102. 大地震の跡:茅ヶ崎と平塚

著者=近藤 純正
関東大地震では、鎌倉時代に相模川に架けられていた橋の橋脚が、液状化現象によって 突然、田んぼの中に出現した。また相模川の鉄橋と国道の橋が倒壊した。これらの跡を 訪ねた。(完成:2012年1月12日)

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関東大地震のとき、鎌倉時代に相模川に架かっていた橋の脚が突然、田んぼの中から 飛び出してきた。それを保存する再整備が数年前に行われ、工事も終わったはず、 思い出したので2012年1月3日、見に行くことにした。

鎌倉の源頼朝も渡り初めしたという橋は、現在の相模川の東、約1.5キロメートル の茅ヶ崎市下町屋、小出川のすぐ東岸にあった。現在の相模川は平塚市と茅ヶ崎市の 間にあり、拡幅されて南北に流れ、国道1号線の馬入橋は長さ560メートルもあるが、 昔はだいぶん違っていた。

1923年の関東大地震によって発生した液状化現象で突然出現した800年前の橋脚は、 1926(大正15)年に国の指定史跡となっている。写真102.1は田んぼに出現した 当時の橋脚である。

発掘調査によると、その指定後に整備された初期保存池は、木柵で囲まれ、外側には 土盛りした周堤が築かれていた。

田んぼに出現した橋脚
写真102.1 関東大地震によって出現した鎌倉時代の相模川に架かる橋の橋脚(出典は 復元された国の指定史跡の案内板)。

橋脚の再現
写真102.2 池の中に保存整備された鎌倉時代の橋脚(複製品)、実物は腐朽せぬよう 地下2.65mに保存されている。

2001年から再整備が行われ、現在は写真102.2の姿で保存されている。木製の橋脚が 腐朽せぬように、実物は地下2.65mに保存され、地上には複製品が作られている。

写真102.3でもわかるように、作業中の人間の大きさと比べると大きな橋脚である。 樹種はヒノキ、断面は最小49cm、最大69cm、長さは369cmである。 橋脚の並びから橋の幅は9メートル、長さは40メートル以上と推定されている。 橋はおおよそ南北方向に架けられ、川の流れは東西に近い流れであったようだ。

橋脚発掘作業
写真102.3 橋杭の発掘調査の写真(出典は復元された国の指定史跡の案内板)。

川の流れが現在のように真っ直ぐでなかった関係なのか、江戸時代の東海道では、 江戸から京へ向かうとき、富士山は右手に見えるのだが、この史跡の少し東で道が 大きく曲がり左手に見え「南湖の左富士」と呼ばれる名所がある。 左富士は、他に静岡県の吉原宿の二か所だけである。 吉原宿の左富士も歩いたことがある。

現在の東海道本線でも、東京から茅ヶ崎付近にくると富士山は右手に見えてくるが、 この史跡近くでは線路が北寄りに曲がり、短時間ながら富士山は左側の車窓から見える。

馬入の一里塚跡
写真102.4 平塚市馬入本町の馬入一里塚跡の記念碑。後方の案内板に江戸時代の 相模川が描かれている。

相模川の西岸、平塚市馬入本町に設置されている馬入一里塚跡の説明板に江戸時代の 相模川が描かれている。現在と違って蛇行しており、水流の幅は狭く、渡し舟で 渡っていた。それよりずっと昔の鎌倉時代に長さ40メートル以上、幅9メートルとは 立派な橋だ。現在の国道一号線の相模川の馬入橋でさえ幅は9メートル、 同じ幅である。

関東大地震では、馬入橋も鉄道の鉄橋も倒壊した。東海道本線の鉄橋の橋脚の台が 相模川に点々と残っている(写真102.5の白矢印)。現在の東海道本線の鉄橋は、 その川下に一つと川上に二つが架けられている。

鉄橋の橋脚台
写真102.5 関東大地震で倒壊した東海道本線の相模川鉄橋の残がい(矢印)。

これらの少し川上には国道一号線の馬入橋がある。その平塚側のたもと南側の 「陸軍架橋記念碑」には次の説明がある。

大正12年(1923年)9月1日、関東大震災により馬入橋が倒壊した。地元の 人々により即日渡舟が運行されたが、数日後の豪雨で流失。9月17日、陸軍の豊橋 工兵大隊と京都工兵大隊が急きょ派遣され架橋工事が開始され、汗血の労を費やし、 10月3日に長さ450メートルが完成した。

写真102.6に、陸軍架橋記念碑の説明板に掲載されている当時の架橋作業の写真を転載 させていただく。関東大震災では死者14万人もでたが、多くの人々による復興工事 の熱意を感じさせる。

工兵隊の工事
写真102.6 相模川の馬入橋の平塚側たもと南側にある「陸軍架橋記念碑」に掲載され ている工兵隊の作業中の写真。

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