161. 高知県の久礼小学校
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私は、高知県の中西部の高岡郡久礼町(現在の中土佐町)の久礼小学校を昭和21年
に卒業している。
2002年の四国遍路の歩き旅では小学校の下の道を歩き、2014年から
2015年にかけては列車から小学校を眺めながら四万十川流域へ気温観測に行った
ことはあるが、卒業以来小学校を訪ねたことはなかった。JR土佐久礼駅から見る
久礼小学校は昔と違って鉄筋3階建てである(写真①)。
写真① 土佐久礼駅から見上げた中土佐町立久礼小学校。
2016年11月15日、高知市へ行った機会に、久礼小学校を訪ねることに
した。昔の通学路は面影が残るが、階段や手すり、山肌はコンクリート張り
できれいに整備されている(写真②)。
写真② 久礼小学校への東からの登り口。
登り口から上って校門に近づく道の崖には終戦の少し前に掘られた防空豪が
あったが、それはコンクリートで覆われ見ることはできない。小学生の私たちが
別の坂道につるはしで掘った防空壕も見えなくなっている。安全第一の現在では、
小学生に山腹に横穴を掘らせる危険な作業はとても考えられないことである。
坂道の上端には校門があり、昔を思い出す(写真③)。校門をくぐり左手にある
現在の駐車場は、当時は教育勅語の保管庫「奉安殿」があり、毎朝ここで最敬礼
をしていた。昔の木造校舎は耐震構造の3階建てになっている(写真④)。
写真③ 校門直下の坂道。
写真④ 校舎の玄関、南西方向から撮影。
突然の訪問ながら、校長室に案内され梅原美佐校長先生にお会いすることができた。
校長先生は百周年記念で作成した写真集の昭和21年卒業生のページを開いて
いただいた。私らしい顔が最前列に写っていた。
当時の小学校では、沖合約1kメートルにあるライオン島までの遠泳が行われて
いた。現状を尋ねると、その後は小学生ではなく中学生が遠泳するようになって
いたが、事故があり現在は中止されているとのことである。
校長先生に校舎内を案内していただく。私たちの時代は1学年3クラスで全校
生徒数は千名ほどであったが現在の生徒数は200名弱に減り、空き教室は地震
津波時の避難場所となり必要物資が保管されている。小学校の標高は、
国土地理院地図の三角点では43.2メートル、大津波でも大丈夫
であろう。
運動場ではマラソンの練習が行われている(写真⑤。左手には昔は
校舎があり、私たちの教室があったが、現在は水泳プールになっている。戦時中の
運動場は、周囲のみ走れるように残し、広い中央部はイモ畑であり食料不足を補った。
写真⑤ 運動場、南西側から撮影。
終戦直前は、アメリカ軍が土佐湾から上陸するかもしれないとして教室は陸軍
部隊の宿舎となり、私たちは山奥の神社や海岸の砂浜で勉強した。
海岸で勉強中にアメリカの航空機が超低空で突然現れ、私たちは逃げ隠れした。
土佐湾からアメリカの艦載機の大群が毎日のようにこの上空を広島方面に向かった。
その帰途、小学校の脇に爆弾が落とされたが幸いにも不発で終わった。
小学校の西南側に新しくできた車道を下ると、道端に「天正十九年銘
四国中遍路逆修塔」の案内板がある。小道を10メートルほど登ると実物があった
(写真⑥)。その説明によれば、天正19年(1591)に今の岡山県の円心
という修行僧が、四国中遍路七度達成を記念して建立したものであり、
「逆修」とは、中世に行われていた風習で、本人が生前に自分の死後の供養を
することである。この逆修塔は中土佐町文化財に指定されている(平成十四年
十月 中土佐町教育委員会)。
写真⑥ 四国中遍路逆修塔。
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