高市皇子
たけちのみこ
- 生没年 654(白雉5)?〜696(持統10)
- 系譜など 天武天皇の第1皇子。母は胸形君徳善の女、尼子娘。御名部皇女(天智天皇の皇女)との間に長屋王をもうけた。子にはほかに鈴鹿王・河内女王・山形女王らがいる。異母妹の但馬皇女を妻としたらしいことが万葉にみえる(02/0114題詞)。
『日本書紀』に後皇子尊(のちのみこのみこと)と称されたとあり、万葉集02/0169脚注・02/0202左注にも後皇子尊とある。また柿本人麻呂の挽歌では題詞に高市皇子尊とある。
- 略伝 高市県主のもとで養育を受ける。672(天武1)年、壬申の乱勃発の際は大津皇子と共に近江にいたが、吉野の大海人より報が届き、直ちに近江を出発、6月25日、積殖(柘植)山口で父らの一行に合流した。翌26日、伊勢国朝明郡において将軍に任命され、不破に派遣される。翌27日、不破に父を迎え入れる。大海人は高市皇子に全軍の指揮を一任し、自らは野上に行宮を造る。翌月近江方を破り、翌年父は即位(天武天皇)。大臣を置かず皇后・皇子らが輔佐する皇親中心の政治を行い、高市は皇后菟野皇女・弟草壁・大津らと共にその一翼を担った。678(天武7)年4.7、倉梯の斎宮への行幸に出発した際、異母姉の十市皇女(天武第1皇女。故大友皇子の妃)が宮中で急死し、この時挽歌を作る(02/0156〜0158)。天武8年5月の六皇子の盟に参加、「相扶けて逆ふること無」きことを父帝に誓約する。天武10年2月、異母弟の草壁皇子(20歳)が立太子。天武14年1月、冠位四十八階制定の際は、草壁皇子の浄広壱位・大津皇子の浄大弐位に次ぐ浄広弐位に叙せられる。最年長の高市が第3の地位に甘んじたのは、おそらく母親の出身の低さによる。父帝崩後、689(持統称制3)年には草壁皇子が薨じ、代わって高市が皇太子に立てられたらしいが、菟野皇女は孫の軽王の成長を待ち、翌年1.1、即位の式を挙げて自ら皇位に就いた(持統天皇)。同年7月、太政大臣に任ぜられる。同年10.29、公卿官僚らを率いて藤原の宮地を視察。翌持統5年1.13、位に従って食封を加増される。持統6年1.4、さらに二千戸を加増され、計五千戸という莫大な食封を得る。持統7年1.2、浄広壱に昇叙される。696(持統10)年7月、薨ず(43歳、一説に42歳)。墓は延喜諸陵式に「三立岡墓 高市皇子墓 在大和国広瀬郡」とあるが、高松塚古墳の被葬者に比定する説もある。万葉集に殯宮の時の柿本人麻呂の挽歌がある(02/0199〜0202)。自作の歌は上記3首のみ。
関連サイト:高市皇子の歌(やまとうた)
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