35.できることは行動・協力する社会
これは高知県立追手前高校昭和27年卒業同窓会誌「長流水」
に投稿した原稿である。(完成:2011年10月9日)
著者: 近藤 純正
七十歳からはじめたこと
私は疑問を持っていた。それは、多くの気象観測所の周辺が都市化されて、ビルや
舗装道路が増え、その影響による気温上昇が加わり地球温暖化が過大に評価されている
のではないかという疑問である。
それを確かめるために、七十歳から全国の気象観測所
を巡回しはじめた。各地には名所旧跡もあり観光を兼ねた旅行である。日本最北端の
宗谷岬ではサハリンを、最東端の根室の東の納沙布岬から歯舞諸島を遠望、最西端の
与那国島では視程不良で見えなかったが台湾の山並みを想像した。日本最南端の波照間
へは二回も訪れた。
こうしているうちに、観測所の環境悪化に気づき、このまま放置できなくなり、
各地の気象台や大学等の研究機関で環境悪化を説明した。しかし、気象庁も国の役所、
容易に動こうとはしない。そこで私は、このことを国民世論に訴え始めた。高知大学や
東京渋谷での講演会では、高校同窓生の方々にも話を聞いていただいた。
気象観測所は地域の防災と、地球温暖化など長期的な気候変化を監視する二つの目的で
設置され、気象庁が担当しているが、管理が疎かになっている。
気象観測の黄門さま
岡山県内陸の津山は出雲街道にある城下町として栄えてきた文化の町、城山と谷で
へだてられた丹後山には旧測候所がある。その風速が年々弱まり、年間の強風日数は
一九六〇年代には五十日ほどあったが、最近は二日に減少。観測所敷地内の風速が
変われば気温も変わる。私は、その原因として、観測所の周辺の樹木が防風林になって
いると想像した。
無人の津山観測所を担当する岡山地方気象台に対し、観測資料を添えて照会すると、
樹木は観測に影響していないという。しかし、私が現地へ行き一見すると、風速減少の
原因は想像していた通りであった。
およそ四十年前に住民によって植樹されたという二百本の桜のうち、二十本が観測の
邪魔になっている。気象台職員は観測所の周辺に樹木が成長すれば、枝切りや伐採して
環境維持に努めるべきだが、放置していたのである。
この状態を津山市民に知ってもらうために市民講座を二回開催、また植樹した町内の
役員たちに説明を繰り返した。桜を伐採させてもらう代りに、測候所の庁舎・宿舎の
跡地約五百坪が五百万円で売りに出されていたので買い取り、住民の憩いの場として
利用していただくことを提案した。
私が六回も津山へ行き住民を説得していることが報道され、津山市長・桑山博之さんも
知ることとなり、市長が面会してくださる。
桜は住民たちが植樹したもので、市長の立場から桜を切れとは言えない。しかし、
市長は政治力を発揮する。津山市は、古くからの美作国から近世まで、美作地域の
政治・文化の中心地として栄え、文化・歴史的な有形無形の遺産が市内に数多く
残っており、国の 「歴史的風致維持向上計画都市」 として認定されたこともあり、
観測所周辺の環境整備も行う方針として市議会にも諮った。正しい観測は防災上からも
重要であることが住民にも理解された。
こうして、住民たちから桜の伐採の許しが出て、私は五百万円をふるさと納税として
津山市へ納め、庁舎・宿舎の跡地五百坪を津山市のミニ公園として管理していただく
ことになる。二〇一〇年二月十五~十六日に桜など二十一本が伐採され、津山観測所は
見違えるように、内陸では日本一の観測環境となった。私は、環境整備後のお礼に
行ったことも含め、津山を合計九回も訪問した。
青森県の日本海沿岸にある深浦観測所は津軽藩の奉行所の跡地、深浦町の史跡公園内
にある。周辺の生い茂った松の枝を剪定し、密生した桜などを伐採すれば日本海沿岸一
の観測所となる。公園らしく整備すれば観光にも生かせる。深浦は古くから北前船の
風待ち港として栄えた。ここはJR五能線が通り、美しい海岸風景や世界自然遺産の
白神山地、十二湖がある。
このことを伝えるために市民講座を予定したが、その直前に、町役場から「市民講座は
中止する」との連絡があった。市民講座中止の本当の理由は、「気象台の悪口を言う
講演会に町の施設は貸せない」とのこと。しかし、私は深浦町を訪れ、町議員や有力者
に観測の重要性を説明してまわった。
日本各地には、積極的に協力してくれる方々がいる。深浦町では、初対面でありながら
元学校の先生・工藤安昭さんが三日間も車を運転して議員さん宅などへ案内してくれた。
深浦町は海岸沿いの南北に細長い町である。
気象が正しく観測されないと、事故・事件が起きたとき問題となる。一九五〇年
(昭和二十五年)十二月十八日の正午過ぎ、深浦沖で一六八一トンの古城丸が沈没し
乗組員四十名が死亡。函館海難審判庁では、深浦観測所の風速資料が取り上げられ、
暴風中に運行した船長の業務上過失によるものと審判が下っている。この時代には、
深浦観測所の風速は正しく観測されていた。
私の活動は、全国紙の朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、産経新聞などで報道された。
産経新聞(二〇一〇年八月十九日版)の第一面の論説では、私を「気象観測の黄門さま」
として取り上げた。
ショッキングな誤った観測の事象
そうしたとき、気象庁に大ショックを与える事象が発生した。記録的な猛暑だった
二〇一〇年の夏、京都府京田辺市のアメダス観測所で気温三九・九度という九月の
国内観測史上最高値が記録された。
京都新聞の記者が現地アメダスを見に行くと、
気温を観測する通風筒につる性の草が絡んでおり、気象庁の管理不十分が報道された
(二〇一〇年九月六日)。後日この高温記録は間違いとして「観測資料なし」となる。
京都新聞記者から電話で、「気象台では、今回のような管理不十分ははじめてだと
説明されたが、本当ですか?」と問い合わせがあった。私は「他にも管理不十分な
観測所は多数あります」と答えた。
TBSテレビ「みのもんた朝ズバ」の九月八日の全国放映に私は出演し、例として
埼玉県鳩山アメダスの雨量計につる性の草が被さった写真を見せて、これでは雨量が
多めに観測されるのか、少なめに観測されるか分からないと説明した。こうして、
全国の人々が気象庁の観測所管理の不十分さを知る。
気象庁長官ほか幹部とも面会し、この事象を契機に私は各地の大学教授など三〇名から
なるボランティア組織「気候観測を応援する会」を発足、気象庁の観測体制を積極的に
応援することにした。この組織は、旅行の時などついでに観測所を見学し、雑草など
茂っていないか注意し、管理不十分な場合は担当する地方気象台に助言することを
目的としている。
行き詰っていた青森県深浦の史跡公園では、乱雑に伸びた一五本の松の枝打ち、
密生の桜など三十三本の伐採、笹やぶが広く刈り取られ、問題が解決する。
各地の住民に本会に入会してもらい、二〇一一年十月現在、会員は七九名、今後も増える
見込みである。岩手県宮古では、三月十一日の大津波で被災された方も入会してくれる。
地震も津波も気象も、観測が基本中の基本である。
日本一の室戸岬気象観測所と寺田寅彦先祖の墓
高知県の室戸岬観測所は自然林に囲まれ、日本一の環境に恵まれた観測所である。
旧測候所は一九二〇年(大正九年)に創設、二〇〇八年十月一日に無人化、
二〇一一年三月に旧庁舎を解体し無人用の新局舎が建設された。これを機会に、
二〇一一年三月九日に見学会を開催、有志の方々に「気候観測を応援する会」に
入会していただく。
この見学会に際し、四国霊場第二十四番の最御崎寺の長老・島田信雄さんにご尽力
たまわった。島田さんは室戸市観光協会会長、ボランティアガイド会長、高知県観光
コンベンション協会副会長など要職にある。
室戸岬観測所の南側一帯の森林は寺の敷地、すぐ近くの墓地には、寺田寅彦先祖の墓
がある。寺田寅彦(一八七八~一九三六)は私たち旧制城東中学校の先輩、大正時代
から昭和初期にかけて活躍した自然科学者、特に科学と文学を調和させた随筆を多く
残している。
寅彦が高知の尋常中学校(現在の高知県立追手前高校の前身)の生徒のとき、父から
「先祖が最御崎寺の住職をしていたので、お墓参りに行くように」と言われ、
一八九三年冬に高知から約九〇キロメートルの距離を歩いて墓参りしたと聞く。
寺田寅彦先祖の墓と、その北側にある環境日本一の室戸岬観測所への道案内を書いて
おこう。
海岸沿いの国道五五号線の分岐点・室戸スカイライン(県道二〇三号線)
入り口から急坂を登りつめて傾斜がやや緩やかになったところに駐車場があり、
最御崎寺と灯台への分岐点。この分岐点からそのままスカイラインを北へ約二百
メートル進むと、左側に「寺田寅彦先祖の墓」の案内板がある。墓地の上の段、
西寄りのところに「寺田寅彦先祖之墓」と書かれた石碑がある。
写真 室戸岬気象観測所、まるいドームの中に気象レーダーが入っている
(二〇一一年三月九日撮影)。
案内板「寺田寅彦先祖
の墓」から観測所入り口の門扉までのスカイライン(県道二〇三号線)の距離は
約百五十メートルである。
最御崎寺長老・島田信雄さんによれば、スカイラインの開通以前には室戸岬の海岸から
歩いて測候所までの急坂を登っていた。墓地の西側の小道を登りつめた所に測候所の
門柱があった。測候所職員宿舎も測候所の敷地内にあり、家族もそこで暮らしていた。
二〇一一年九月一八日、室戸はユネスコが支援する世界ジオパークに認定された。
しかし一般の観光客にとっては、室戸の地形は、例えば、足摺岬・竜串から宇和海岸
までの多様な地形と比較して単純である。それゆえ、岬の山の上に連続して存在する
「環境日本一の室戸岬観測所・寺田寅彦先祖の墓・最御崎寺・室戸岬灯台」を観光
コースに加えれば観光価値がいっそう高まるであろう。
婦女暴行未遂事件と気象資料
私がなぜ観測所の環境を問題にするか。
地球温暖化は、いまや世界の政治・社会の
大きな問題となった。現状把握と将来予測のためには正しい観測が必要であり、
不正確な観測値の入力によって計算された将来予測に基づく対策であれば、我々は
大きな迷惑を被る。
次に、地球温暖化のような地球規模の問題とは別に、ごく狭い地域で問題となった例を
あげておく。二〇〇一年九月九日に静岡県の御殿場市内で婦女暴行未遂事件があり、
最高裁判所まで上告された。当時の複数の男子高校生が女子高校生に被害を与えたと
いうもので、少年たちは数年間服役した(少年であったので少年鑑別所で義務を果たす)。
しかし一人の少年は「自分は犯行仲間に入っていなかった」と最後まで罪を否認。
この最高裁判所の裁判で、当日の降雨の有無が争点となる。問題は少し複雑で説明
しきれないが、犯行時とされる夜の九時ころ雨が降っていなければ少年は有罪、
降っていて地面が十分に濡れていれば無罪となる内容である。裁判では旧御殿場測候所
の降雨記録「〇~四ミリメートル」の資料から、雨量「〇」の可能性が大として、
その元少年も犯人とされた。
しかし、日本気象協会の当時の長野支店長・平松信昭さんが調べると、御殿場市内では
雨量を観測している所は、測候所のほかに農業研修センター、御殿場駅、など九カ所
あり、さらにレーダー観測や衛星観測から犯行時間帯には間違いなく雨が降っていた。
当日の早朝から犯行時刻とされる二十一時までに四十二・五ミリメートルの降雨で
地面は十分に濡れていたはず。私も依頼により、現地の多数の観測所と犯行現場を
見て回り最高裁判所に鑑定書を提出した。
しかしながら、最高裁判所の判決は覆ることはなかった。ここで意外なことを知る。
裁判では後から出てきた証拠は、裁判長の判断で採用しなくてもよいという決まりが
あり、新証拠は無視された。否認し続ける元少年の言う事が真実ならば、極めて気の
毒に思う。いまこの事件は、再審請求されていると聞く。
備考
月日を少しさかのぼる。岡山県の津山観測所と青森県の深浦観測所の環境問題が未解決
のとき、気象などを担当する読売新聞社会部記者・堀江優美子さんが私に同行して
両観測所を取材・記事にする。その後、彼女は留学のために退社、その挨拶状を
気象庁長官・桜井邦雄さんに送る際に(二〇一〇年三月三日)、私の活動を伝えた
ことが契機となり、長官ほか気象庁幹部が私の話を三月二五日に聞いてくださること
になっていた。
ところがその直前のこと、三月二十日に私の腹痛が始まった。それは以前から分かって
いたこと、肝臓に水が二リットルも溜まる巨大肝のう胞ができて外科手術すべき状態に
あった。四月七日に全身麻酔の外科手術、十三日に退院。退院後は体力回復のために
歩く訓練を行う。
十年前に神奈川県平塚の自宅から三浦半島先端の城ケ島まで五十キロメートルを
十三時間かけて歩いたことがある。この長距離を再び歩けるかどうか、退院十四日後
の四月二十九日、朝三時半に自宅を出発し城ケ島を目指した。
気象観測所の環境改善には、腰の重い国(気象庁)を動かさなければならぬ。
それには強い精神力と体力が必要。五十キロメートルを歩けるかどうか、自分を占う。
歩き通すことができなければ、行き詰っていた活動は中止、歩き通せるならば活動は
続けられると信じ、ひたすら歩き、十年前と同じ十三時間で目的地に到達できた。
この日の成功は、天候が幸いしたのか、当日は南西の強風、にわか雨も降り、退院後の
体力消耗が少なかったと思う。ただし、最後に渡らねばならぬ長さ五百七十五メートルの
城ケ島大橋は海面からの高さが二十三メートルもあり、強風に吹き飛ばされそうになり、
やっと城ケ島へたどり着いた(二〇一〇年四月二十九日)。
手術のために延期になっていた、気象庁長官ほか気象庁幹部との会合が行われた
(五月十三日)。続いて私は仙台に行き仙台管区気象台長・藤村弘志さんにお願いし
(六月九日)、中止となっていた深浦での市民講座が開催されることになる
九月十八日)。それには仙台管区気所台長からの連絡により青森地方気象台長・大島
広美さんが深浦町長・吉田満さんに挨拶に行かれたことによる。