ザトウクジラのチャップは、波にゆられながら、青い空を飛ぶカモメ
を見ていました。
「ああ、ぼくも思いっきり空を飛んでみたいなあ」
 チャップは何百ぺんめかのため息をつきました。
 青い空を雲のようにゆうゆうと飛ぶことがチャップのゆめでした。
 どこまでも広がる青い海や、緑の島々はきっと素晴らしい眺めにちが
いありません。
 そのとき、シギたちが何羽か飛んできてチャップの体に止まりました。
「シギくん。君たちは空を飛べていいなあ。ぼくも一度でいいから空を
飛んでみたいよ」
 シギたちはチャップの体についている小さい虫を食べながらいいまし
た。
「チャップ。それは無理よ。あなたには羽がないんですからね。でも、
あなたにはいつもお世話になっているから、ちょっと試してみてあげる
わ」
 シギが空に向かって大きい声で鳴くと、たちまち何百羽、何千羽のシ
ギや、カモメたちがチャップの体の上に舞い降りてきました。
「さあ、合図をしたらいっせいに飛ぶのよ」
 鳥たちはチャップの体に爪をかけると羽をバタバタさせて飛び立とう
としました。
 でも、チャップの体はほんの一センチも浮き上がろうとはしません。
「やっぱりだめだわ。あなたって重すぎるのよ」
 そういって、シギたちは飛んでいってしまいました。

 チャップが波にゆられながら、いねむりをしていると、とつぜん、
「たすけて!」
声がして、体の下にもぐりこんだものがいます。
 チャップがおどろいてみると、友だちのイルカのサムでした。
「サムじゃあないか。どうしたの?」
「サメに追いかけられているんだ。たすけてくれ」
 チャップが頭を回してみると、海の中を黒くて不気味なサメの姿が見
えました。
 チャップはむなびれを大きく広げてサムをかくすと、近づいてくるサ
メに向かって身構えました。
「えいっ」
 おそってきたサメに、チャップは、思いっきり頭でぶつかりました。
 自分の体より大きいチャップにぶつけられたものですから、さすがの
サメもフラフラになって逃げていきました。
「ありがとう。おかげで命拾いをしたよ」
 サムがむなびれの下から顔を出しました。
「ねえ、サム。どうしたら、空を飛ぶことができる?」
 チャップが話しかけると、さすがにサムはあきれた顔でいいました。
「チャップ、空を飛ぶには羽ってものがいるんだよ。君には羽なんてな
いし、
なんといってもでかすぎるよ」
「だめかなあ」
「あきらめなよ。第一、君はジャンプさえ、ろくにできないんだから」
「サム、ちょっと見てくれる。ぼく、ずいぶんジャンプの練習はしたん
だから」
 チャップはそういってぐうんと水の下へもぐっていくと、思いっきり
空へ向かってジャンプしました。
 水しぶきを上げてチャップが水面に落ちると、サムが波にゆられなが
らいいました。
「だめだめ。しっぽが水からはなれていないよ。空を飛ぶなんてとんも
ない」
「そうかなあ」
 チャップはがっかりしました。
「おーい。サム。何をしているんだ」
 サムの仲間のイルカたちがたくさん群れになってやってきました。
「そうだ。いいことを思いついたぞ」
 サムは仲間たちと相談するとチャップにいいました。
「ぼくたちが手伝うから、もう一度ジャンプしてみろよ。少しぐらいな
ら飛べるかもしれないよ」
 チャップはそれを聞いて大喜びで、もう一度海にもぐると思いっきり
ジャンプしました。
 イルカたちはチャップのからだの下にぴったりくっついていっしょに
ジャンプしました。
 ジャンプのうまいイルカたちが、チャップを持ち上げようとしたので
す。
「だめだ。やっぱりしっぽが水からはなれない。きみが重すぎるんだ」
 イルカたちが行ってしまった後にやってきたのはアザラシのギルでし
た。
「やあ、チャップ。何を浮かない顔をしているんだ」
「ギル、どうしたらぼく、空を飛べるかなあ」
 チャップがいうとギルはふき出しました。
「チャップ、じょうだんだろう。きみが空を飛べるぐらいなら、ぼくなん
か軽く月まで飛んでいけるよ」
 ギルはしばらく笑っていましたが、やがて何かを思いついたようにいい
ました。
「そうだ。今ごろになると、ときどき台風が起こるだろう。あのすごい嵐
の中でジャンプしたら、風に乗って、少しぐらいなら飛べるかもしれない
よ」

「ありがとう。ギル」
 チャップは今度台風が来たら、ぜひ試してみようと思いました。
 何日かたって、空には黒い雲がびゅんびゅんとび、強い風が波を吹きち
ぎって
台風が近づいてきました。
 いよいよ嵐が一番激しくなったとき、チャップは風下に向かって思いっ
きりジャンプしました。
「風に乗れっ!飛ぶんだ」
 でも、やっぱりチャップのしっぽは水面からはなれませんでした。


「やあ、チャップ。少しは飛べるようになったかい」
 カモメたちがからかうのにチャップは答えることができずに、だまって
しおを吹き上げました。
 はずかしくなったチャップが海の中に深くもぐっていくと、海底の岩の
上にお
ばけのように大きいイソギンチャクがいました。
 イソギンチャクは長いしょくしゅをゆらゆらのばしながらいいました。
「お前はチャップだろう。空を飛びたいんだって?」
「うん。でも、どうしても飛べないんだよ」
「いいことを教えてあげよう。秋の満月の夜、月がちょうど真上に来たと
きに一心に祈れば、願いがかなえられるって昔からの言い伝えがある」
「本当なの?」
 チャップは目を輝かせました。この、何百年も海の底で生きてきた巨大
なイソギンチャクのいうことは、きっと本当のことにちがいないと思った
のです。
 それから、チャップは毎日、まだかまだかと満月の夜を待ちました。

 とうとう、満月の夜がきました。
 チャップは東の海から顔を出したまんまるい月が頭の真上までくるのを
待っていました。
 そのとき、向うの海にざわざわと波が立って、チャップのいるほうに何
かの群れがやってくるのに気がつきました。
「あっ、イルカたちだ。サムもいるのかな」
 しかし、次のしゅんかん、チャップは心臓が止まりそうになりました。
 イルカたちのまわりに、いくつもの真っ黒な三角の背びれを見せてすご
いスピードで泳ぐものがいたのです。
「シャチだ!イルカたちをおそっているのだ」
 シャチに追い立てられたイルカたちは、チャップのいるところまで逃げ
てきました。
 シャチたちは、だんだん囲んでいる輪をちぢめてきて飛びかかるすきを
ねらっています。
 矢のように一頭のシャチが目の前のイルカにおそいかかりました。
「えいっ」
 チャップは思いっきり頭でシャチにぶつかりました。
 ひるんだシャチは、いったんは下がりましたが、あきらめる気配はあり
ません。
「あっ」
 とうとう、一頭のイルカが、シャチに食いつかれてしまいました。
「ああ、もうだめだ」
 そのとき、チャップの目に、頭の真上に青く輝くまんまるい月が見えま
した。
「お月さま。お願いです。イルカたちを助けてください」
 チャップは夢中で祈りました。
「あっ」

 
ふと、気がついてみると、チャップもイルカたちもまるで水のような青
い月の光の中を空に向かって浮き上がっていました。
「ぼくたちは空を飛んでいるんだ」
 下の海ではシャチたちがわけがわからないといったようすで、うろうろ
と泳ぎま
わっているのが見えました。えものがどこに行ってしまったのかきっとわ
からないのです。
 チャップたちはどんどん空の上に上っていきます。
「とうとう飛ぶことができたね」
 そばにやってきたのは友だちのサムでした。
「うん。でも、みんなが助かったことがいちばんうれしいよ」
 チャップは答えました。
 チャップの目には、下に広がる青い海や、その向うに静かに眠る島々の
姿が影絵のように見えてきました。


          もくじ     ホーム 


くじらの坊や空をとぶ