7. 富士を観る旅
これは2004年3月に、高知県内のデイサービスセンターなど
福祉施設で上演した内容です。パソコンとプロジェクター
を使ってスクリーンに投影して見ていただきました。歌は
演奏に合わせて皆で歌いました。上演時間は、みんなの歌
を含めて約70分間ですが、部分的に割愛して60分程度に短
縮した場合もあります。演奏は私の娘・津野康子にしても
らいました。
(1) はじめに
富士山は高く、雲がかかって見えないこともありますが、旅の途中で見えると
感激します。富士の表情は見る場所、気象条件や季節によって、また1日の
時刻によって様々です。
私は時々、歩き旅をするのですが、素晴らしい景色を見ては喜び、歌や
昔話を思い出します。
これまでに撮った富士山と、撮影場所で出会った風景、思い出した歌や昔話
を並べて、プロジェクターで大写しにしてご覧に入れましょう。そうして、
皆さんと一緒に「富士を観る旅」=仮想の旅=に出かけましょう。
富士山は遠くから見たことは何度もありますが、
間近に見たのは2001年11月11日のことでした。小田原から箱根
湯元を経て、乙女トンネルを出た瞬間でした。金時山に登山する人たちが
大勢いました。みんな感激して「まあ、素晴らしいね!」と言って眺めて
いました。
次の「写真」(乙女トンネルからの富士)をクリック
すると写真が表示され、左上にあるプラウザの「戻る」を押せば
元にもどります。
(2) 写真(乙女トンネルからの富士)
次の「地図」をクリック
すると地図が表示され、左上にあるプラウザの「戻る」を押せば
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(3) 地図(富士山周辺)
まず、最初に、富士山の撮影場所を説明しておきましょう。
右端に東京湾と房総半島の一部があります。右側の海が相模湾、
左側が駿河湾、その間が伊豆半島です。
伊豆半島先端の石廊崎は地図の
範囲外となっていますが、石廊崎から三浦半島先端・城ヶ島までの
直線距離は90km余りです。土佐湾の足摺岬から室戸岬までの距離120km
余りと比べると、その3/4 の距離に相当します。各地点から富士山まで
の距離は、神奈川県の城ヶ島から86km、茅ケ崎海岸から63km、静岡県の
大室山から62km、日本平から50km あります。
これから始まる、富士山を見る仮想の旅は、三浦半島先端の城ヶ島から
西に進み、平塚からは、北にそびえる大山に登って引き返し、平塚の湘南平
から再び西に進みます。そして富士山の北側の富士五湖地方へ参ります。
次いで、金時山と足柄峠を経て、南下し、伊豆の大室山に登ります。
最後に、箱根の山を西に越えて、富士川、三保の松原、静岡の日本平に
登り、旅を終えることにいたします。
すべてを歩けば10日間、ゆっくり歩けば20日間は掛かりますが、画面上での
旅ですから皆さん大丈夫ですね。
次の「写真」をクリックしてご覧になり、
左上にあるプラウザの「戻る」を押してもどってください。
(4) 写真(城ヶ島からの富士)
いよいよ旅の始まりです。いま城ヶ島の東南部の岩場に来ています。
はるか86kmの彼方に富士山が見えます。この岩場の磯(いそ)で、
有名な北原白秋の「城ヶ島の雨」を思い出しました。
クリックして歌詞をご覧になり、
プラウザの「戻る」を押してもどってください。
私は「利休鼠(りきゅうねずみ)」とは、何なのか知りませんでしたが、
ねずみ色のことだそうです。灰色のことを昔、ねずみ色と呼んでいましたね。
この島の「白秋記念館」で聞いてみましょう。
ねずみ色にも9種類があって、利休ねずみは江戸時代の色染めの名前で、
緑色を帯びた灰色、抹茶の色感からきていると教えていただきました。
この色の意味を知って、歌詞を読み直すと、雨降りではあるが、風情の
ある景色が想像できます。
クリックすれば演奏が始まります。
歌い終わればプラウザの「戻る」を押してもどってください。
演奏に合わせて歌いましょう。
(7) 写真(城ヶ島大橋)
ここは城ヶ島にある神奈川県の県立公園です。公園はきれいに整備されて
います。展望台から北を見ると、全長が575m、海面からの高さ22mの
城ヶ島大橋が架かっています。高知の浦戸大橋を思い出しました。
橋の下を汽船が通ります。
右の方に目を向けましょう。大きな風車が回っています。
風当りがよく、発電に利用しているそうです。
(8) 写真(風車)
(9) 写真(油壷からの富士)
次に油壷へくると、あいにく強い西風が吹いています。
海面のしぶきが飛び、富士山の方向はかすんでいますが、
山頂は見えますね。
(10) 古戦場
油壷は半島です。戦国時代は、ここに城がありました。
三浦一族が北条早雲に滅ぼされ、全滅したと書いてあります。
昨年11月でしたね。紙芝居「御用紙物語」で学んだように、
土佐では波川玄蕃や安芸国虎が長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)
に滅ばされました。戦国時代は、あちこちで、同じような戦がありました。
いま、外海は荒れていますが、油壷湾を見下ろす場所へ行ってみましょう。
(11) 歌碑
入り込んだ油壷湾の内は静かな水面を見せています。
歌碑があるので、読んでみましょう。
「外海は荒れいて 月の油壷」(田辺大遇)
今夜、月が昇ってくれば、水面に月影が映り、ぴったりの俳句ですね。
(12) 写真(三戸からの富士)
三戸(みと)に着きました。
この付近一帯は三浦大根やキャベツを栽培しています。
向こうのほうには霞と雲が掛かっていますが、富士山は雲の上に頭を
出しています。
ふと、富士山の歌が浮かびます。
クリックして歌詞をご覧になり、
プラウザの「戻る」を押してもどってください。
演奏に合わせて歌いましょう。
いま、葉山町です。葉山御用邸の御門の前には警察官が立っていて、
「こんにちは!」と、声をかけてくれました。御用邸は林の中にあって
見えないのですが、御門は見ることができます。お巡りさんに、
「ご門を写真に撮ってもいいですか?」と聞くと、
「警備上問題になるので、撮影はご遠慮させていただいております。」
と断られてしまいました。
(15) 写真(森戸海岸からの富士)
ここは葉山町の森戸海岸です。沖のほうに鳥居と白い灯台が
あります。海岸に公園があります。記念碑のところへ行ってみましょう。
(16) 灯台記念碑
記念碑には、石原裕次郎さんが亡くなったあと、
「裕ちゃん灯台」が平成元年7月17日に設置された、と書いてあります。
地元の人から話を伺いました。「ここからヨットが出て行くとき、
岩場にぶつかり危険なので、沖合に、あの灯台を造りました。
裕次郎さんが亡くなったあと、有志から寄付が集められた」とのことです。
(17) 写真(逗子海岸からの富士)
逗子海岸の朝です。波打ち際の砂浜を犬と散歩する
人がいます。
やがて、ランニング姿でジョギングする女性も現われます。
高校生グループが威勢良くジョギングしてきて、また折り返し去って
いきました。
適度な風が吹きだすと、ウインドサーフィンをする人々が沖合に現われます。
ウインドサーフィンは水面を流れるように走ります。夕暮れになり、彼らは
帰ってきました。夕日と静かな海、小波の打ち寄せる渚、安らぎを覚えます。
(18) 写真(逗子の日没)
(19) 写真(由比ヶ浜)
また朝になりました。こんどは鎌倉の由比ヶ浜にきました。
向こうに見えるのが稲村ヶ崎です。新田義貞が1333年5月22日、
稲村ヶ崎の沖合を突破して、こちら側の鎌倉に突入し、
150年間つづいた鎌倉幕府を滅ぼしました。
眺めていると、浪打際の海に入り、左手にビニール袋を持ち、
右手で何かを捕まえている人がいました。ビニールの中に赤みがかった
ものが入っています。私は一瞬、「エビを捕まえているのかな?」
と思ったのですが、エビが赤くなるのは湯でてからの変色ですよね。
「何を捕まえていますか?」と尋ねると、
「桜貝です。ほら、そこらにもあるでしょう!」と教えてくれました。
(20) 写真(桜貝)
私も桜貝を拾いました。
ここは古都・鎌倉です。鎌倉をご案内するのは、
次の機会にでもさせていただくことにして、鶴岡八幡宮にのみ
お参りしていきましょう。由比ヶ浜から真っ直ぐ若宮大路を進むと、
八幡宮に着きます。
(21) 写真(舞殿と大銀杏)
この建物は、静御前が頼朝の前で舞ったという舞殿です。
階段の左にあるのが大銀杏です。立札に樹齢一千年余り、
高さ30mと書いてあります。
八幡宮は、いつも観光客が多いのですが、いまは、観光客の来る
前の朝でして、掃除する人だけしか見えません。
(22) 舞殿と大銀杏事件
舞殿には、舞の名手で義経の愛人・静御前の悲しい逸話があります。
また大銀杏のそばでも、事件がありました。
吉野山で捕らえられた静御前は、源頼朝に舞を命ぜられ、
「吉野山みねのしら雪踏み分けて いりにし人のあとぞ 悲しき」
と義経を慕う歌を読んで舞ったのですが、これが頼朝の怒りをかうこととなり、
義経の子と、自らの命を失うことになりました。
大銀杏のそばでは1219年、今から約800年前のこと、
源頼朝の孫・公暁( 2代将軍・頼家の子)がこの大銀杏に隠れていて、
叔父にあたる3代将軍・源実朝(頼朝の子)を暗殺しました。
さて、みなさんは鎌倉の歌をご存知ですね。
大銀杏のことも、舞のことも歌詞にあります。
クリックして歌詞をご覧になり、
プラウザの「戻る」を押してもどってください。
演奏に合わせて歌いましょう。
鎌倉八幡宮は広くて、多くの建物や庭園・池があります。
庭では「ぼたん祭り」が行なわれています。ちょっとだけ見ていきましょう。
(25) 写真(ぼたん祭り)
(26) 写真(稲村ヶ崎からの富士)
稲村ヶ崎の西側です。左前方に見えるのは江の島です。
この二人の像は、ボート遭難慰霊碑です。1910(明治43)年1月23日に、
この沖合で小学生1人を含む逗子開成中学校の生徒12人が遭難しました。
この事故で人々を感動させたのは、兄は弟をその小脇にしっかりと
抱えたままの姿で収容されたからです。兄が、手を挙げて父母を
呼んでいるのでしょうか。
この事故を悲しむ歌が作られ、記念碑にも書かれています。
「ま白き富士の峰 緑の江の島・・・・・」
クリックして歌詞をご覧になり、
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(28) 母親の悲しみ
歌詞は6番まであり、母親の深い悲しみがよまれています。
演奏に合わせて歌いましょう。
稲村ヶ崎を過ぎ、江の島との中間にある、小動(こゆるぎ)
神社の展望台から見下ろすと、ウインドサーフィンを楽しむ人たちが
見えます。
次の「写真」をクリックしてご覧になり、
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(30) 写真(ウインドサーフィン)
(31) 写真(片瀬東浜)
手前が片瀬東浜です。向こうが江の島です。
(32) 写真(江の島からの富士)
江の島展望台から富士山を眺めています。富士山の手前に
低く見えるのが、私の住む平塚にある湘南平です。はるか左手に
箱根の山々が見えます。
(33) 写真(茅ケ崎海岸からの富士)
茅ケ崎海岸です。ここの遊歩道は、車道から離れて独立して造られ、
長さは約10kmあります。所々に板張りの歩道もあります。
ほら、海鳥の群が飛んでいます。
(34) 写真(烏帽子岩と伊豆大島)
沖合には、烏帽子岩(えぼしいわ)と、その遠方60kmに伊豆大島が
見えます。
(35) 写真(金目川からの大山)
西に進むのを止めて、平塚の金目(かなめ)川に沿って北上して
います。標高1246mの大山が見えます。相模平野にそびえ、昔から信仰の
山として崇められてきました。
(36) 写真(新幹線脇からの富士)
金目川に沿って、新幹線の線路脇にくると、富士山がよく見えます。
(37) 写真(大山・富士見台からの富士)
いよいよ大山への登山です。ふもとには小田急線が通っていて、
交通が便利なので、東京・横浜方面から大勢の人々が登山にきています。
ここは登山道の途中にある、富士見台というところです。
(38) 写真(湘南平からの富士)
平塚に帰ってきまして、朝早く平塚の湘南平の登りました。
富士山は朝日を受けて赤く染まっています。気象条件によって
赤みが強くなるとき、「赤富士」と呼ばれます。
(39) 写真(湘南平)
湘南平は標高100m余りですが、見通しがよい日には横浜
方面まで見えます。この山の尾根は、ハイキングコースでして、
多くの人々がハイキングを楽しみます。尾根の端の向こうは平塚の市街です。
この尾根の右側が大磯町です。そちらへ降りて行きましょう。
(40) 写真(吉田茂の銅像)
海岸の遊歩道を歩いてきました。吉田茂さんの銅像です。
大磯の人たちは吉田さんをとても大事にしていました。亡くなったあと、
皆さんがお金を出して、この銅像を作ったと書いてあります。
高知竜馬空港の入り口にも吉田茂さんの銅像がありますね。
先日、空港に着いたとき銅像の近くへ行って、よく見ましたら、
高知の銅像は1984(昭和59)年7月建立と記されており、大磯にある
銅像より後で作られたことがわかりました。大きさは大よそ同じでした。
大磯の吉田さんの銅像から北に歩いて、国道1号線の反対側の山に登って
みましょう。
(41) 写真(大磯・城山公園からの富士)
展望台から富士山がきれいに見えます。ここには旧三井家の別荘が
ありましたが、現在は神奈川県立城山(じょうやま)公園となっています。
(42) 写真(城山公園から見た西方の景色)
もっと広い範囲を見ますと、右から富士山、金時山、明神が岳、
神山、・・・左に伊豆の山々が続きます。のちほど金時山へ登りましょう。
(43) 写真(国宝茶室の跡)
この公園をもう少し歩いてみましょう。さすが三井財閥の
旧別荘だけあって、広いですね。
ここに説明板があります。
(44) 国宝茶室の説明板
「国宝茶室・如庵跡(じょあんあと)」
として、次のように書かれています。
茶道の祖・利休の門下・織田有楽斉の創案によって1618(元和4)年に
京都に建造。のち、1909(明治42)年に東京の三井邸内に移され、1936
(昭和11)年国宝に指定。戦火を逃れるために1938(昭和13)年に
三井別邸城山荘(現在の大磯城山公園)に移築。
1970年に犬山市有楽苑に移築され、現在に至る。
大磯は明治から昭和にかけて、財閥や作家など著名人が住んで
いました。島崎藤村が71歳で亡くなる前に2年5ヶ月間過ごした邸宅もあり、
一般に公開されています。
大磯は海岸ですので、私は「椰子の実」の歌を思い浮かべました。
「名も知らぬ 遠き島より・・・・・・・」
クリックして歌詞をご覧になり、
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この歌詞は大磯の海岸で見たことではなくて、柳田國男から聞いた
愛知県伊良湖岬での体験から作詞したそうです。
椰子の実を拾い上げて、藤村自身の人生流転に思いを重ねて
詠んだのでしょう。
演奏に合わせて歌いましょう。
大磯から西に、小田原の方向へ進みました。
酒匂川を少し上ると、楢山(かやま)に着きます。ここに、
二宮金次郎(1787~1856)の生家があります。
(47) 写真(二宮金次郎生家)
金次郎11歳のとき父が病に倒れ、
13歳で父を失い、15歳で母を失っています。
金次郎はよく働き、よく勉強しましたので、戦前の青少年の手本と
なり、金次郎の歌は戦前の文部省唱歌にもなりました。
「しばかり なわない ・・・・」
クリックして歌詞をご覧になり、
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演奏に合わせて歌いましょう。
酒匂川を上って行くと、堤防には松並木があります。金次郎が植えたという
松もあると聞きました。
(50) 写真(酒匂川松並木からの富士)
さらに、上流へ歩いて行くと、酒匂川が北から西に曲がるところに
松田町があります。公園に登ってみましょう。
(51) 写真(西平畑からの富士)
ここは西平畑公園です。早咲きの桜が咲いています。
この桜は伊豆の河津(かわず)から苗を貰って、桜の名所にするようです。
こんどは富士山の北側の山梨県富士五湖地方へきました。
ここは忍野村です。忍野の富士は日本一だと、言われています。
(52) 写真(忍野からの富士)
さすが大勢の観光客がいます。観光用に古い民家や水車小屋が再現され、
とても素適な眺めです。カメラマンもたくさん集まり、三脚にカメラを
載せて放ってあります。富士山の表情が変わるのを何時間も待っている
ようです。
富士五湖地方は観光地でして、素晴らしい眺めがたくさんあります。
(53) 写真(諏訪の森自然公園からの富士)
(54) 写真(本栖湖からの富士)
(55) 写真(精進湖からの富士)
山中湖で日没になりましたが、日没後の富士山もきれいですね。
(56) 写真(山中湖からの富士)
(57) 写真(道の駅からの富士)
富士吉田市の道の駅からの眺めです。
この広場に新しい駐車場を造成中です。左に、富士山レーダーの資料館が
2004年4月からオープンするそうです。
(58) 写真(富士山レーダードーム復元)
これが富士山頂に設置されていたレーダーです。富士吉田市が
譲り受けて、一般の学習見学の施設としてここに復元されました。
以前にNHKテレビで「プロジェクトX」で放映された富士山レーダー建設の
ことをご覧になりましたか。1965年から1999年まで富士山の剣が峰に
30年余り設置されていたレーダードームです。
こんどは足柄地方へきました。金時山の頂上です。
標高1213mでして箱根の外輪山の最高峰です。外輪山というのは中心に
箱根の神山があって、それを取巻いた山々のことです。
(59) 写真(金時山からの富士)
天下の秀峰金時山と書かれた案内板の脇に、大きなマサカリが
立てかけられています。マサカリをかつぎ、富士山を背景に記念写真を
撮る登山客も多いのです。
下界に広がるのは御殿場市です。右手のほうに小山町があります。
小山町から毎日この金時山に登ってきて、「天下の秀峰」の看板の
右手にあります山小屋でお茶の接待をしている金時娘がいます。
金時娘と呼ばれ、親しまれているのは、小宮山妙子さんのことで、
生まれは私と同じ1933(昭和8)年だそうです。妙子さんのお父さんは
正さんでした。正さんは新田次郎の小説「強力伝」のモデルになった
といわれ、無理な仕事が災いして42歳で亡くなりました。
妙子さんはお父さんを失った悲しみから立ち直ったとき、この金時山の
山小屋で、登山してくる人々にお茶のサービスをしようと決心されて、
ずっと続けてこられたそうです。
金時山といえば、金太郎の歌ですね。
「まさかりかついで 金太郎・・・・」
クリックして歌詞をご覧になり、
プラウザの「戻る」を押してもどってください。
足柄山という単独の山はありませんが、この付近一帯のことを足柄山と
呼んでいたそうです。
金太郎の生まれたのは、いまから1,000年余の前のことです。
金太郎伝説によると、平安時代中期に源頼光(よりみつ、965前後~1021年)
に見出されました。紀貫之が土佐から京都への帰途に発ったのが、
千年余り前(934年12月)のことですから、金太郎伝説は概略その時代の
話です。参考までに、四国八十八ヶ所ゆかりの弘法大師・空海(774~835)
は、その約200年前の平安時代初期に活躍しています。
演奏に合わせて歌いましょう。
南のほうから金時山へ登ってきましたので、こんどは北の方向へ尾根伝いに
歩いていきましょう。足柄峠(標高736m)につきました。
(62) 写真(足柄峠からの富士)
(63) 古事記の一節
説明板に、古事記の一節として次のような内容が記されています。
小碓命(おうすのみこと)は九州の熊襲建(くまそたける)を征服したのち、
倭建命(やまとたけるのみこと)と名を改めた。九州から大和(やまと)
へ帰った命(みこと)は、天皇から東国征伐の命令
を受けて上総(かずさ、千葉県)へと出発した。
相模半島(三浦半島)からは海路で目的地へ向ったが、海の神の怒りに
ふれたのか、おだやかな海は一瞬にして荒海に変わった。
この時、連れの弟橘媛(おとたちばなひめ)は海に身を投じ、神をなだめ
海を静めた。
上総に無事に着いた命(みこと)は任務を果たし、その帰路、足柄峠に立ち、
再び見ることはないであろう東の海をながめ、橘媛を思い
「吾妻はや」(ああ、わが妻よ)と嘆き悲しんだ。
子供のころ、この話は聞いたことがあり、思い出しました。
やまとたけるの命(みこと)が足柄峠から東方の海を眺めた模擬写真
をお目にかけましょう。
(64) 模擬写真(足柄峠から東方の眺め)
現在の東海道ができる以前、奈良・平安時代は足柄峠越えの道は
「足柄の坂」と呼ばれており、この坂は日本を東西に分断する関門でした。
都人にとっては「坂」の東は異国であり、「坂東」(ばんどう)とも
呼んでいました。江戸時代に東海道が整備されてから、足柄の坂は
古東海道と呼ばれるようになりました。
はるか上空40kmから眺めた模擬写真によって、古東海道と旧東海道、
および現代の人々の多くが旅するJR東海道線・新幹線の位置関係
を見ておきましょう。
(65) 模擬写真(経路変遷の地図)
こんどは、はるばると南の伊豆高原にやってきました。
(66) 写真(伊豆高原・大室山からの富士)
大室山の噴火口の周りに立っています。標高は581mです。山肌は、
遠くからは褐色に見えたので、溶岩の色かと勘違いしていましたが、
来てみると枯れ草だったのには驚きました。
この火山は約5千年前に
噴火した新しい火山で、草しか生えていません。秋から春は枯れ草に覆われ、
毎年2月の第2日曜日に山焼きが行なわれるそうです。そのあと、
夏にむけて鮮やかな緑一色に変わります。
(67) 写真(芦ノ湖からの富士)
ここは箱根外輪山の内側にある芦ノ湖です。
江戸時代には東海道の関所がありました。箱根八里のちょうど中間点でして、
当時の杉並木も残っています。箱根峠を越えて西側へ降りてみましょう。
(68) 写真(箱根・山中城跡からの富士)
下り道の途中、山中城跡があります。山中城址はたいへん広く、
その真ん中を国道1号線が通っています。富士山の頭は鉢巻状の雲を
被っています。
(69) 山中城の説明
山中城については、次のように伝えられています。
中世の山城の一つ山中城は、戦国時代末期の1560年代に、
小田原に本城をおいた北条氏が築城した。
のち、豊臣秀吉の小田原攻めに備え、堀などの整備・増築を行なったが、
1590年3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を
受けた。北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく半日で落城した。
この城跡には、現在、400年前の遺構がそのまま復元されています。
1934年(昭和9年)国の史跡として指定されたと説明されています。
箱根といえば、「箱根八里」の歌ですね。
歌詞はけっこう難しい言葉を使っています。
「箱根の山は天下の険・・・・」
クリックして歌詞をご覧になり、
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演奏に合わせて歌いましょう。
(72) 写真(箱根・富士見平からの富士)
山中城跡から、下ってきました。私たちはいま東海道の
箱根旧街道にいます。ここは箱根八里の中で富士山の眺めが最高と
いわれている「富士見平」です。
旧箱根街道の西の宿場・三島を過ぎて、西へ西へと進んできました。
静岡県の富士川を渡り、道の駅・富士川楽座です。夕暮れの富士山が
見えます。
(73) 写真(富士川楽座からの富士)
富士山の右斜面の雲のところに宝永山が見えます。いまから約300年前
の1707(宝永4)年11月20日、噴火し関東一円に灰が降りました。
江戸では昼間でも行灯(あんどん)をつけたと伝えられています。
この大噴火で武蔵、相模、駿河の国(概略、神奈川県~静岡県)では
大きな被害がありました。
山頂付近の形は、これまで見たものとは変わってきましたね。
左のほうに高い部分が見えます。
明日はヘリコプターをチャーターして、富士山をぐるっと周遊して
みましょう。
(74) 模擬写真(ヘリコプターによる富士周遊)
ヘリコプターによる富士周遊で見た富士山頂の形は、
40~50km遠方の平地から眺めたものにほぼ一致するように飛行高度と
周遊半径を決めたものです。
(75) 写真(富士川からの富士)
つぎの朝になりました。楽座から少し下流にきました。
鉄橋をJRの静岡行きが渡っています。
平家物語の「富士川の戦」を思い出しました。
(76) 富士川の戦
平家物語によると、
平氏の軍5万が源頼朝を討つために、京から鎌倉へ向かいました。
一方、頼朝は20万騎を従え西進し、治承4年(1180)10月18日、
富士川(静岡)を挟んで対陣することとなりました。
10月19日の夜、甲斐の武田信義がひそかに対岸の陣の平氏の軍へ
奇襲をかけようと富士川を渡ろうとした時、水鳥がいっせいに飛び立ち、
その羽音に驚いた平氏の軍は一戦も交えないで京都へ退散してしまった。
(77) 写真(三保の松原からの富士)
こんどは三保の松原へ来ました。左のほうに羽衣の松があります。
近づいてみましょう。
(78) 写真(羽衣の松)
羽衣の松は、長い間大勢の人々に見られたのか、
少し弱ったので養生をしている、と書いてあります。
(79) 羽衣伝説
羽衣伝説は次のような内容です。
昔、三保の松原の松の枝に、美しい衣が掛かっていました。
漁夫がそれを見つけ、取って帰ろうとすると、天女が現われました。
天女は、それは私のものだから返してほしい、それがなければ天に帰れない
と嘆き悲しみました。漁夫は天女に、羽衣を返すので舞を舞ってほしいと
頼みました。天女は喜んで舞を舞いながら、やがて霧の彼方に消えて
しまいました。
昔、歌った「羽衣」の歌を思い出します。
「白い浜辺の松原に・・・・」
クリックして歌詞をご覧になり、
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演奏に合わせて歌いましょう。
いよいよ旅の終りが近づきました。静岡市の日本平です。
(82) 写真(日本平からの富士)
これまで東のほうから見た富士山は、
白い雪の部分がほぼ一面に見えたのですが、ここからは、雪が筋になって
見えますね。筋になるのは、「大沢崩れ」などと呼ばれている崩壊でできた
深い谷筋によるものでしょう。それと、光線の関係でしょうか。
望遠鏡で覗いてみましょう。
(83) 写真(望遠鏡で見る富士)
山頂部に注意しましょう。一番高く見えるのは剣が峰です。
あそこで1895(明治28)年、野中到・千代子夫妻が寒さと病気と戦いながら
冬の気象観測をしました。野中到は、「天気予報が当らないのは、
高層気象観測所がないからだ。天気は高い空から変ってくる。それゆえ、
富士山頂に気象観測所を作って観測すれば、天気予報は必ず当るようになる」
と考え、国に先立って、観測したのです。野中夫妻の話は、新田次郎の
小説「芙蓉の人」に書かれており、私たちを感動させます。
彼らの観測のしばらく後、富士山頂で正式な気象観測がはじまりました。
また、1965年から1999年まで剣が峰に30年余りレーダーが設置されて
いました。
「芙蓉の人」抜粋文が、このホームページの
「身近な気象」の中の「4. 富士山頂の冬の気圧」の 4.1 節に掲載して
あります。
「芙蓉の人」抜粋文へは、次をクリックして行くこともできます。
(84) むすび
富士山には、自然と人々のドラマがあります。富士山は見る場所や
季節によって、また、その日の時刻によって変化します。私はいつまで
見ていても飽きることがありません。
終り