紀長谷雄 きのはせお 貞和十二〜延喜十二(845-912)

弾正大忠貞範の子。字は紀寛。紀納言・紀家ともいう。子に淑望がいる。
貞観十八年(876)、文章生。のち菅原道真の門下に入り、文章得業生となる。元慶七年(883)、掌渤海客使。同年、対策に及第。仁和四年(888)、従五位下。寛平二年(890)、図書頭。翌年、文章博士。のち、式部少輔・右少弁などを兼任し、寛平六年には遣唐副使に任命されたが、派遣は中止された。翌年、正五位下に昇り、大学頭を兼任。寛平八年、従四位下。同九年、式部大輔となり、同年、侍従に転ずる。この年、宇多天皇は譲位にあたり、長谷雄を大器として昇進させるべしとした。のち、右大弁を経て、延喜二年(902)、参議に就任。左大弁を兼ねる。翌年従四位上、延喜八年には正四位下と昇進を重ね、延喜十年、権中納言従三位に至る。延喜十一年、中納言となり、紀納言と称された。翌年、薨去。六十八歳。
延喜六年(906)、日本紀竟宴和歌に出詠。勅撰入集は後撰集の四首のみ。自撰漢詩集があったが散逸。『日本詩紀』『本朝文粋』『本朝文集』などに多くの漢詩文を残している。

人につかはしける

ふしてぬる夢路にだにも逢はぬ身はなほあさましきうつつとぞ思ふ(後撰620)

【通釈】寝て見る夢の中でさえあなたに逢えないとは、現実にあってもやはり情けない我が身だと思いますことよ。

【補記】題詞の「人」は恋人の女。「あさましきうつつ」とは、呆れるばかりの現実(の我が身)。

言ひかはしける女の、今は思ひ忘れね、と言ひ侍りければ

我がためは見るかひもなし忘れ草わするばかりの恋にしあらねば(後撰789)

【通釈】私にとっては、見る甲斐もない。忘れ草よ、おまえを見て忘れてしまえるような恋ではないのだから。

忘れ草(ノカンゾウ)
忘れ草(ノカンゾウ)

【語釈】◇忘れ草 萱草(かんぞう)のこと。ヤブカンゾウ・ノカンゾウなど幾種類かある。夏、百合に似た橙色の一日花を咲かせる。「忘れ草」の名の由来は諸説あるが、掲出歌によれば、見るだけで憂いを忘れる花とされたらしい。因みに若葉は美味で食され、根は生薬となる。

【補記】恋人の女から、自分のことは忘れるようにと言われた時に作った歌。詞書に「言ひ侍りければ」とあるだけなので、女に返した歌というわけではないらしい。

【主な派生歌】
わが為はつむもひろふもしるしなき恋わすれ草恋わすれ貝(下河辺長流)


更新日:平成15年10月12日
最終更新日:平成18年03月18日