106. 小田原大海嘯

著者=近藤 純正
明治時代の小田原で台風による高波が相模湾一帯に災害をもたらした。その絵巻の 展覧会を見学した。(完成:2013年3月5日)

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宮古の浄土ヶ浜にあった昭和8年の津波記念碑「大海嘯(かいしょう)記念碑」を 見てからおよそ1か月後のこと、新聞に「小田原大海嘯」を描いた絵巻の展示会が 神奈川県開成町民センターで開催されるという記事があった。

2011年3月11日の大津波で被災した宮古を見学した直後の記事、ぜひ見てみたく なり、2012年6月3日に見学した。

絵巻の展示会
絵巻は110年前の明治35年(1902年)9月28日の台風による高波が相模湾 一帯に災害をもたらした内容であり、2巻計22枚から成る。絵巻にはそれぞれの 場面が詳細に描かれ、登場人物の実名も記録されている。許可を得て写真撮影。 22枚のうちの3枚が写真106.1~106.3である。

展示会主催の説明者によると、地震による津波と違い、台風などによる高波が陸地を 襲うのが海嘯とのこと。しかし、私は先日、宮古で津波による「海嘯記念碑」を 見てきたので、説明者に対して「海嘯とは、地方によっては台風による高波・高潮 であり、あるいは地震による津波のことを指すようだ」と話した。

広辞苑によれば、海嘯とは、満潮が河川を遡る際に、前面が垂直の壁となって、 激しく波立ちながら進行する現象「潮津波」である。以上をまとめると、海嘯とは 地震による津波のほか、台風による高浪・高潮、潮汐による波の壁が陸地に向かって 襲う現象の総称であろう。

説明者から頂いた資料によれば、小田原では、明治35年以前にも、しばしば台風に よる被害に見舞われている。明治10年、13年、25年、32年にも大きな被害が あった。さらに、江戸時代の元禄16年(1703年)の元禄地震津波による大海嘯 と天保6年(1835年)の台風による大海嘯の記録がある。

森林と集落と波
写真106.1 絵巻「森林と集落と高波」。

流される人馬
写真106.2 絵巻「街中を流される人馬」。

破壊された家
写真106.3 絵巻「破壊された家が流される」。

天保6年の相模湾大海嘯の記録から仙台の洪水災害を思い出す。それは、仙台で 同年8月29日に未曾有の大洪水があり、続く9月13日の大洪水では、仙台城下の 大橋、小橋は残らず流失している。

仙台城下での大洪水による田畑の冠水で泥水・砂礫の除去ができないまま、翌年の 天保7年(1836年)の大冷夏で東北地方は未曾有の天保大飢饉に見舞われること になる(「身近な気象」の「3.気候変動と人々の暮らしー歴史に 学ぶー」を参照)。

海岸の縮小が原因
話を小田原に戻す。江戸時代に比べて明治時代に大海嘯が多くなったのは、郷土史 研究家の中野敬次郎著「明治35年の小田原大海嘯」によれば、時代とともに海岸 の縮小が原因としている。

徳川幕府以前の北条時代の小田原城下町は大外郭が堅固な土塁を以て築かれていた。 これは城下防衛の軍事施設であるとともに、海岸線では、波除堤防の役目をしていた。 その外側には広い砂浜があり塩田が開けていた。

天正18年(1590年)の小田原陣の際、城東今井村に陣を張った徳川家康が、 石垣山の豊臣秀吉の本営に連絡に行く際、外郭線の外側の波打際が往来でき、 当時の浜辺が現在よりはるかに広かったことが知られている。

備考: 一夜城のことは、「103.大地震の跡:根府 川と一夜城」に説明がある。

ところが江戸時代の中程から新田開発と人家の建設が進んだ。民家の増加、水田の 拡大とともに防波堤はしだいに海側に移動して浜辺の広さが縮小していった。 これが明治時代の小田原での大海嘯が多くなった主な原因だとしている。このほかに、 波除堤の修理と保護とが久しく放置されていたことも度々の被害をこうむるに至った と考えられている。

2011年3月11日の大津波による東北地方の大災害も、これに似ているのでは ないか。時代と共に海岸近くに人家が増えて大津波災害を大きくしたとも言える。 いま、東北地方の各地で高台移転の案がある。ぜひとも実現して欲しい。

開成アジサイの里
絵巻の展示会を見学した後、開成アジサイの里を一回りした。アジサイ祭りは 1週間後の6月9日から17日までとなっており、満開には少し早い(写真104.6)。 このアジサイの里は17ヘクタールの水田地帯の野道・水路沿いに約5千株の アジサイが植栽されている。来週のアジサイ祭りは賑わうことだろう。

あじさいの里
写真106.4 開成町のあじさいの里。

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