安殿親王
あてのみこ
- 生没年 774(宝亀5)〜824(弘仁15)
- 系譜など 桓武天皇の第一皇子。母は皇后藤原乙牟漏。同母弟に賀美能親王がいる。子に阿保親王(在原業平らの父)・巨勢親王・高岳親王(嵯峨朝の皇太子)・上毛野内親王・石上内親王・大原内親王(斎宮)・叡奴内親王がいる。最初名は小殿(おて)と言った。奈良帝(ならのみかど)の通称がある。
- 略伝 783(延暦2)年、安殿と改名。785(延暦4)年、種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わり、立太子。延暦7年、元服。延暦9年、罹病し、11年、占いにより早良親王の祟りであると判明した。延暦17か18年頃、藤原縄主(式家蔵下麻呂の子)と藤原薬子(式家種継の子)の間の長女を妃とする。これ以後薬子を寵愛し、東宮坊宣旨として臥処に出入りさせた。醜聞を嫌った桓武天皇は薬子を宮廷から追放した。806(大同1)年、即位(平城天皇)。賀美能親王を皇太弟に立てた。同年、外祖父藤原良継に正一位太政大臣を追贈した。また翌年にかけて全国に観察使を派遣し、地方政治の実状を調査させた。807(大同2)年、謀反の嫌疑を受けた異母弟の伊予親王を自殺に追いやった。808(大同3)年、官司の統廃合を行い、緊縮財政に努めた。この頃薬子を呼び戻して再び寵愛し、尚侍に任じて権勢をふるうがままにさせた。809(大同4)年4月、病により賀美能親王(嵯峨天皇)に譲位。同年12月、平城旧京の故右大臣中臣清麻呂宅に入御(『類聚国史』所引の日本後紀逸文)。程なく嵯峨天皇が病臥すると、官人の一部を旧京に勤務させ、さらに810(弘仁1)年9月、平城への遷都を強行しようとした。9月10日、嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪すると、これに怒って11日兵を発し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、遮られて翌日平城京に戻った。直ちに剃髮入道し、薬子は服毒自殺した。822(弘仁13)年、空海から戒を受け、灌頂を授かった。824(天長1)年7.7、崩御(51歳)。天稚国高彦天皇の尊号を贈られ、楊梅陵(不詳。平城京跡の北の円丘に比定されている)に葬られた。『日本後紀』即位前紀には、長ずるに及んで聡敏、経書を博綜し文藻を工(たくみ)とした、とある。『凌雲集』『経国集』に漢詩を残し、『古今和歌集』に和歌1首を残す。
関連サイト:平城天皇の歌(やまとうた)
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