葉そよぎ秋風の吹くなるなへに雁ぞなくなる(新古497)

 

秋風に山とびこゆる雁がねのいや遠ざかり雲がくれつつ(新古498)

 

やたの野に浅茅色づくあらち山峯のあは雪さむくぞあるらし(新古657)

 

みかりするかりはの小野の楢柴のなれはまさらで恋ぞまされる(新古1050)

奈良のみかどををさめ奉りけるをみて

久方のあめにしをるる君ゆゑに月日も知らで恋ひ渡るらむ(新古849)


最終更新日:平成15年03月20日