走れ!ガゼル
   ING生命愛と夢の童話コンテスト優秀賞受賞

 
 ライオンの母親は、つめたくなったわが子の身体からはなれて立ち上がった。
 子どもが何も食べなくなり、少しずつ弱っていき、動かなくなってからずいぶん時がたっていた。
 どのくらい長い間、子どもに寄りそっていたのか。ライオンはわからなくなっていた。
 しかし、ライオンは、もう二度とわが子が自分にじゃれついてきたり、食べ物をねだったりしないことは
わかっていた。
 草原には子どもが元気に自分の後を追っていたときと同じように、明るい日の光が降りそそいでいる。
 ライオンはこれから自分がどこに行って、何をしようとしているのかもわからなかった。
 今までとちがって、白っぽく見える草原にヌーの群れが見えた。
 そのとき、ライオンの鼻にかすかに水のにおいがただよってきたのを感じた。
 ライオンはそのとき初めて、自分ののどがずいぶん渇いていることに気づき、水飲み場の川に足を向
けた。

 水を飲んだ後、狩りをしようともせず、草むらに横になっていたライオンは、何かの気配を感じて立ち上
がった。
 すぐ目の前にガゼルの子どもがいた。
 ライオンとガゼルの子はしばらくじっとお互いを見つめたまま動かなかった。
 先に動いたのはガゼルの子だった。
 しかし、向きを変えたとたん、ライオンの一撃を背に受けてたおれた。
「かあちゃん」
 思わずガゼルの子どもは叫んだ。
 ライオンは、とどめをさすために振り上げていた前足をぴたりと止めた。
 地面に横たわった弱々しいガゼルの子どもに重なって、自分の子どもの姿が見えた。

 ガゼルの子どもはライオンが自分の首すじをくわえて運んでいくのを感じて気を失った。
 ガゼルの子どもが気がつくと、ライオンがじっと自分を見つめていた。
(まだ食べられていなかったんだ)
 ガゼルの子どもはちょっとおどろいた。
「おまえは『母ちゃん』といったね」
 ライオンがガゼルの子どもに話しかけた。
「かあちゃんはお前をおいて逃げたの?」
 ガゼルの子どもは弱々しく首をふった。
「かあちゃんはきのう、ぼくをかばってハイエナたちに殺されたの」
「そうか、それで群れをはなれていたのだな」
「どうしてぼくを食べないの」
 ガゼルの子どもが聞いた。
 ライオンはしばらく考えてから答えた。
「お前は、わたしと子どもの腹を満たすには小さすぎるわ。しっかり草をお食え。そして、大きくなるのよ」
 ライオンはそういうと横になり目をとじた。
 ガゼルの子どもは立ち上がった。
 とんとんと大地をふみしめてみる。まだ、少しふらふらする。
 よろめきながら、岩かげから出てみると、草原にはどこにも仲間のガゼルたちの姿はなかった。
「あの丘の向こうにいるのかもしれない」
 ガゼルの子どもは丘に向かおうとした。
 しかし、気がついてみると、ガゼルの子どもはハイエナの群れにかこまれていた。
 右にも左にも、前にもハイエナの姿が草の間から見える。
 ガゼルの子どもが走り出すと、ハイエナたちはいっせいにおそいかかってきた。
 ガゼルの子どもは必死にライオンのところまで逃げてきた。
 ライオンはハイエナたちを見ると立ち上がってものすごい声でほえた。
 草原の大地がふるえた。
「このガゼルはわたしのえものよ。だれにも手出しはさせないわ」
 さすがのハイエナたちもすごすごと立ち去っていった。
「しっかり草をお食べ、もっと大きくおなり」
 ライオンはガゼルの子どもにそういうと、また目をとじてしまった。

 草原には、ハイエナのほかにもガゼルの子どもをねらうけものはたくさんいた。
 ひょうも、チーターも草むらの中からするどい目をガゼルの子どもに向けていた。
 ガゼルの子どもはおそわれそうになるたびにライオンのところに逃げ帰った。
 ライオンはいつもけものたちを追い払うと、
「草をしっかりおたべ、大きくおなり」
と、いって目をとじた。
 ライオンはえものをさがしに行こうともせず、ガゼルの子どもといっしょになってから何も口に
していなかった。
 毎日、少しずつ弱っていき、肉は落ち、やせたひふは光を失っていった。
 ガゼルの子どもはそれには気がつかず、近くの草を食べ、あぶなくなるたびにライオンのとこ
ろへ逃げていき、夜はいっしょに寝た。

 ある日、同じライオンの仲間が四、五頭やってきた。なかの一頭が進み出ていった。
「一人じめしないで、そのガゼルをわたしたちにも分けてくれ」
「だめよ。これは、わたしと、わたしの子どものえものよ」
 それを聞いたほかのライオンがいった。
「目をさませ」
「食わないとおまえが死ぬぞ」
「お前の子どもは、この前病気で死んでしまったじゃないか」
「うるさい!」
 ライオンは怒りのうなり声を上げ、ほかのライオンにおそいかかろうとした。
 ライオンたちも、その勢いにおどろいて仕方なく立ち去っていった。
 ガゼルの子はこのとき、ライオンが脚にけがをしていて、自由に動けないことを知った。そのうえ、
ライオンは一日中眠っていることが多くなり、だんだん弱っていくようだった。
 そのようすを見ていたものがいた。
 ハイエナたちだ。
 何日かするとハイエナは、仲間を呼び、ライオンとガゼルの子どもをとりかこんだ。
 ハイエナたちがじりじりと囲みをせばめて来るのを見てライオンはいった。
「おまえはガゼルの子よ。おまえに追いつけるハイエナはいないわ。わたしが合図をしたら、まっし
ぐらにあの丘にかけのぼるのよ」
 ガゼルの子どもが何かいいかけるのをおさえてライオンは弱々しくいった。
「わたしが次の子を生んだら、必ずお前をえものとしてさがしに行くからね。さあ、お行き」
 ガゼルの子はトントンと足ぶみをした。いつの間にかその足は見ちがえるほどたくましくなっていた。
「いまよ!」
 最後の力をふりしぼったライオンの声に、ガゼルの子どもはハイエナの群れの真ん中を風のように
走り抜け丘をめざした。
 ガゼルの子に追いつくハイエナは一匹もいなかった。
 丘の上にかけのぼったガゼルの子どもは見た。
 目の前に緑の草原が見渡す限りどこまでも広がっている。
 青い空に、鳥たちは舞い、何頭ものキリンがゆうぜんと草原を横切っていく。
 そして、何十、何百頭のガゼルの群れがこちらに向かってくるのが見えた。
「ライオンのかあさん、ありがとう」
 ガゼルの子どもはふり向いていうと、矢のように仲間の群れに向かって走った。

 ライオンは夢を見ていた。
 ハイエナの群れをかけ抜けて。丘を越えるガゼルの姿を。
 いや、ガゼルに重なって、わが子がたくましく成長し、えものを追って草原をかける姿を。
 ライオンの母親は、深く静かで、永い眠りにつこうとしていた。