74. 生月島と平戸の観光

著者:近藤 純正

2007年6月4日午前中に長崎県の北西部(九州の最北西部)に位置する平戸市 生月島の史跡を巡った。午後はオランダ橋(幸橋)、三浦按針終焉の地、 聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂、六角井戸、松浦資料記念館、崎方 (さきがた)公園などを巡った。(完成2007年6月11日)

トップページへ 展示室案内へ


地球温暖化の実態をより正しく知るために、各地の気象観測所を訪問し、 その周辺環境を目で確かめ聞き取り調査を行っている。今回は 九州の北西端にある旧平戸測候所(現在無人観測所)を見学する機会に、 オラショで知られる生月島を訪れることにした。

2007年6月3日、長崎駅前8:30発の高速バスに乗車、佐世保から路線バスに 乗り換えて、平戸桟橋へ11:36に到着した。バスターミナルで平戸の観光地図 をもらい、旧測候所への道程を教えてもらう。

3日の午後に旧測候所の調査が終り、4日の午前中は生月島訪問、午後は平戸市内 の観光である。

生月島
オラショ:
布教時代、信徒達が教会で教義や祈りを覚えていた。生月島には、徳川幕府の 禁教以後も弾圧をかいくぐった隠れキリシタンが脈々と唱えてきた口承祈祷 「オラショ」が残っている。調査・考証を重ねてきた音楽学者の皆川達夫さん が30年間に及ぶ研究成果をCD・DVDで集大成した。
隠れキリシタンが潜伏して十数人で唱和したオラショはラテン語の祈りに由来 する。神への賛美、祈祷などから成り、唱え言葉のオラショと、ご詠歌の ような旋律を持つ歌に分類される。
皆川さんがオラショと出合ったのは1975年。伝承者の唱える言葉の響きに、 ラテン語を聞き取った。原曲探しの旅が始まる。ヨーロッパ数カ国の図書・ 博物館を巡った。ついに、1982年秋、スペイン・マドリードの国立図書館で 原曲「オー・グロリオザ・ドミナ(栄えある聖母)」を見つけ出した。16世紀 のイベリア系ローカル聖歌であり、今では残っていない聖歌である。

この内容の新聞記事(朝日新聞2006年9月20日)を読んだ記憶があり、 生月島を訪ねてみたくなった。
生月町博物館・島の館でボランテアガイドを紹介してくれるということを知り、 依頼した。筆者はバスで訪問する予定なので、それならガイドのできるタクシー (10時から2時間、11,000円)をチャーターしてもらうことになった。

生月町博物館・島の館:
生月島は周囲30km、南北に細長く、人口約8千人の住民の多くは島の東側 (次に掲げた写真に家々が写っている側)に住んでいる。
明治時代に入ると信仰は自由になり、大正時代には島内の山田に教会も建て られるまでになったが、潜伏時代に守ってきた信仰の形をそのまま続ける道を 選んだ信徒が生月島には多数存在した。これら信徒はかくれキリシタンという 名前で呼ばれるようになった。1995年には、そのような貴重なかくれキリシタン の文化を紹介する施設として「生月町博物館・島の館」が開館している。

生月島全景

生月島全景、左手に生月大橋がかすかに見える(生月大橋の 手前でバスから撮影)

生月島訪問:
博物館・島の館の塚本さんからメールで教えてもらったように、平戸桟橋 8:30発の生月行きバスに乗車。運転手に頼むと、生月大橋を渡って すぐの分岐点で停車し、「島の館」への道程を教えてもらう。

「島の館」は主に”島のくらしゾーン”、”捕鯨ゾーン”、”かくれ キリシタンゾーン”から成る。 30分間ばかりかけて、学芸員の中園成生さんから隠れキリシタンの紹介 を受け、生月島キリシタン史を学ぶ。ビデオに要約されたオラショなどの 映像も見た。

10時になり、迎えにきたタクシーに乗車しようとしたところ、 運転手は「私は詳しいガイドができません・・・・」という。筆者は困り、 博物館に相談する。急に新しいガイドさんを頼むことはできないだろうから、 観光は午後に変更してもよいので、何とかなりませんか・・・・、と私は 頼んだ。

「島の館」の担当者も困り、タクシー会社に連絡。そうこうしているうちに、 運転手でも簡単にならガイドはできる、という。筆者も隠れキリシタン史跡の 詳細を知ることではなく、観光なので、発車してもらった。

千人塚
千人塚(左)と、八体様(はったいさま)(右)

最初の訪問史跡は舘浦にある「千人塚」である。見学がはじまったとき、 もう一台のタクシーがやってきた。ベテラン運転手の村川五十二さんである。 村川さんはタクシー会社を引退されたが嘱託で運転しているという。

島原の乱(1637~38)以来、幕府はキリシタンの撲滅に力を注いだ。平戸藩は 掃討のため、疑わしき者はその家族全員を虐殺した。数百人という多数である ので、後世、村の人々は殉教者をいたみ「千人塚」と呼ぶようになった。

6月4日(月曜日)は平日なので、観光客も少ないと想像し、私は「よかったら 村川さんも一緒に行っていただけませんか?」と尋ねると、車を置いてきて、 鈴木和也さんの運転するタクシーに同乗し、ガイドしていただけることに なった。

多くの観光客は島外からの観光バスでまわっている。この日、筆者が「島の館」 の見学を終えたころ、団体観光客に会った。この団体客は平戸の国際観光ホテル 「旗松亭」で朝食の際に一緒になった佐世保からの人たちであった。

生月の山田免吉永にある山田教会に入れてもらった。村川さんに指摘されて 後方を振り向くと、天井の回廊には珍しい図形があった。烏山神父が集めた 蝶の羽根で作ったものだという。

山田教会
山田教会
上:蝶の羽根で作ったという壁画、下:教会の内部

「島の館」の資料によれば、祭壇に飾っている十字架は、殉教地ガルパル 様に生えていた松の木で作られたものである。天井の回廊には蝶の羽根で キリスト教に関する様々な図形を表した珍しいステンドグラスが付けられて いる。

ガルパス様と中江ノ島
ガルパス様(左)と、中江ノ島(右の写真中央に見える小さな島)

舘浦から壱部浦に向かうと、ガルパル様がある。これはキリシタンの指導者 西玄可(洗礼名ガルパス)の殉教(1609年11月14日に処刑される) を記念した碑である。

「島の館」の資料によれば、昭和のはじめ、黒瀬の辻と呼ばれる丘の上に ガルパス様の松と呼ばれる大松が生えていた。その根本には古い積石墓があり、 これがガスパル様の墓と言われ、かくれキリシタンの聖地となっていた。 松は戦後の松枯れで倒れたが、カトリック信徒はその材で十字架を作って 配った。「黒瀬の辻」は十字架・クルスの辻の訛りで、かってここにあった 大十字架に由来するという説もある。

中江ノ島は多くの信徒が連れて行かれて処刑されたという。
壱部と呼ばれる集落の墓地では、家々の石塔は中江ノ島に向いて建てられて いる。
中江ノ島の断崖には岩の割れ目があり、オラショを唱えると、乾燥したときでも、 水が染み出てくるという。中江ノ島に上陸して、行事に用いる聖水・お水 が採取される。

後ほど島の館から頂戴した「生月島のかくれキリシタン」には次のように記されて いる。
中江ノ島は殉教の舞台となった場所である。捕らえられた信徒は船上で 賛美歌を歌い、自からの処刑地に向かったという。見送る信徒達は心の中で 信仰を決して絶やさないことを誓い、家内や洞窟にご神体を隠してオラショを 唱え続けた。・・・・380年を経た今日に至るまで、中江ノ島で起こった先祖 の殉教の悲劇は、親から子、孫へと伝承されてきた。生月島のかくれキリシタン 信徒にとって、中江ノ島は最高の聖地である。

里免の森の中へ入っていくと、幸四郎様(パブロー様)がある。幸四郎は もともと弾圧のために生月に派遣された役人であったが、急に失明し、 キリシタン信徒の手厚い看護により回復し、その感激が動機で信徒となった。 しかし平戸藩に知れるようになり、ついに殉教したという。この伝説は 聖書の聖パウロの説話に類似しており、パウロも弾圧者だったが、砂漠で 閃光を見て視力を失い、キリスト教徒の司祭アナニアの祈りで視力を回復し、 信徒となり布教に尽力した。

幸四郎様と焼山
幸四郎様(左)と、焼山(右)

焼山は布教時代の1561年伝導士アルメーダが教会を建てた場所だと伝えられて いる。その後、平戸藩は取り締まりを強化、この地一帯を焼き払わせたこと から「焼山」と呼ばれるようになった。

つぎに、景色のよい塩俵の柱状節理の見える断崖に案内された。

柱状節理
柱状節理
生月島北部壱部免に露出したもので、直立した六角形柱状の玄武岩が1km も連なる。下方では低い柱状の岩が折り重なり、あたかも塩俵を積み重ねた ような景観となっている(長崎県新観光百選の一つ)。

この柱状節理は地質学的に貴重な地形により、1989年に長崎県の天然記念物 に指定されている。

つづいて、一部カトリック教会を経て、一部氏屋敷跡へ案内された。

一部カトリック教会
一部カトリック教会

一部氏屋敷
かくれキリシタンの聖地「お屋敷様(一部氏の屋敷跡)」

一部大和守正治(洗礼名バルタザル)は熱心なキリシタンであり、また武士の 誉と称される高潔武勇な武士でもあった。禁教令により1599年に生月を 退去した。信仰のために、領地を捨て、追放の難にあった一部氏への追慕の 念から、その屋敷跡は三百数十年余の間、立ち入ることが禁じられてきた。 いまでは小さなお堂で、旧暦8月29日を一部様の命日として、ゆかりの人々が 「オラショ」を唱え、祷りの行事を行っている。

私が生月島の観光にきたのは、朝日新聞に掲載されていた皆川達夫さんの オラショの研究の記事がその動機である。このことを案内人の村川五十二さん に話したところ、村川さんは、「この島では、皆川先生のこと を知らぬ者はない・・・・・、オラショの研究・調査にこられた当時は、 大きな録音機持参でした・・・・」と、以前のことを語ってくれた。

タクシーに電話が入った。生月町博物館・島の館に私の忘れ物があったので、 バス停留所に預けてある、という連絡である。運転手の鈴木和也さんが 忘れ物をとってきてくれた。

その袋には「生月島のかくれキリシタン」という87ページの冊子と、付録の 資料(本ホームページの文中に「島の館」の資料と記した)があり、次の 手紙が入っていた。
近藤様
先ほどはご迷惑をおかけ致しまして誠に申し訳ございませんでした。
当博物館の学芸員が作成した、かくれキリシタン関係の資料がございますので お受けとり下さい。 心ばかりのお詫びの品です。これにこりず又のお越しをお待ち申し上げます。
平戸市生月町博物館・島の館


私はこの手紙と詳細な資料を頂戴し感激した。
バス停「汐見町」で、島を案内してくれたタクシー会社の村川五十二さん、 鈴木和也さんにさよならを告げた。

生月大橋の写真をまだ撮影していなかったので、帰途のバスを一つ遅らせる ことにした。平戸行きのバスはおよそ1時間ごとに運行されている。

バス停でバスを待っていた女性に生月大橋の写真を撮るのにはどこへ行けばよい のか尋ねると、バス道路を真っ直ぐに橋のほうへ歩き、橋の手前で右に進めば 公園がある、そこがよい撮影場所だと教えられた。

生月大橋と御製
左:生月大橋、1991年に完成、全長960m、トラス型としては 世界一の長さがある。
右:橋のたもとの「生月大橋公園」に設置された記念碑 に刻まれた御製(2002年11月18日生月島行幸の際にお詠みになった和歌)

生月大橋公園はきれいに整備された公園である。記念碑に御製が刻まれていた。

写真撮影していると、思いがけず、博物館・島の館で案内してくれた学芸員の 中園成生さんがわざわざ来てくださった。中園さんは多分、バス停からこの 公園付近まで歩いて私を探していたのではないだろうか。
私は、「お陰さまでタクシー会社の村川さんのご案内で十分満足できる観光が できました。そのうえ、博物館で作成された詳細な冊子「生月島のかくれ キリシタン」まで頂戴し、ありがとうございました。これでまた、勉強させて いただきます」とお礼の挨拶をした。

きょうの生月島の観光は素晴らしく、楽しかった。

阿値賀島
生月大橋公園から南西方向にある阿値賀島(あじかじま) と思われる島(望遠写真)。阿値賀島は国の天然記念物、周囲は数十mの 柱状節理の断崖から成る。

生月島は天気よく、風もなく、海面には もや のようなものが かかっていた。



平戸
平戸は日本最初の海外貿易港として栄えた港町である。1950年にポルトガル 船の来航以降、オランダ、イギリスと貿易が行われてきた。

2007年6月4日午前中に生月島観光を終え、午後は平戸市街地を観光 した。平戸城、最教寺、最教寺三重大塔は6月3日午後に見学してあったので、 その残りを巡ることにした。

オランダ橋
平戸市役所入り口にあるイギリス商館記念碑(左)と、 幸橋(オランダ橋)(右)

平戸城
平戸城(左:望遠写真)と、天守閣(右)
松浦家26代鎮信は1599年亀岡(現在地)に「日の岳城」を築くが、徳川家康により、 豊臣秀吉との親交が深かったことを疑われ、鎮信はその疑いを払うために 城を焼却、平戸6万余石を守った。のち、1704年「平戸城」の再築を開始、 1718年に完成した。明治4年(1871年)廃城となり、1962年平戸市により復元 された。

平戸市役所前敷地内に建てられたイギリス商館記念碑、オランダ橋、三浦按針 終焉の地、按針の館を巡った。


注:三浦按針(ウイリアム・アダムス、1564-1620)
日本とオランダ・イギリスの架け橋となった人物。
1600年にオランダ商船が豊後に漂着したとき、徳川家康はその航海士ヤン・ ヨーステンとイギリス人ウイリアム・アダムスらをとどめて、外交・貿易の 顧問とした。その後、オランダは1609年、イギリスは1613年に貿易許可の 朱印状をえ、両国は平戸に商館をひらいた(高校日本史より)。
姓の三浦は与えられた領地・相模国三浦半島に因むもの、名の按針は水先 案内の意である。


続いて、港の北側山の手を歩き、瑞雲寺、光明寺、 聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂を訪ねた。

三重大塔
左:最教寺の三重大塔の望遠写真、右:最教寺三重大塔、右方 に最教寺奥院が写っている

寺院と記念聖堂
左:聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂(ホテル「旗松亭」 からの望遠写真)
右:寺院と教会の見える風景、手前に光明寺と瑞雲寺、遠方に記念聖堂がある

聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂
聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂

聖フランシスコ・サビエル記念聖堂の庭の像には次の説明があった。
聖フランシスコ・ザビエル記念像
東洋の使途、偉大な聖者として世界の人々に尊敬されているフランシスコは 1506年4月7日スペインのナブァラの貴族の子として生れた。
彼はパリ―大学在学中「人は全世界を手にすることができても、その魂を 永遠に滅ぼすなら何の意味があるか」という聖句を沈思黙考、人間の幸せは 愛によって神に結ばれ祝福される生き方にあることを悟り、すでに約束されて いたパリ―大学教授の地位と、いっさいの名誉からはなれ、同志とともに修道会 (イエズス会)を創立しキリストの教えを伝える、一介の伝道者に なった。

インド各地の伝道のあと、1549年8月15日多難な航海を経て鹿児島に上陸、 日本に初めてキリスト教とヨーロッパ文化を伝えた。
翌年、聖師は平戸に来島、藩主松浦隆信の歓迎を受け、教えを説き多くの信徒 を得た。・・・・・ここに聖師の記念像を建立し1971年7月18日除幕祝別し、 教会も聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂と改名された。


宿泊しているホテル「旗松亭(きしょうてい)」は斜面にあるので、 記念聖堂から港の方へ下ると、また坂を上がらなければならないので、 山手の道をホテルに向かうことにした。

途中に大ソテツ、続いて六角井戸があった。
六角井戸には次の説明がある。
中国の明(みん)の海商・王直は1542年松浦家25代隆信(道可)の優遇を得て平戸 に居を構え、
ここを根拠として貿易を行い、多くの明の商人が平戸に定住した。
この井戸はその当時、明の様式で作られたといわれ、六角形の石柵で囲われて いるのが特徴である。
(平戸市教育委員会)


なお、明の海商・王直に関して、年表によれば、1550年にポルトガル船が平戸 に初入港したのは、王直の手引きによるものである、と書かれている。

六角井戸と旗松亭記念碑
左:六角井戸、右:旗松亭でご宿泊された天皇皇后陛下御宿泊 記念の碑

江戸時代初期のオランダ・イギリス貿易当時、平戸藩主の屋敷があった所に 松浦資料博物館がある。

松浦資料博物館を見学したあと、国際観光ホテル「旗松亭(きしょうてい)」 に近づく手前、旗松亭の隣地に崎方(さきがた)公園があった。 ここは港を見下ろす場所にある。筆者は去る3日、旧平戸測候所 を訪問したとき、そこは、港から肉眼では天気予報の旗は見えない遠方に あり、昔、そこに測候所が設置されたことに疑問をもっていた。

平戸大橋
平戸大橋(望遠写真)

測候所を設置するなら、この崎方公園・旗松亭付近が適地に思えた。旗松亭 という名前の由来を知りたくて、ホテルでパンフレットをもらったところ、 つぎのような説明があった。

旗松亭の由来
この地は、昔、松の下に旗をゆわえて入港、出航の合図をした場所で、
これを記念して茶室「旗松亭」が建立されました。
当ホテルはその地に「旗松亭」として、存続いたしております。
この由緒ある「旗松亭」の名をいつまでも保存してゆきたいと存じます。


崎方公園にはフランシスコ・ザビエルの記念碑や平戸ゆかりの三浦按針 (ウイリアム・アダムス)の墓もある。こうした事情により、ここに 測候所が置かれなかったのかもしれない。

このホテルには、昭和天皇皇后両陛下、今上天皇皇后両陛下、浩宮殿下の三代がご宿泊され ており、そのほか宮様がたが御休息されている。

ホテルに戻ると、すぐ隣の一段低い敷地にある「平戸観光資料館を見学され ましたか?」と聞かれ、まだだと答えると、「いま、午後5時前だから ご覧になっては・・・」と勧められた。

この資料館で私の心を打ったのは「ジャガタラ文」である。学芸員から 当時の状況について詳しく説明を受けた。

1639年のこと、ヨーロッパの父親と日本人の母親に生れた混血児たちは インドネシアのジャカルタへ追放された。ジャカルタが当時ジャガタラと 呼ばれていたため、彼らから送られてきた手紙は「ジャガタラ文」という。

混血児コショロ(女)はオランダ貿易当時に生れた混血児のひとりである。 コショロからの手紙が展示されており、それには20cm四方のジャワ更紗 で作られた袱紗(ふくさ)に、「日本恋しや こいしや・・・・・」の文章に より、望郷の思いが美しい文字で綴られている。

ジャガタラ文
平戸観光資料館の入場券、袱紗(ふくさ)にコショロによる ジャガタラ文が綴られている

木田家所蔵・平戸観光資料館展示中のコショロの文は次のとおりである。
日本こいしや、こいしや、かりそめに たちいでて、
又と かえらぬふるさととおもへば、心もこころならず、
なみだにむせび、めもくれ、
ゆめうつつとも さらにわきまえず候へども、
あまりのことに ちゃづつみ一つしんじ上候、
あら にほんこいしや、こいしや、にほん こいしや、
     こしょろ
うばさままいる


平戸港
国際観光ホテル「旗松亭」食堂より撮影した平戸港。横に写真4枚を 合成し多少ひずんでいる。
撮影場所から見た真西は平戸城天守閣と最教寺三重大塔の中間の方向である。
聖フランシス・ザビエル記念聖堂は北北西の方向にある。

私は各地を旅行する際に、安価なホテルを探している。旗松亭は立派な 観光ホテルなので、宿泊費の安いビジネスコース(海の見えない側の部屋、 ただし、部屋は広く立派)で2泊した。

1泊目の朝食は団体客があり、大食堂でバイキング式の朝食だったのだが、 2泊目は海の見える半個室の食堂に案内された。平戸大橋、平戸城、三重 大塔、聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂が一望できる。生月島と平戸観光の 最後の感激となる。私は、これはホテル側の気遣いによるものだと思った。

トップページへ 展示室案内へ