早良親王
さわらのみこ
- 生没年 750(天平勝宝2)〜785(延暦4)
- 系譜など 光仁天皇の皇子。母は高野新笠。能登内親王・桓武天皇の同母弟。妻子がいたという記録はない。立太子以前親王禅師と称され、死後崇道(すどう)天皇と尊称された。
- 略伝 761(天平宝字5)年、11歳のとき出家し、東大寺等定僧都を師とし、羂索院に寄住。768(神護景雲2)年、東大寺より大安寺東院に移住。770(宝亀1)年、21歳のとき登壇受戒。同年父白壁王が即位し(光仁天皇)、以後親王禅師と呼ばれた。この頃東大寺運営の主導権を握ったとも言われ、宝亀2年には実忠に命じて大仏殿副柱を構立している。781(天応1)年4月、兄山部親王が即位する(桓武天皇)と、皇太弟に立てられた。この時32歳。仏教界に重きを置き人望もあった早良親王を父光仁が推輓したものかという。同年4.14、藤原田麻呂が東宮傳、大伴家持が春宮大夫、林稲麻呂が春宮亮となる。一説に、この頃家持が集めた歌集が早良皇太子に献上され、後の万葉集勅撰の契機となったともいう。785(延暦4)年9.23夜、長岡京造営工事を検分中の藤原種継が賊に弓で射られ翌日死亡するという事件が起こり、取り調べの結果、家持・五百枝王・紀白麻呂・大伴継人・大伴永主・林稲麻呂らによる皇太子早良親王を担いだ謀反であると断定される。親王は乙訓寺(現長岡市今里)に幽閉され、抗議の断食をし、10日余り後、船で淡路に移送の途中、高瀬橋(河内国、淀川の橋)のあたりで憤死。淡路に埋葬される。792(延暦11)年6.10、陰陽寮で卜定したところ、安殿親王の病が早良親王の怨霊の祟りと判明する。延暦16年5月、宮中に怪異あり、早良親王の魂鎮めが行われる。延暦18年2月、賀美能親王元服の時、再び早良親王の魂鎮め。800(延暦19)年7月、怨霊鎮魂のため早良親王を崇道天皇と追称する。
関連サイト:上御霊神社(Web-Town京都)
系図へ