107. 酒匂川の堤防を歩く
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2012年6月3日のこと、開成町のあじさいの里を一巡してから、神奈川県酒匂川の堤防
=サイクリングコース=を歩いて下る。
酒匂川といえば、金次郎の名前で有名な二宮尊徳(1787~1856)が子どもの
とき、堤防に200本の松を植えたことで知られている。昔の小学校の修身で習った
ように記憶している。
暴れ川と文命堤
このサイクリングコースの距離は約9キロメートル、その標高差は約60メートル。
右手に富士山と箱根連山が見える。
コースの起点は南足柄市の大口橋の近く、そこには幅の広い大口堤「文命堤」がある。
酒匂川は昔から「暴れ川」と呼ばれ近隣の田畑や人々に甚大な被害を与えていた。
ひどいときには一つの村全体で半分以上の家が洪水で流されたと記録にある。
第8代将軍・吉宗の命による大規模治水工事で完成したのが文命堤である。
吉宗は国を再建するために、全国各地で新田開発を勧め、その一環として酒匂川の
治水工事が行われた。吉宗が信頼していた大岡越前(1677~1752)が現場
責任者の田中丘隅(きゅうぐう)に治水工事をさせたのである
(永原慶二著、2002:「富士山宝永大爆発」、集英社新書、267pp.)。
災害の歴史を調べると、宝永4年(1707年)に富士山の宝永噴火があり、酒匂川
にも降砂が流れ込み河床が上昇、大口堤などを決壊させた。その後、享保11年
(1726年)田中丘隅が大口に文命堤を築造した。この時代の酒匂川の氾濫は
繰り返し続いた。
二宮尊徳全集と神奈川県史資料編によると、富士山の宝永噴火により相模・伊豆・駿河
の全体のコメ収量は半分に落ち、その復旧には約90年の歳月を要した。復旧半ばの
1782年8月23日には丹沢でM7の大地震、翌1783年6~8月には浅間山
の大噴火、天明の大飢饉へと続く。
話はもどして、サイクリングコースを歩いて下ると、水神をいくつも見る
(写真107.1)。
写真107.1 酒匂川の水神。
写真107.2 信玄堤(霞堤)、手前の堤防との間に水田がある。
写真107.3 信玄堤(霞堤)の解説板(酒匂川堤防の案内板による)。
多くの水神は暴れ川の歴史を語るものである。霞堤と松並木堤防が途切れる
ので、陸側の堤防へ向かう。その中間には田んぼがある(写真107.2~107.3)。
霞堤は武田信玄の考案とされることから「信玄堤」ともいう。あえて堤防を
切って二重に並行して設置することで洪水時の遊水機能を持たせてある。以前には
酒匂川の右岸には九十間堤、坂口堤、中曽根堤があった(写真107.4)。
写真107.4 3つの霞堤の場所を示す昔の地図(酒匂川堤防の案内板による)。
当時の姿をよく残しているのが報徳橋の上流にある坂口堤である。
酒匂川の堤防には松が多く植えられている。酒匂川の歴史や水防工法を紹介する
「酒匂川ふれあい館」でもらった資料によれば、昔の住民が小田原藩に願い出て
8,000本の松の苗を植え、金次郎も200本を植えたという。
松並木はなぜ植えたか。それは洪水のとき松の幹を切り堤防の横につなげて激流を
弱めさせるとともに(木流し工法)、松並木が川から溢れた水の勢いを弱めさせる
ことが目的であった。現在は1,000余の松が残っている。
松並木の減少
昭和になり、第二次世界大戦のとき、酒匂川堤防の松の多くが資源という理由から
切り倒された。私の記憶では戦中に油が枯渇し、松の根から「松根油」を作ると
言われていた。また、食塩も不足し、海岸地域では松を伐採、燃料にして農家が
海水を煮詰めて製塩していた。サツマイモを持参し、焼き芋を作ってもらった
思い出がある。
その当時、コメはめったに口にすることのできない空腹の時代であった。少年期の
成長がもっとも遅れたと言われている時代の私は、まもなく80歳、
医学の進歩のお陰で心臓手術後25年目、きょうも生きている。
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