江戸浅草の生まれ。大熊卯八の四男(一説に二男)で、幼名を鉄之助と言った。幼少にして得度し、下総国飯沼の弘経寺で修行したのち、芝の増上寺に入る。嘉永三年(1850)、神奈川に移って三宝寺の住職となり、同地に生涯を送った。慶阿上人と称され、瑲々室(ゆらむろ)と号す。明治十三年(1880)四月二十五日、寂。六十三歳。墓は三宝寺にある。
橘守部・岡部東平などに和歌を学ぶ。近藤芳樹・伊達千広・福田行誡などと交友があった。長歌に秀で、明治十二年(1879)に門人が出版した家集『瑲々室集』(『由良牟呂集』とも)は、反歌を除けば全編長歌から成る異色の集である(続日本歌学全書九・校注国歌大系二十に所収)。他の著書に『由良牟呂集拾遺』(続日本歌学全書十一)がある。
以下には『瑲々室集』より六首を抜萃した。
弁玉像 |
過横浜異人館作歌
武蔵の海 横浜の津は まゐ来ぬる
【通釈】武蔵の海に面する横浜の港は、渡来した外国人が、日本人と分けて住む町も数多く、たくさんの街路に列なる高い建物の広い庭の調理場を見ると、豚は柵の中に放ち飼い、牛は杭を打って繋ぎ、鶏は伏籠に飼っている。生皮を斬って煮られるのか。逆剥ぎに剥いで焼かれるのか。朝食の馳走、あるいは夕食の用意に、自分の親を取られることを知らずに、自分の子を取られることを知らずに、遊び続けているよ、鳥も獣も。
【語釈】◇武蔵の海 東京湾の旧称。◇生膚を断ちて… 記紀や祝詞などに国つ罪とする「生膚断ち」、天つ罪とする「逆剥ぎ」に由る表現。「逆剥ぎ」とは尻の方から皮を剥ぐこと。
【補記】横浜の異人館を通り過ぎての詠。安政六年(1859)七月に横浜港が正式に開港されると、間もなく山下町辺りに山下居留地(関内居留地)が完成し、さらに慶応三年(1867)には山手居留地が増設されて異人館が建ち並んだ。弁玉はいずれかの居留地で異人館を見る機会があったのであろう。居留地の人々の暮らしぶりが髣髴とするが、畜肉を食う文化風俗に対して当時の日本人が受けた衝撃も生々しく伝えている。因みに弁玉は神奈川湊に程近い丘の上の三宝寺という寺に住していた。
【参考歌】作者未詳「万葉集」巻十三
…汝が母を 取らくを知らに 汝が父を 取らくを知らに いそばひをるよ 斑鳩と鳹(ひめ)と
詠東京
宝田や 千代田は
【通釈】宝田の千代田の地は、数限りない年月、万代までもお治めになる都のその住民に、増やし育てるものを代えようと、予てから、天の清らかな種を、神代にあって、蒔いておいたのだろうか。豊かに実った穂のように、増える民。稲葉が繁るように、群れ立つ家々。武蔵野の広大な野原も、幾つもの街路に、所狭しと、次から次へ建ち、栄えてゆくままに、神聖な祭をする場所として、御殿を高くお造りになって、皇居となったのである。
【語釈】◇宝田 皇居近くの旧地名。また文字通り「宝の田」の意を帯びる。◇千代田 今の東京都千代田区のおこりとなった地名。かつては広大な田地であった。やはり文字通り「千代までも続く田」の意を帯びる。◇千五百(ちいほ) 千五百秋の略。限りなく長い年月。◇人草に 生ふしかへむと 増やし育てるものを、稲から人民へ代えようと。◇天つ斎種 天からもたらされた、斎(い)み浄めた種。普通稲の種を言うが、ここでは民草を増やす霊力を持つ種のこと。◇天つ斎庭(ゆには) 天の神を祭るために斎(い)み浄めた場所。特に大嘗祭をおこなう場所。◇雲居となりぬ 千代田の地が宮城となったことを言う。
【補記】新しい首都と定まった東京を詠む。宮城の所在地千代田の名に因み、稲に代わって民草が増えたと言い、このたびの遷都も神代から約束されていたことかと神妙に思い巡らしている。万葉集の宮都讃歌を踏まえつつ、移り行く時代相をスケール大きく歌い上げた。因みに江戸城が東京城と改められ皇居となったのは明治元年、江戸城西の丸の跡地に新宮殿を造営することが決まったのは明治十二年(1879)のことである。
【参考歌】大伴御行「万葉集」巻十九
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
柿本人麻呂「万葉集」巻一
…吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして…
笠金村「万葉集」巻六
荒野らに里はあれども大君のしきます時は都となりぬ
明治元年冬十月幸東京之時謹作歌並短歌
かけまくは 畏かれども
反歌(二首)
枝かはし
【通釈】[長歌] 口にかけることは、恐れ多いけれども、現人神であられる我が大君が、大宮に仕える人々、多くの氏人(うじびと)、無数のお供の者を引き連れて、東国への旅に出発なさると、普通なら越え難くて、行き悩ませ、無情な大井川も、無慈悲な箱根山も、伏して靡けと、先払いはしないけれども、服従せよと、お指図はないけれども、お渡りになる橋は、荒波が揺らすことなく、お乗りになる御輿は、崖道も難渋せず、険しい山道も、大通りを行く如く、波の上も、畳の上を行く如く、平穏で、安らかにのどかである。長い月日、移動される旅にあって、一日でさえ風も音を立てない。一夜でさえ雨も降り注がない。そのことを思えば、穢れを浄めてお仕えし、風の神、級津彦が息吹を控えているのか。水の神、闇龗神が空を護っているのか。今もなお、神代さながらに、猿田彦が御先駈に立って、旅を行かれる道にお仕えしたのだろうか。いかにも、服従したのも尤もであろう、心無い大井川も、箱根山も。
[反歌一] 数多い神も役に従いお守りし、山川も服従してお仕えする、行幸の道よ。
[反歌二] 数多い駅家の松並木もみな枝を交わし、日光を避ける覆いとなって、行幸にお仕えしている。
【語釈】[長歌]◇うち日さす 「大宮」の枕詞。◇もののふの 「八十(やそ)」の枕詞。◇きへ長く 来経長く。年月長く。◇級津彦(しなつひこ) 級長戸辺神(しなとべのかみ)に同じ。風をつかさどる神。◇くらおかみ たかおかみと共に、水をつかさどる神。◇猿田彦 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨の際、先に立って道案内をした神。
[反歌]◇役(えだ)ち 労役に従事し。◇天(あめ)の御蔭(みかげ) 天の日を遮る覆い。万葉集巻一の「藤原宮御井歌」に見える「天之御蔭」に由る。
【補記】明治元年における明治天皇の東京行幸を詠む。この行幸には岩倉具視をはじめ議定官・知事らが従い、警護には長州・土佐・備前・大洲四藩の兵があたって、御供の総数は三千人を越えたという。一行が京都を発ったのは九月二十日、江戸城に到ったのは十月十三日。長歌は大井川と箱根の山という東海道の二大難所を苦も無く越えたと歌い、東京遷都における神々の加護を言祝いでいる。第一反歌では長歌の主題を簡潔に纏め、第二反歌では駅家の松並木という具象を添えて、山川草木全てが奉仕する行幸を歌い上げ、鮮やかに締めくくりをつけた。
比較的短い長歌の多い『瑲々室集』においては雄編と言え、反歌二首を付したのも弁玉としては異例。殊のほか力を籠めた作であったに違いない。
【参考歌】孝謙天皇「万葉集」巻十九
そらみつ 大和の国は 水の上は 地(つち)ゆくごとく 船の上は 床に居るごと…
柿本人麻呂「万葉集」巻一
…山川も よりて仕ふる 神の御代かも
看蒸気車走鉄道偶爾作歌
久堅の 空のどけきを
【通釈】空はのどかであるのに、雷神が崩れ落ちてくるのか。龍神が渦を巻いて昇ってゆくのか。突然空を暗くして、雲が湧き起こった。鳴り響いて音が轟く。その雲は、焚く火の煙。その音は、車輪の響き。立ち止まって見ようにも、その隙も無く、列なっている車輌の中にかくも多くの人を集めて載せ、敷き渡した鉄の道を走って過ぎた。
【語釈】◇久堅(ひさかた)の 「空」の枕詞。◇屋形 屋根付きの乗物。◇黒かね 鉄の古称。
【補記】蒸気機関車が鉄道線路を走るのを見た折に作ったという歌。日本における鉄道開業は明治五年(1872)、この時用意されたのは英国から輸入された蒸気機関車であった。肉食文化には嫌悪を隠さなかった弁玉であるが、伝信機・瓦斯灯といった文明の利器に対しては総じて肯定的に詠んでいる。
公開日:平成20年12月16日
最終更新日:平成21年04月29日