116. 京橋から歌舞伎座まで

著者=近藤 純正
東京の銀座通りの京橋から新装なった歌舞伎座まで歩くと、江戸から東京になり、 また最近でも大きく変わりつつあることを知った。 (完成:2013年3月10日)

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東京はいつ行ってもビルが増えており、高層化している。江戸から現在の東京への 変遷の一部を知ることができる。

2013年3月7日、銀座を南のほうへ向かって歩く。京橋と京橋川の案内板がある。 橋があったと思われる親柱があるが河はないので、交番で「河は埋め立てたでしょうか ねー?」と訊くと、「埋め立ては相当前のことでしょう」と言う。元の河の上には 高速道路が走っている(写真116.1)。

京橋跡地
写真116.1 京橋跡地。橋の親柱は明治3年のものと大正11年のものが橋詰に保存されて いる。写真の親柱(橋南詰の東側)は大正11年製(2013年3月7日)。

案内板によれば、京橋川は江戸城の外濠から東に流れる約600mの河であったが、 埋め立てられた。京橋の名前の由来は、江戸の日本橋、江戸橋に対して名付けたもの、 また、日本橋から京へと向かう最初の橋にあたることから名付けられたともされる、 と説明されている。

私の故郷・高知には京町があり、江戸時代に京都の人々が移り住んだ老舗店の多い町 であることから、東京の京橋は、京都の人々が当時移り住んで店を開いていた場所の 近くにあった橋という、異論もありそうだと想像した。

江戸時代から京橋は何度となく架け替えられ、明治8年(1875)には石造 アーチ橋に、さらに明治34年(1901)には橋の長さと幅員共に18mの鉄橋と なり、・・・・・。昭和38~40年の京橋川埋め立てに伴い撤去されている。

道路脇には大きな記念碑がある。説明の内容を要約すると次の通り。

寛永元年(1848)元祖猿若中村勘三郎が此の地に芝居櫓を上げる。これが江戸 歌舞伎のはじまり、国劇歌舞伎発祥の地として記念する。昭和32年建立江戸歌舞伎 旧史保存会。

「江戸歌舞伎発祥の地」の石標の左右には歌舞伎を演ずる画が彫られている (写真116.2, 116.3)。

江戸歌舞伎発祥の地
写真116.2 江戸歌舞伎発祥の地の記念碑。

歌舞伎を演じる姿
写真116.3 江戸歌舞伎発祥の地の記念碑の両脇に彫られた歌舞伎を演じる姿。

京橋跡の東側には、煉瓦(レンガ)銀座の碑が設置され(写真116.1のほぼ中央の 位置にある碑)、説明を要約すると次の通り。

明治5年(1872)2月26日、銀座は全焼、築地方面まで延焼し、4千戸が消失。 東京府知事・由利公正は銀座全域の不燃性建築を企画し政府は国費を以てレンガ造り ニ階建アーケード式洋風建築を完成する。レンガ通りと通称せられ銀座通り商店街の はじまりとなる。昭和31年4月2日

銀座の三越百貨店の角を左折、東へ歩くと、新装なった歌舞伎座がある。建物表の面 は昔の造りを保存し、うしろ側は約140mの高さのビルとなっている(写真116.4)。

歌舞伎座
写真116.4 新装なる歌舞伎座。背後の建物の高さは概略約140m。

記憶をたどれば、私は40年余前、相模湾に大型施設「海洋観測塔」を持つ科学技術庁 の研究所(現在の防災科学研究所)の平塚支所に5年間ほど勤務した。その時の本所は 歌舞伎座の近くにあった(現在はつくば市)。その本所に行く時は歌舞伎座の前を 通ったものだ。当時の道路幅に比べて、現在の道路は大幅に拡幅されたように思う。

新装の歌舞伎座には「歌舞伎座新開場、あと26日」の電光掲示板が掲げられていた。 その横には4月に開場される「柿葺落四月大歌舞伎」から一年間の大きな案内掲示が ある。

私にとって「柿葺落」という文字になじみがない。漢和辞典で調べると、 柿(こけら、木部が4画で縦棒が上から下まで突き抜ける文字)は木部が5画の柿 (かき)と異なる文字、漢字の「はい」の俗字である(印刷の文字では、漢字の 「こけら」と「かき」の区別はほとんどできない)。

したがって「柿葺落」は「こけら落とし」と読み、新たに建てられた劇場で初めて 行われる催しのことである。こけら落としが毎月、来年3月まで1年間の案内が 掲示されてあった。

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