敦道親王 あつみちしんのう 天元四〜寛弘四(981-1007) 通称:帥宮

冷泉天皇の第四皇子。母は藤原兼家女、超子。為尊親王の同母弟。
外祖父兼家の厚い庇護のもとに育ち、正暦四年(993)、元服、四品に叙せられる。のち、大宰帥に任ぜられ、道隆三女を娶るが、まもなく離婚。ついで藤原済時の中の君を正妃とした。長保五年(1003)夏、和泉式部と恋に落ち、同年冬、式部を東三条南院の自邸に迎えた。寛弘四年(1007)四月、三品。同年十月二日、薨ず。二十七歳。和泉式部との間には一男があり、のち出家して永覚を名のった(『本朝皇胤紹運録』)。
新古今集初出。勅撰入集は六首。

いづれの宮におはしけむ、白河院まろもろともにおはして、かく書きて家守りにとらせておはしぬ

われが名は花ぬす人と立たば立てただ一枝は折りてかへらむ(和泉式部集)

【通釈】私の評判は花盗人と立つのなら立つがよい。一枝だけは折り取って帰ろう。

【語釈】◇いづれの宮に 敦道親王のことをぼかして言っている。◇白河院 北白川にあった藤原公任の別荘。◇まろ 一人称代名詞、ここでは和泉式部を指す。

【補記】和泉式部と共に公任邸を訪れた際、家の番人に渡した歌。『公任集』では詞書「帥の宮、花見に白川におはして」とある。「花ぬす人」に、世間の注目の的であった和泉式部を恋人にした自身を暗示しているのだろう。

いとわりなきことどもをのたまひ契りて、明けぬれば、帰り給ひぬ。すなはち、「今のほどもいかが。あやしうこそ」とて、

恋といへば世の常のとや思ふらむ今朝の心はたぐひだになし(和泉式部日記)

【通釈】恋していると言えば、世間一般のものと思うでしょうか。しかし今朝の私の心といったら、比べるものさえない程です。

【補記】和泉式部と初めて一夜を明かした後、親王が式部に贈った歌。新勅撰集に入集。

【参考歌】よみ人しらず「拾遺集」
恋と言へばおなじ名にこそ思ふらめいかで我が身を人に知らせむ
  源重之女「玉葉集」
いへば世のつねのこととや思ふらむ我はたぐひもあらじと思ふに

【主な派生歌】
おほかたの恋する人にききなれて世のつねのとや君おもふらむ(藤原公能[千載])

そののち、日ごろになりぬるに、いとおぼつかなきまで、音もし給はねば、
「くれぐれと秋の日ごろのふるままに思ひ知られぬあやしかりしも
むべひとは」ときこえたり。このほどに、おぼつかなくなりにけり。されど、

人はいさ我は忘れずほどふれど秋の夕暮ありし逢ふこと(和泉式部日記)

【通釈】あなたはどうか知りませんが、私は忘れません。時が経っても、秋の夕暮、あなたとお逢いしたことは。

【補記】秋になって訪れが途絶えたことを恨み、和泉式部は親王に「秋の夕暮があやしく人恋しいものだと思い知りました」との歌を贈る。それに対して親王が返した歌。


最終更新日:平成17年02月21日