河内女王
こうちのおおきみ
- 生没年 680(天武9)?〜779(宝亀10)
- 系譜など 父は高市皇子(続紀)。母は不詳。長屋王の同母または異母妹。
- 略伝 739(天平11)年1.13、従四位下より従四位上に昇叙。744(天平16)年秋か冬、左大臣橘諸兄邸に元正上皇を招いての宴に粟田女王らと参席、歌を詠む(18/4059)。
橘の下照る庭に殿建てて酒みづきいます我が大君かも
これは天平20年、田辺福麻呂が越中で大伴家持に伝誦し、記録されたもの。748(天平20)年3.22、正四位下。758(天平宝字2)年8.1、大炊王即位(淳仁天皇)に伴い、従三位。760(天平宝字4)年5.3、正三位。この時は「河内王」とあるが、おそらく女王と同一人。その後位階を剥奪されたらしく、773(宝亀4)年1.1、不破内親王の四品復位と同じ日、正三位に復位される。これは4年前の769(神護景雲3)年5月、不破内親王・県犬養姉女らの厭魅事件に連座して剥奪された官位を復されたものと思われる。779(宝亀10)年12.23、薨ず。
あるいは714(和銅7)年1.5に従四位下に初叙されている河内王も同一人か。ただし728(神亀5)年7.19に従四位下で卒している河内王なる人物もあり、判別しがたい。(河内王には舒明天皇の兄弟百済王の裔で高安王らの父と伝わる人物がいる。大原今城の略伝参照)。なお『公卿補任』宝字4年条には非参議として正三位河内王を挙げ、「五月四日叙。去二年八月叙従三位日、国史女王之由載之乎。天武天皇十[八カ]年庚辰生」とあり、これは河内女王を男王と誤っての記載らしい。天武天皇庚辰年は680(天武9)年にあたるが、この年の生まれとすれば数え100歳の長命を保ったことになる。
関連サイト:河内女王の歌(やまとうた)
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