55. 網走周辺の観光
近藤 純正
2005年10月19~22日、北海道の網走方面へ旅行した。網走川や斜里川ではサケ
の遡上を見ることができた。また、涛沸湖、網走湖、能取湖、さらに博物館
「網走監獄」などを見学した。「網走監獄」では脱獄囚の脱獄模型が展示され
ており、興味がわいたので、脱獄囚の証言その他の記録をもとに書かれた
斎藤充功著「脱獄王 白鳥由栄の証言」を購入した。
そのごく一部をこの章の最後に紹介しよう。
サケの遡上
網走の気象台は標高38mの丘の上にあった。気象台長に案内されて、
風を測る測風塔に登るとオホーツク海が一望できて、眼下に網走港があった。
港の防波堤の一部になっている大きな天然の岩「帽子岩」、またの名
「チバシリ岩」がある。
昔のアイヌはチバシリ岩を神として崇めていたという。チバシリが
なまってアバシリの地名が生れたらしい(タクシーの運転手による)。
また、後述の斎藤充功著『脱獄王 白鳥由栄の証言』(幻冬舎アウトロー
文庫、全238ページ)によれば、網走の地名はアイヌ語の「ア・パ・シリ」
(われらが見つけた土地)が語源だとされている。
冬になると、海の全面が白一色に覆われるという。
網走地方気象台2002年12月発行の「オホーツク流氷ハンドブック」(52頁)
によれば、流氷出現確率80%以上となるのは2月はじめから3月下旬に
かけての期間である。流氷観光船「おーろら」に乗船する観光客は、最近では
15万人ほどに達している。
翌日の10月20日は快晴であったが、暖気のせいなのか、この丘からの
知床連山は、かすかにしか見ることができなかった。
気象台測風塔から見下ろした網走港、右寄りの防波堤上の岩は
チパシリ岩(=神の意味)
水平線上の左方に見えるのは能取岬(のとろみさき)
宿泊ホテルはJR網走駅前にとってあった。気象台からホテルへの帰途、
網走港から網走川に沿って上っていくと、サケの遡上が見られると聞く。
橋の上から眺めていると、大きなサケが川を上っていく。私がはじめて
見るサケの遡上である。
再び川岸の遊歩道にもどり、上流へと進むと、岸近くにサケの大群があった。
網走市街を流れる網走川を遡上するサケ
ホテルに着き、フロントで、サケの大群を見たことの話をすると、「ここから700m
ほどの上流でサケを捕獲しているところがあります」と教えられた。
行ってみると捕獲作業は終っていた。捕獲は朝6時30分~10時にする
とのことである。「明日は捕獲作業はありますか?」と尋ねると、休みだと
いう。
サケは捕獲後、たまごを取り出し、孵化して稚魚を育てて放流するという。
「この付近で捕ったサケは食べますか?」と訊くと、「うまくないので食べ
ない。普通に店で売っているのは海で捕ったサケです」と話してくれた。
斜里(しゃり)の斜里川では一日中サケの捕獲をしていると聞いた。
翌日の10月20日、斜里でサケの捕獲場はどこかと尋ねたがわからなかった。
網走湖の湖岸のサケ
網走周辺
10月20日、朝6時41分網走駅発のJRに乗車し、オホーツク沿岸沿いに知床斜里
(しれとこしゃり)に向かった。はじめての風景に感動を覚える。
斜里駅からタクシーで以久科小学校へ向かう。ここには気象観測所のアメダス
があり、その周辺環境を見ることが目的であった。
斜里の市街から離れたところに、きれいな小学校があった。8時前であるが、
すでに教頭先生がおられた。尋ねると、生徒数はわずか15名である。
かっては数百人の生徒数があったという。日本の田舎では、どこでも、
こんな状態となっている。
(左)斜里町以久科小学校、(右)斜里岳(標高1547m)
斜里から網走への帰途、車窓から「白鳥飛来の涛沸湖」の案内看板とともに涛沸湖
(とうふつこ)を見た。この湖の西の部分はオホーツク海につながり、
一部氷結しない水面ができ、そこで白鳥は過ごすことができると聞く。
白鳥飛来の涛沸湖
10月21日、網走の西方にある常呂と佐呂間に設置されている気象観測所の
アメダスを見るために、貸切タクシーで案内してもらう。
能取岬では270°の展望ができた。岬の上面は平坦地が広がるが、まわりは絶壁
である。
能取岬(のとろみさき)(合成写真)
この岬は次に行く能取湖と同じ漢字で書くのだが、発音は
「のとろみさき」、湖は「のとりこ」と呼ぶという。
(左)能取湖(のとりこ)、(右)能取岬の遠望
漁業の町・常呂(ところ)を経て南下すると、佐呂間(さろま)に着いた。
「網走への帰途は別のコースをとりましょう」ということで、タクシーは
ルクシ峠を越えることとなった。
網走湖の西岸から東岸へとまわり、博物館「網走監獄」で下ろしてもらった。
網走監獄は現在の網走刑務所の場所にあったが、記念として残すために移転
し博物館として一般に公開している。
佐呂間から網走への帰途、ルクシ峠から見下ろした佐呂間町、
中央前方の地名は武士(若佐小学校、アメダスがある)
(左)網走湖(西岸からの眺め)、(右)網走湖(東岸
キャンプ場付近からの眺め)
(左)オホーツク流氷館、(右)流氷館屋上の展望台から
網走湖の遠望
JR網走駅には昔使っていた網走駅の縦書き看板が掛けられている。
その横の案内板には次のような説明が書かれている。
この網走駅の桂板で作られた駅名看板は、
横書き駅名表示の多いなかで縦書きの看板となっています。旧国鉄時代には、
網走刑務所で刑を終えた元受刑者のほとんどが、この網走駅から列車に乗車
して故郷等へ向かって行きました。その網走の町を去る際、「この縦書き
看板のように、横道にそれることなく、まっすぐに歩んで生きて行って欲しい。
」との願いが込められて縦書きになっていると伝えられています。
これは、厳しい中にも豊かな幸をもたらしてくれるオホーツクの海に沿って
生きる、おおらかで人情味あふれる網走市民の暖かな気持ちに支えられ、網走
の市民とともに網走刑務所が歩んできた歴史を物語っているものです。
平成15年10月5日 網走刑務所長 記
(左)網走駅、(右)駅名看板
縦書きの網走駅看板の左側には「モヨロ人漁猟の像」があり、次の説明文
が書かれている。
6~9世紀頃、サハリンなどの先方からオホーツク沿岸に渡来してきた
「オホーツク文化」の人びと、網走市最寄(モヨロ)貝塚はその代表的な
集落跡です。彼らはクジラやトド、アザラシなどを主な生活の糧とする
古代の優れた海洋狩猟民族でした。
博物館「網走監獄」
網走監獄には多くの観光客が貸切バスや自家用車で次々とやってくる。
ここは網走市の観光の最大の目玉であろうか。受付けで「監獄」
と「刑務所」の違いを尋ねると、昔の法律で網走監獄(1903~1922年の期間)
と呼んでいたが法律が変わって現在(1922年以降)は刑務所と呼ぶように
なったという。当初の1890年に釧路集治監網走外役所が発祥となっている。
(左)博物館の入り口、(右)鏡橋
ひる過ぎの時刻になっていたので、食堂へ入るとメニュー
に「監獄食」(500円)があった。訊くと、監獄食は現在の刑務所で実際
に出されている食事とのこと、ただし、刑務所では味噌汁の代わりにお茶が
出るとのことである。
食膳に出された味噌汁をお茶に取り替えて写真撮影した。
麦飯だが食べてみると、特におかずの味がよかった。アンケート用紙がついて
いたので、次のように感想を記入した。
内容はよい。栄養もよく、麦飯はよいことだ。味付
けは特によい。総合的には、私の日常の食事と同等です。ごちそうさま。
現在では米より麦が高価なので、刑務所の食事はちょっと贅沢かな、と思った。
後で「行刑資料館」に行ってみると、そこにも刑務所の給食見本が陳列されて
おり、その内容では白米の割合が多くなっていた。刑務所でも財政難なのだ
ろう、麦飯は高価になってきたので白米の割合を多くせざるを得なくなった
のか! 私が食べたのは、現在の給食ではなくて、昔の給食だったのかも
しれない。
(左)500円の監獄食、(右)監獄内庭園
(左)赤レンガの正門、(右)庁舎
行刑資料館内の展示
網走監獄内ではガイドが付くグループと付かないグループがあった。
もちろん、一人の私にはガイドは付いてくれない。4名の中学生に2名の
先生のグループがガイド付きで歩いていたので、私は申し出て、その
グループに入れてもらった。中学校の総合学習の時間だという。
早回りコース40分と普通コース60分があり、私たちは普通コースを60分
かけて見学した。
移築・復元された「教海堂」は、犯した罪を反省させ、厚生への道をさとし
導く教えを行う講堂であった。この講堂の正面には祭壇がそなえられており、
受刑者たちが心のよりどころとしたという。
ここには受刑者たちによる書画の美術作品が展示されていた。
その中に皇后陛下・美智子さまのご結婚当時の絵があり、すぐわかった。
(左)舎房、(右)外から見た舎房
明治時代の監獄では、現在の刑務所と違って受刑者の人権を
無視するような苛酷な労働も強制されていたと想像される。
ガイドに案内されて五翼放射状平屋舎房に入った。五翼とは中心の監視所から
5つの方向に放射状に延びた舎房群であり、少人数で舎房内を監視できる
構造になっている。
廊下の天井近くを裸で脱獄する実物大の囚人模型があった。この
脱獄囚の話は次の通りである。
舎房廊下から舎房に入るドアに開けられた鉄格子付きの視察窓を止めるネジ
に毎日味噌汁をたらした。彼は手錠と足錠をかけられたままだったので、
汁は腹ばいになって口を食器の中に突っ込んで吸い、口に含んだ塩汁を鉄枠
にかけたという。
3ヶ月ぐらいたつと鉄枠に錆が出てきて、頭で鉄枠を何回も押すと木と鉄枠
の間に隙間ができた。また脱出までの期間、看守のすきを見ては手錠と足錠を
ぶっつけ合わせ、留め金のナットを歯で何万回となくかんでいるうちに
ナットがゆるんできたので、歯でナットを回して手錠を外した。足錠も
同じようにして外した。
鉄格子をはずした視察窓は、自分で両肩の骨をはずしてくぐり抜け、
廊下から天井にかけ昇り、彩光窓を頭部で突き破って屋根上に出て、
脱獄したという。これが第3回目の脱獄(網走刑務所)
である。
この脱獄囚は白鳥由栄(しらとりよしえ、1907~1979)という者で、生涯に
4回もの脱獄をしている。
(左)脱獄者の脱出模様、(右)破壊された舎房の窓の鉄格子
私は監獄内の見学を終え、中学生たちと別れた後、再び元庁舎の片隅の
売店へ行き、白鳥由栄の証言をもとにして書かれた斎藤充功著『脱獄王 白鳥
由栄の証言』(幻冬舎アウトロー文庫、全238ページ)を購入した。
この文庫本は、当初、1985年2月評伝社より刊行された『脱獄王 白鳥由栄の証言』に
「人間・白鳥」の章を書き下ろし、文庫化したもので、この博物館
「網走監獄」でしか販売していないという。
この文庫本によれば、白鳥由栄の脱獄歴その他は次の通りである。
1907年7月 青森県に生れる
1933年4月(25歳) 青森市で強盗殺人を犯す
1935年8月(27歳) 土蔵破りの犯人として盛岡警察署に逮捕される
1936年6月(28歳) 青森刑務所柳町支所を脱獄
1942年6月(34歳) 秋田刑務所を脱獄
1944年8月(37歳) 網走刑務所を脱獄
1947年3月(39歳) 札幌刑務所を脱獄
1948年7月(40歳) 東京府中刑務所に移送される
1961年12月(54歳) 模範囚として、府中刑務所から仮出獄を許される
1979年2月(71歳) 三井記念病院で息を引き取る
白鳥由栄は生涯に死刑、無期懲役などの極刑の判決を受けながら、4回もの脱獄
をしている。26年間の獄中生活、述べ3年余の逃避行という記録がある。
脱獄の理由は刑務所看守たちの冷酷な仕打ちに対する反抗であった
といわれる。
白鳥の証言によれば、彼に親切にしてくれた看守が勤務しているときだけは
脱獄しないで、彼をひどく扱った看守のときだけを狙って逃げている。
第1回目の脱獄(青森刑務所柳町支所)では、
7ヶ月の永い未決監生活に飽きてきて、自分の汚物を捨てに行ったとき看守
の目をごまかして針金を拾い、即席のカギを作って、房、舎房、非常門
(裏門)の3ヵ所の扉を開けて逃げた。当時の錠は簡単なつくりであった。
第2回目の脱獄(秋田刑務所)の動機は、銅板
張りの狭い独房に入れられ、看守の非情な懲罰と酷寒をうったえても取り
あげてくれぬ扱いに憤慨し、脱獄宣言をしている。暴風雨にまぎれて脱獄後、
刑務所の改善を司法省に訴えるため、歩いて上京、小菅刑務所時代に世話に
なった戒護主任だった小林良蔵に自分のいい分を聞いてもらったのち、
小菅警察署に自首している。
第4回目の脱獄(札幌刑務所)の動機は、死刑の
判決が出たあと、死刑を執行される恐怖心からである。刑務所では、白鳥の
これまでの脱獄時の実況検分調書を取り寄せ、破獄の原因を研究し、破る
ことが不可能な構造に造りかえてあった。
白鳥は、床下がコンクリートなのか、土なのかを確かめるために、ゴザの芯を
抜き、その先にツバをつけて床板の隙間から差し込んで、芯の先に土が
ついたので、逃げられる自信を持った。即席のノコギリを作って、少しずつ
5日間ほどかかって床板を切り抜いていった。床下に入り、土を掘って
逃げた。
脱獄後、逃避行を続け、295日目に札幌の琴似に戻ったとき、警官の
職務質問を受けた。最初は嘘をついていたが、警官からタバコを恵んで
もらい火をつけてもらった。白鳥は、二人の警官の丁寧なものの訊き方と
やさしさにホロットして、本名を明かし逮捕してもらい、安堵したという。
終戦後のやや混乱した時代、東京の府中刑務所では鈴木所長の温かい心に
次第に落ち着きを取りもどし、模範囚として扱われるようになっている。
白鳥の証言によれば、鈴木所長は白鳥を人間として認め、扱ってくれた人
だった。所長室では手錠、足錠を外すよう命じてくれた。こうした人間と
しての扱いが厚生へとつながったとされている。