32.気象学会東北支部発足当時から現在まで
の私の活動
これは日本気象学会 東北支部創立50周年 記念文集
(2007年6月発行)に掲載された内容と同じものです。
著者: 近藤 純正
1. 支部発足のころ
今年は気象学会東北支部の50周年記念にあたるという。逆算すれば、
1957年に発足したことになる。1958年はIGY(国際地球観測年)であり、
1957年夏からその予備観測が始められ、気象庁の数ヵ所と東北大学で
放射の観測が行なわれた。
わが師・山本義一が大気放射学の権威だったこともあり、気象学講座の助教授
から学生まで全員が夜間の当直をしながらその義務を果たした。
全員といえども、当時は6~7名ほどであった。筆者は1957年3月に東北大学
を卒業し、4月からは大学院1年生であった。50年も前のことゆえ、忘
れた部分も多いが、思い出を綴ってみよう。
山本義一(1909-1980)は1949年から大気放射に関する論文を発表し、
1952年には"On a radiation chart" の論文で世界的に知られるように
なっていた。大気の各レベルにおける大気放射量の上向き・下向き成分は、
ラジオゾンデ資料があれば、この放射図を用いて計算できる。
最近は多くの数値計算法はあるのだが、この山本の放射図は現在でも大
きな利用価値がある。なぜなら、断熱図のように図式であるので、放射量
の計算値に含まれる各レベルの寄与が直感的にわかりやすく、理解に
役立つからである。
当時の放射計はすべて外国からの輸入品であった。オングストローム
補償日射計、エップレー社製の全天日射計、リンケ・ホイスナー放射計、
ベックマン・ホイットレー社製の通風式放射計で観測した。その後、
そうした外国製を真似て日本製の全天日射計や通風式放射計が販売される
ようになった。
輸入品の日射計は受感部の白・黒部分のうち、白色が
変色することはなかったのだが、日本製のものは数年のうちに黄色み
がかってきた。
放射量は白・黒の温度差を熱伝対で測るのが測定原理なので、検定定数
が短期間に経年変化することになる。
気象学会東北支部の研究発表会は、仙台管区気象台の古い木造の建物で
行われていた。当時の建物は現在地の近く、鉄砲町にあり、風力塔の風速計
高度は15~16mだった(現在は52m)。
1960年代、吉武素二(1911-1999、のち気象庁長官)が仙台管区気象台長
のころ、鳴子温泉で一泊しながら研究発表会を行ったこともある。
私が湖面蒸発の研究をしていたことから、蒸発観測の話になり、東京大手町
の観測露場の大型蒸発計による観測について、「汚染物質が水面に浮いた
状態であり、何を測っているのかわからない・・・・」など、
酒を酌み交わしながら議論したことを思い出す。当時は、みんな余裕があり、
のんびりしていた。
高度経済成長期・大気汚染のひどかった1960年代に比べれば、現在の東京
など大都市の空もきれいになった。東京で空がかすんでいたのは、
大気汚染によるのか薄雲によるのか判断が困難となり、快晴日の地方時9時、
12時、15時に行われていた直達日射量の観測が中止されたのは1960年代
である。
2. 支部気象講演会
毎年、東北6県を順番にまわる一般向けの支部気象講演会はいつから開始
されたのか覚えていないが、筆者は1980年代に秋田や山形などで講演した
覚えがある。秋田では雪と水資源について、山形では冷夏凶作の講演をした。
学会講演会とは別に管区気象台主催の防災気象講演会も開催されていた。
筆者にしては、両者ははっきり区別していなかったように思う。
仙台では1984年4月27日の東北地方大規模山林火災や、1980年代前半に起
きた大冷夏に関して講演したように思う。
大規模山林火災は、東北地方の30ヶ所ほどで、正午前後に、ほとんど一斉に
発生したまれな現象であった。強風が吹き出してから気象台では注意報を
出したようだが、山作業中の人びとに伝わることはなかったのではないか。
当日の午前中は、乾燥晴天が続き、放射冷却で強い接地逆転層ができていた。
放射冷却とヤマセによる冷気が重なって逆転層が一層強いものになっていた。
これが前夜から吹き始めていた上空の強風が地上に降りてくるのをブロック
していた。当時の筆者は、放射冷却の集中的研究をしており、この林野火
災を引き起こした突風状強風の理解に役立った。
テレビや講演会を通じて
一般市民への科学知識の普及につとめた。林野火災の講演会は10回以上も
行った。現在では、春の乾燥強風による火災危険日は前夜の予報で知らせる
ことができる。ただし、学問・技術レベルの高い気象予報士が担当して
いるかどうかがカギとなる。
先日、2007年3月27日に秋田地方気象台の周辺環境を観察する目的で立ち
寄った際に、気象情報官の本間實さんに案内してもらった。
筆者は忘れていたのだが、平成5年(1993年)に宮城県岩沼市で開催された
仙台管区気象台・宮城県・岩沼市共催の「防災気象講演会」の世話役が
本間さんだったとのことで、当時の記憶がよみがえった。
その2年前の1991年6月15日にフィリッピンでピナトゥボ火山が噴火しており、
1993年夏は東北地方で大冷夏の心配があり、6月ころから筆者は警告していた。
当時の気象庁は、東北の冷夏とエル・ニーニョとの相関関係はあまり高く
ないのに、これに重点をおいていたため大冷夏の長期予報は出していなかった。
過去数百年間を調べてみると、クラカトア火山(1883年)やピナトゥボ火山
(1991年)に匹敵する世界的な大規模噴火があると、その直後の2年間
には90%以上の確率で大冷夏が起きている。
その1993年には6月頃、防災気象講演会が決められており、1993年9月3日に
岩沼市民会館で「冷夏と飢饉」の話をさせていただいた。時の話題なので、
大ホールに数百人(700人?)の参加者があった。その秋は「平成の大凶作」
と呼ばれる、1913年(大正2年)以来の80年ぶりの歴史的な凶作となった。
当時の書類を見ると、司会は業務課長・金田三郎さんである。あとで述べる
ように、金田さんとは再会することになる。
3. 温暖化資料解析の旅
筆者は1997年3月31日に東北大学を定年退職し、もう10年になる。早いものだ。
現在は神奈川県平塚市に住んでいる。現役時代から気になっていた問題だが、
現在は「地球温暖化」のより正しい値を評価するために全国各地をまわって
いる。その際、気象庁の同じ方々に偶然お会いすることがある。
1990年代のこと、学生に対する「放射冷却」の講義において、その応用例を
示す目的で、旭川における毎年の最低気温(極値)が年々上昇していること
を紹介していた。旭川では1902年1月25日に-41℃の最低気温を記録しており、
1920年ころまで-30~-35℃であったのだが、近年の最低気温は-20~-25℃
となり、この100年間に約10℃も上昇している。
これは、当初、元・旭川地方気象台長の三本木亮さん(現在、札幌在住)
が定年前の1988年に発表された解説「旭川の気象100周年を迎えて」
(日本気象協会)の中に示された図の一つから得たものであった。
私は引退後、"旭川に行ってみたい"という気持ちから始めたのが現在の
仕事である。
青森、秋田、山形など積雪の多い都市では旭川と同じように年最低気温が
近年急速に上昇している。都市では冬期の道路除雪を徹底的に行うように
なり、強い放射冷却が起き難くなっているからである。
同じ旭川市でも田舎の江丹別では最近でも-35℃以下の最低気温が生じている。
理論的試算をしてみると、道路除雪の放射冷却に及ぼす影響が大きいこ
とがわかる。
温暖化など長期的な気候変化を観測できる適当な観測所はどこか、
全国を旅してみても、ほとんどみつからない。北海道の寿都、三陸の宮古、
金華山、四国の室戸岬くらいだ。
これに次ぐところは青森県の深浦である。2004年9月に室戸岬測候所と
高知地方気象を訪問した際に、高知地方気象台長・金田三郎さんに再会する。
1993年の岩沼市で開催された防災講演会のとき以来である。
突然訪問した長野では2004年11月8日に下山紀夫台長に会い、その翌春
4月25日、鹿児島地方気象台を予告なしに訪問した際に、挨拶すべく
台長室へ入ってみると下山台長に再会し、二人とも驚いてしまった。
去る3月27日に秋田地方気象台防災業務課を訪問すると、突然、
下道正則台長に迎えられた。2005年10月19日に網走でお会いして以来の
再会である。気象庁の転勤が頻繁であることと、筆者が全国をまわって
いることが重なって、あちこちで再会の確率が高くなるわけだ。
4. 市民の協力による気象・気候の監視
学問への興味のほかに、気象学の必要性、気象庁の存在意義、気象観測の
目的は、その1:風水害などの短期的災害の予測・軽減に役立つ気象資料
をうること、その2:温暖化など気候変化の実態を監視すること、にある。
気象庁の行う地上気象観測は微気象学の目的ではなく、やや広域の
10~100km範囲を代表する地域の気象を知ることにある。ところが
最近では、観測所の周辺環境はいずこも悪化の傾向にある。
風速観測の障害となる高層ビルが近所にできたり、観測露場の周囲に住宅
で建てこんできたり、樹木が成長して風通りが悪化している。露場の周辺
10m~数10mのごく近くの環境が変化すると、気温データに敏感に反応する。
極論すれば、近所にある樹木の生長、枝の切り落としをモニターしているに
過ぎない観測所もあるほどだ。気象事業はこれでよいはずがない。
こうした問題をちゃんと意識して観測所周辺の環境を守る努力はされて
いるのだが、中には見落としもある。観測所敷地内は気象台の責任で
環境は守れるのだが、敷地の外の環境は地域住民の協力が必要である。
以下にその例を示しておきたい。
例1:高知地方気象台の観測露場
高知は筆者の出身地である。当時の高知測候所(現・地方気象台)は周囲に
田畑もあり、約100m×50mの敷地(官舎も含む)があった。
1945年の終戦・戦災後、露場の南側にだんだん住宅が建つようになり、
1970年頃には密集状態となってしまった。
周辺の観測所(室戸岬測候所、
清水測候所、安芸・後免・窪川アメダス)と比較すると、高知の年平均
は0.8℃ほど上昇して、2000年頃まで気温差はほぼ一定となった。
2001~2005年に高知市がこの付近一帯を再開発する目的で、古い住宅を
撤去し、新しく整備された縦横の道路と住宅団地をつくった。気象台の
敷地の半分ほどは市に売却・提供?された。露場の周辺はミニ公園となり、
西側(卓越風向側)に子供用のサッカー練習場ができ、高さ5m程度
のフェンスで取り囲んだ。
このフェンスに蔓が約1mほどの間隔で植栽された。このフェンスと蔓が
風通りを悪化させ気温上昇をもたらすのだが、蔓が年々繁茂すると気温上昇
として現れることになる。気象観測は蔓の成長をモニターすることになる。
蔓は子供たちの周囲からの監視にも邪魔になる。
このことを気象庁観測部に伝えたところ、観測部-高知地方気象台-
高知市役所高知駅周辺都市整備課へと伝えられ、蔓は移植・撤去される
ことになった。
1年後の2006年秋、筆者はそれを確かめるために高知の
露場周辺を見学してみると、蔓はなくなっていた。気象庁観測部ほか
担当部署のすばやい対応に感謝したい。
例2:宮古測候所露場外側、クルミの木の伐採
宮古測候所は気候変動監視のできる数少ない観測所の一つである。
2006年7月12日に訪問してみると、露場の南東側にクルミの木が繁茂していた。
私の訪問について、測候所の豊間根正志所長が非番の職員も含め全員に
声をかけてあったところ、全職員が集まっていた。露場周辺10m程度の
範囲の変化が気温データに敏感に影響することの実例を含め、温暖化資料
解析のセミナーを開かせていただいた。
測候所長は露場周辺の環境についてずっと気にされ、仙台管区気象台とも
相談されて、年度末の2007年3月26日にクルミの木は伐採されることになった。
この木は測候所敷地の外に生えていたものだが、持ち主は気象観測の重要性
を理解されて、伐採の許しを出してくれたのである。
筆者は各地の観測所周辺で観測の邪魔になっている樹木を見つけると、
その所有者や管理者(例えば市役所総務課)を訪問し、気象観測や温暖化
監視の重要性を説明する。その際に、「もし気象台から伐採の申し入れが
あれば許可していただけますか? ・・・・・」と尋ねている。
樹木の持ち主や市町村役所では、このことをよく理解してくれる。したが
って、各地の気象台にお願いしたいのは、観測に邪魔になる樹木等があれば、
周辺の住民に働きかけをして欲しい。
例3:旧深浦測候所
去る3月28日に青森県の旧深浦測候所(現在無人)の周辺環境を観察した。
深浦は気候変動監視目的の基準観測所に次ぐに適した観測所であるが、
年平均風速が1970年ころから減少し当時に比べて現在約35%も弱化している。
この傾向は現在も続いている。深浦に行ってみると、南~南西側に松の木
があり、風速計高度(13.3m)を超える18mまで生長していた。
ここは深浦町の公園であり、道路脇の案内板によれば、この松は由緒ある
もので江戸時代には奉行所があったという。現在の松はその2代目かも
知れないが、由緒ある松なので伐採はできない。
しかし、松の根本付近に
笹が繁茂しており、さらに無人となった旧測候所の敷地内の入り口付近に
は生垣が約3mの高さまで生い茂っていた。
これらが露場の風通りを悪化させ気温が局所的に高くなってしまう。
近くの住民の金沢兼作さんに会い、このことを話しておいた。
帰宅後、金沢さんから電話があった。入院中の知人とも会っていただいて
昔のことを確認していただいたところ、測候所創設の1939年当時は、
笹はあったが現在のように繁茂していなく、南~南西方向の海岸風景を望む
ことができたという。
ここは町の公園なので、笹の刈り取りは町役場に相談し、昔のように
きれいにしておくべきだろう、と話してくれた。
筆者は、この旧測候所(現在、特別地域気象観測所)の観測データが気候
変動の監視上重要であることを説明するために、再度の深浦訪問を考えている。