111. 皇居二重橋から北桔橋まで
トップページへ | 小さな旅の目次 |
皇居の近くはよく通る所だが、二重橋は60年ほど前に行ったのみである。2013年
32日、久しぶりに訪ねてみた。ここは外国人観光客も多い。二重橋は、60年前の
印象とまったく同じであった(写真111.1)。
写真111.1 二重橋(3月2日)。
写真111.2 皇居外苑。
しかし、歩いてきた東京駅の東方向を振り返ると、皇居外苑の向こうには高層ビルが
並び、広場の松をはるかに超えた高さに見える。昔は建築物の高さ制限があり美観が
とてもよかった記憶がある(写真111.2)。
今は午前中なので不明だが、昔は夕方には、この芝生に無数の二人連れが居り、
田舎者の私は驚いたものだ。
お堀に沿って北方向へ、大手門にくると、「江戸城再建を目指す会」の赤いたすき
がけのグループに出会う。江戸城の天守閣は約350年前の明歴の大火(1657年)
で焼け落ちたあと、今日まで再建されることがなかった。認定NPO法人「江戸城再建
を目指す会」が活動している。写真111.3は、この会の副理事長・秋山長司さんと
理事・三井誠三さんである。
天守閣再建の費用はいくらかかるかを尋ねると百億円から三百億円? 総ヒノキ造り
を目指しているという。再建されれば、東京の都市景観は一変し、日本を代表する
偉大なモニュメントになる。大震災の復興に向けて歩み始めた日本に、希望と勇気を
与えるシンボルにもなる。現在の会員総数は約3千人という。
写真111.3 江戸城再建を目指す会の秋山長司さんと三井誠三さん。
写真111.4 大手濠緑地、右に和気清麻呂公像、左に震災いちょう。遠方中央の建物は
毎日新聞社が入っているビル。
次いで気象庁前の大手濠緑地、ここは気象庁前身の中央気象台があったところ、
以前から何度もきた場所である(写真111.4)。
ちょうの木があり、案内板には「震災いちょう」として説明されている。要約すると
次の通りである。
この木は文部省跡地(現在のパレスサイドビル・住友商事竹橋ビルなど)にあった。
大正12年(1923)の関東大震災によって焼け野原となった都心で奇跡的に生き
残り、当時の人々に復興への希望を与えた。その後、伐採されることになったが、
当時の中央気象台長・岡田武松が、後世に残したいと思い復興局長官の清野長太郎に
申し入れて、中央気象台敷地内に移植された由緒あるいちょうである。
私は、この「復興いちょう」の由来をはじめて知った。一昨年の大津波で生き残った
陸前高田の「奇跡の一本松」を連想した。
岡田武松(1874~1956)は気象台勤務、大正3(1914)から東北大学
教授兼任、大正12年(1923)から第4代中央気象台長となる。学問上は私の
先々代に相当する。
きょうは土曜日の快晴、皇居の周りを半時計回りにマラソンする人々が次々と走って
くる。大きな切り石を重ねた顕彰標がある(写真111.5)。これは、平成19年9月25日に建立
されたもので、次の内容(要約)が記されている。
この追慕の碑は、太田道灌公没後450年を記念して建立された。道灌が長禄元年
(1457年)の江戸城を築城して550年になる。道灌は文武両道に優れ、負け
知らずの武将。江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌がその横顔を伝える。
”七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき”
写真111.5 太田道灌没後四百五十年記念顕彰標。
写真111.6 東京国立近代美術館(手前)、と遠方左手は国立公文書館。
北桔橋門(きたはねばしもん)に近づくと東京国立近代美術館と国立公文書館がある
(写真111.6)。
舗道で小学生たちと一緒に歩く。「科学技術館に行くの?」と尋ねると、つくば市から
見学に来たという。科学技術館はこの先を右折した北の丸公園にあり、いつも大勢の
少年たちが見学する施設である。
トップページへ | 小さな旅の目次 |