162. 土佐久礼八幡宮と双名島
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JR四国の土佐久礼駅は高知から53kmの距離にある。駅には大正町市場と
双名島の大きな案内板がある。大正町市場には「お父ちゃんの釣った獲れだちの魚、
こじゃんとおいしいき買うてみんかえ~」と書かれカツオの絵があり、
双名島には「だるま朝陽が昇るまち」と書かれ二つの島の間から朝日が昇る絵が
描かれている。
私が70年前に卒業した久礼小学校を訪ねた後の計画はなかったが、懐かしい
八幡宮に向かうことにした。その途中の大正町市場に入る(写真①)。
写真① 土佐久礼大正町市場。
不確かな記憶を確認するために店のおじさんに「大正町市場は昔の大火事の後にできた
市場でしょうか?」と尋ねると、「大正4年(1915)1月の大火で200戸余り
が焼失し、大正天皇から当時のお金で350万円が復興費として届けられた。
町民は感激して町名を大正町に変えて現在にいたっている」とのこと。久礼湾で
獲れたばかりの鮮魚がこの市場に並び、時間帯によっては買い物客で賑わうという。
市場から南へ200mほど歩くと久礼八幡宮がある。私は小学生時代、久礼
小学校から約4km南の笹場(当時の上ノ加江町笹場)に住み、5年生と6年生の
時は歩いて通学した。
今は自動車道ができているが、当時の笹場は自動車も通らない田舎であった。
通学時は八幡宮の前と大正町市場入口前を通った。
八幡宮の鳥居脇の案内版に次の内容が書かれている。
『久礼八幡宮大祭は、県下三大祭りのひとつとして知られ、旧暦八月十四日、
十五日の両日は、町内外の参拝者で賑わいます。現在の社殿は文政八年(1825)
に再建されたもので、勧請年月は不明ですが、嘉吉(1441~1444)のころ
社殿建立と古い記録にあります・・・・・』
また、拝殿前の広場には次の由緒が書かれている。
『宝永(1707年)地震暴潮のため社殿破損し、棟札の類流出し、・・・・。』
宝永地震について1986年版と2009年版の理科年表によれば、震源は
紀伊半島沖、マグニチュードは8.6、津波は伊豆半島から九州に至り、瀬
戸内海にも達している。久礼は25.7mの津波と記されている。この地震は
遠州灘沖および紀伊半島沖で2つの巨大地震が同時に起こったとも考えられている。
なお、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震のマグニチュードは9.0
で日本周辺における観測史上最大の地震であり、宝永地震はこれに次ぐ巨大地震
であった。
正面の拝殿(写真②)の左方に厄除石がある(写真③)。案内板によれば、
この石は大正初期に久礼指川の工事中に土中から発見され、八幡宮に寄進された
ものである。
『この石は約1億年前のころの粗粒砂岩であり、旧河床にあった砂岩が約1万年前に
急流で洗われて、小石と渦によって浸食されて窪みができた。この窪みはポットホール
と呼ばれる』(昭和55年高知大学教授・甲藤次郎鑑定)。
写真② 久礼八幡宮。
写真③ 厄除石。
旧暦八月十四日、十五日の大祭は新暦の九月に行われる。境内に掲げられた
祭りの写真などに示された内容と、昔の私の記憶が異なるので社務所で尋ねた。
「70年以上の昔は拝殿前から正面鳥居に向かって若者が隊列を組んで真剣を
振りかざす舞のような太刀踊りをしながら進む行事がありましたが、現在は
行われていないでしょうか?」と。
社務所の方は太刀踊りのことは知らないようで、「現在は行われていません」
とのこと。真剣の舞は、隊列の両側で見物する大勢の参拝人にとって、当時の
小学生だった私は危険に感じていた。そのため、安全第一の現在は中止に
なったのかもしれない。
現在は、大松明が深夜の町内を練り歩き、明け方に八幡宮にたどり着くらしい。
しかし、私の記憶では、上ノ加江や笹場など各集落にある神社から夜中に出発し、
多くの松明をかざし太鼓を打ち鳴らす隊列が集落ごとに人数を増しながら八幡宮
へ向かった。小学生の私も隊列について行った。そして夜が明けて、太刀踊りを
見学した。近年は若者も少なくなり、こうした行事は困難になったのであろうか。
八幡宮の前浜に出ると、大きな津波避難タワーがある(写真④)。
説明板によれば、海抜6mの場所に屋上階23.3m、避難対象人数400名、
最大級津波想定ラインは13mと記されている。
沖合には双名島が見える(写真⑤)。私は久礼から南方の上ノ加江まで何度
も行ったことはあるが、反対側の海岸にある双名島まで行ったことはない。
直線距離は1.5kmほど、歩いて約1時間とみて、思い立って行くこと
にした。
写真④ 津波避難タワー。
写真⑤ 双名島遠景。
海岸沿いに歩く途中、双名島からさらに安和まで歩いてみたくなり、鎌田のトンネル
の近くにある縫製工場の女性に、「双名島から安和まで歩いてどれほどかかるで
しょうか?」と聞くと、「1時間ほどで行けると思います」とのこと。
鎌田の築港には久礼験潮場がある。数分間歩くと双名島の近くに着いた(写真⑥)。
双名島の伝説が次のように書かれている。
『その昔、暴風雨のたびに久礼浦の人々は大きな被害を受けていた。それを聞いた
鬼ヶ島の鬼が、久礼浦の荒れるのを防ぐため大岩をオークに突き刺し、ここまで
運んできたが、力尽きて「おおの」と言ったまま倒れ、海中に沈んでしまった。
だから島には穴が開いているし、その付近を「大野」と言ったのだ。』
写真⑥ 双名島。
道路脇に車を停めて釣りの準備をしていた男性に、「安和までの距離はいくらで
しょうか?」と尋ねると、彼はスマホを取り出し地図を見てくれた。とても
1時間で行ける距離ではないことが分かり私は久礼まで引き返すことにした。
ちょうどその時、縫製工場の弘田隆偉さんが私を心配して車で追いかけてきた。
「安和まではかなり遠いですが行きますか、それとも久礼まで引き返しますか、
いずれにしろ車にお乗りください」。私は久礼駅まで送っていただくことにした。
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