115. 東京駅から日本橋まで

著者=近藤 純正
江戸の北町奉行所と南町奉行所は、それぞれ現在の東京駅と有楽町駅の付近にあり、 両者間の距離はわずか1kmほどであった。一石橋から日本橋付近は 江戸後期の盛り場であり、迷子探しのための告知石標が設置され人々は助け合って 暮らしていた。(完成:2013年3月10日)

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東京・江戸を歩くと知らなかったことを発見する。史蹟案内板があちこちに設置され ており、昔の人々の暮し方の一片から、今日の私たちの生きるべき道を学ぶことが できる。

皇居のお堀端のパレスホテルから東京駅へ向かう途中、北のほうを見ると赤レンガ造り の古い建物がある。私は以前から、これを日本銀行本店だと思い込んでいた。前回の 「旅のたより(114)」の東京駅に至る道中で 掲載しようとして、調べると地図には日本銀行とは記されていなかった。

ものを書くときは、確かめなければならぬので、本人自身の勉強になる。地図には、 日本銀行は東京駅の東側、神田駅寄りの日本橋本石町二丁目にある。

記憶違いをしていたビルに行くと、東京銀行協会ビルヂングであった(写真115.1)。 この建物は大正5年(1916)築、元の東京銀行集会所、建物の表面に相当する 部分を保存し、現在は20楷建てとなっている。

東京銀行協会
写真115.1 東京銀行協会ビルヂィング(2013年3月7日)。

実物の日本銀行を見ておくべきと、東京駅から出発した。地図に史蹟「北町奉行所跡」 があるが見当たらないので、大丸百貨店脇の八重洲口交番で聞く。お巡りさんは、 よく尋ねられるらしく、カラーの道順が入った地図で教えてもらった。

史蹟名盤のある場所は、東京駅新幹線の端と大丸百貨店の境界、東京駅の一部にも 大丸百貨店の一部にも見える建物の中の通路脇、ちょうど屋外に出るガラスドアの 近くにある。床面近くの高さに、気づきにくい場所に貼り付けられ、次のような内容 が記されている(要約)。

江戸町奉行は徳川幕府の職制の一つで、寺社奉行、勘定奉行とともに3奉行と呼ばれ ていた。定員は2名で南北両奉行に分かれ、月番で交互に執務した。名高い遠山 金四郎は天保11年(1840)3月から3年間、北町奉行を務めた (東京都教育委員会)。

私は、北町奉行所と南町奉行所はかなり離れていると想像していたが、南町奉行所跡 は隣の有楽町駅の近く、互いに1キロメートルほどしか離れていない。

本物の日本銀行への途中、北へ歩くと一石橋がある(写真115.2)。 一石橋
写真115.2 一石橋(いちこくばし)、橋の親柱の隣に迷子しらせ石標が並ぶ。

案内板には次の内容(要約)があり、江戸の人々は助け合いながら暮していたことが わかる。

江戸後期になると、この辺から日本橋にかけて盛り場、迷子も多かった。迷子は、 町内が責任をもって保護することになっていた。一石橋の橋詰に、迷子探しのための 告知石碑「まよう子のしるべ石標」が建立された。付近の諸町名主などが世話人と なり、町奉行に申請したものである。碑文の両側上部の窪みには、迷子や尋ね人の 特徴を書いた紙を左側に貼る。通行人に心当たりがあれば、その旨を書いた紙を右側 に貼って知らせた(東京都教育委員会)。

そのすぐ北側の一角に日本銀行本店が見える。建物ができたのは古いが、記憶違いの 建物とは似ているようで、かなり違っていた(写真115.3)。

日本銀行本店
写真115.3 日本銀行本店。

300メートルほど東に日本橋がある(写真115.4)。

橋のたもとには、中央区教育委員会が設置した案内板には次の内容の説明がある (要約)。

国指定重要文化財「日本橋」は徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)に 架けられた。東海道をはじめとする五街道の基点、橋詰には高札場や魚河岸があった。 現在の日本橋は明治44年(1911)に完成したものである。

日本橋
写真115.4 左の写真は日本橋、左方が銀座に至る通り、右の写真は日本国道路元標 (複製)。

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