元政 げんせい 元和九〜寛文八(1623-1668) 法名:日政 通称:元政上人・草山和尚など

菅原氏。毛利輝元の家臣であった石井宗好(元好)の末子として洛陽桃花坊に生れる。長兄元秀は彦根藩主井伊直孝に仕え、長姉は直孝の側室であった縁から、十三歳の時彦根に行き井伊家に出仕する。やがて発心し、二十六の年に出家して日蓮宗妙顕寺に入る。明暦元年(1655)、師の日豊上人が池上本門寺へ晋山したのを機に洛南深草に隠棲、のち同地に瑞光寺を開いた。寺には元政の徳を慕って多くの求道者が集まったという。母を送った翌年の寛文八年(1668)二月十八日、四十六歳で遷化。
和歌は幼少より松永貞徳に学ぶ。たびたび歌会を催し、また堂上家の歌会にも参席した。望月長孝・加藤磐斎ら多くの歌人と交流した。家集『草山和歌集』がある。漢詩人としても名高く、詩集『草山集』を残す。著書には他に旅行記『身延道記』、伝記集『扶桑隠逸伝』など。

「草山和歌集」 続々群書類従14・校註国歌大系14・新編国歌大観9
「身延のみちの記」 新日本古典文学大系67(近世歌文集 上)

  1首  1首  2首  4首 哀傷 3首 計11首

花の歌あまたよみし中に

つひに身のけぶりとならん果てやなほ花にたちそふ霞ならまし(草山和歌集)

【通釈】とうとう我が身が煙となる最後にも、なお桜の花に付き添う霞であったらよいのに。

【補記】死後の煙となってまでも花に執着せんとの心を、句切れなしに息長く歌い上げている。

【参考歌】法橋行経「新千載集」
立ちそひてともに行くべき道ならば煙とならむ身をもをしまじ

月を見て思ひつづけける

なほふかく見てこそやまめ山里のさびしさあかぬ秋の夜の月(草山和歌集)

【通釈】さらに深く見ずにおこうか。山里の寂しさが幾ら見ても見飽かぬ秋の夜の月よ。

【補記】「さびしさあかぬ」は前例の見えない表現で、月の寂しい情趣に惹かれて見飽きないということ。その寂しさの底の底まで見極めようとの心を詠んだ。

初雪のあした

ほのぼのとあけゆく庭のおもしろく神代おぼゆる今朝の初雪(草山和歌集)

【通釈】ほんのりと明るくなってゆく庭の、面白く、神代を思わせる今朝の初雪よ。

【補記】「おもしろく」は一見安易に見えるかもしれないが、この語の「面前が晴れ晴れと明るくなる」という原義を思い出させる、揺るぎなく確かな詞遣いである。

雪ふりつもりたるあした

里の犬のあとのみ見えてふる雪もいとど深草冬ぞさびしき(草山和歌集)

【通釈】里を訪れる人の足跡は見えず、野良犬の足跡ばかり見えて、降る雪もますます深くなる深草の里は、冬が殊に寂しいのだ。

【補記】深草は平安京南郊。「草深い里」の意が掛かるが、この歌では雪が深い里の意も兼ねる。元政は深草に住したので「深草の元政」とも呼ばれた。

【本歌】在原業平「古今集」
年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ

世をのがれてここかしこ歩(あり)きけるころ

のがれては山里ならぬ宿もなしただ我からの憂き世なりけり(草山和歌集)

【通釈】世を遁れた以上は、山里以外に宿る場所もない。ひたすら我が身に原因する辛い人生なのだ。

【補記】作者は二十六の年に彦根藩士の身分を捨て出家した。その後の放浪時代の歌であろう。「我からの」とは、自分で選び取ったゆえ、すべて自分に責任がある、ということ。因みに同じ頃友に贈った歌には「ものごとになほぞ忘れぬ出でし世を思ひ出でじと思ひ捨つれど」と断ち難い現世への執着を詠んでもいる。

【本歌】藤原直子「古今集」
海人の刈る藻にすむ虫の我からとねをこそなかめ世をばうらみじ
【参考歌】よみ人しらず「拾遺集」
海人の刈る藻にすむ虫の名はきけどただ我からのつらきなりけり

山家

身をさらぬ心を友とさだめずはひとり住むべき山の奧かは(草山和歌集)

【通釈】我が身を離れることのない心を、友と定めることなくして、独り住んでいられる山の奧であろうか。

【参考歌】式乾門院御匣「続後撰集」
身をさらぬおなじうき世と思はずは巌のなかもたづね見てまし

いかなるときにか

人の世を思ひ寝にのみまどろめばいやはかななる夢もみえけり(草山和歌集)

【通釈】俗世間のことばかり思いながらウトウト寝入ったので、ひどくつまらない夢を見たことよ。

【補記】捨てたはずの世間への思いが夢にあらわれる。家集の排列からすると、比較的若い頃の作と思われる。のち、同時代の人々から如来の化身とまで崇められた人の、ふと零した率直なつぶやき。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草」
まどろめばいやはかななる夢のうちの身をいく夜とてさめぬなげきぞ

妙の一字をかきて歌よみてと人のいひしに

心にもおよばぬものは何かあると心にとへば心なりけり(草山和歌集)

【通釈】心でも至り着けないものは何かあるかと心に問えば、それは心であると答えるのであった。

【補記】ある人が「妙」の一字を示し、歌を詠んでほしいと言ったので作った歌。「妙」は妙法蓮華経の妙であり、元政の帰依した日蓮宗においては肝要の一字。『秀雅百人一首』などに採られ、作者の代表作として知られた一首。

【参考歌】村上天皇「拾遺集」
世の人のおよばぬ物はふじのねの雲ゐにたかき思ひなりけり

哀傷

母のなくなりぬるころ、人のもとより五首の歌よみてとぶらひける返事に

先立たばなほいかばかり悲しさのおくるるほどはたぐひなけれど(草山和歌集)

【通釈】私が先に死んだなら、母の悲しみはいかばかりだったろう。死に後れた私の悲しさはたぐいないものだとはいえ。

【語釈】◇悲しさの 「いかばかり」と倒置の関係で上句に繋がると共に、「悲しさの…たぐひなけれど」と下句に繋がってもいる。

【補記】元政の母妙種は寛文七年(1667)、八十七歳の天寿を全うした。その際ある人が贈って来た歌五首への返事として詠んだうち最初の一首。他の四首は「いまはただ深草山にたつ雲を夜半のけぶりの果てとこそ見め」「なにごとも昨日の夢としりながら思ひさまさぬ我ぞかなしき」「いかにしていかに報いん限りなき空を仰ぎて音には泣くとも」「たのもしなあまねき法(のり)の光には人の心の闇ものこらじ」。

【参考歌】藤原惟方「続古今集」
先立たば先立つ人ぞ嘆かまし老いておくるる老の思ひを
  木下長嘯子「挙白集」
先立たばいかになげかんたらちねの子を思ふ道は我も知りぬる

母のなくなりてのち

惜しからぬ身ぞ惜しまるるたらちねの親ののこせる形見と思へば(草山和歌集)

【通釈】惜しくもない身と思っていたけれども、母が亡くなってみると、惜しまれてならないよ。この我が身こそが、母の残してくれた形見なのだと思えば。

【補記】孝養を尽くし若き日の大願を果たした元政は母逝去の翌年、後を追うように亡くなった。

辞世

鷲の山つねにすむてふ峰の月かりにあらはれ仮にかくれて(草山和歌集)

【通釈】霊鷲山――その峰に常住し、澄み輝くという月。人々の目に現れるのも隠れるのも、仮のことである。

【語釈】◇鷲(わし)の山 釈尊が法華経を説いたと伝わる山。◇峰の月 釈尊の象徴。

【補記】仏は人々を救済する(悟得させる)方便として仮に現世に現われ、仮に涅槃に入ったのであり、本来仏の寿命は無限であるという『妙法蓮華経』「如来寿量品」の教えに拠る。

【参考歌】康資王母「後拾遺集」
わしの山へだつる雲やふかからん常にすむなる月をみぬかな


公開日:平成18年01月08日
最終更新日:平成18年04月06日