49.佐渡への旅

近藤 純正

2005年7月18日から22日にかけて、新潟県佐渡島への旅をした。 20日には島の東北端にある弾崎灯台から海岸沿いに二ツ亀、賽の河原、大野亀 まで歩いた。大野亀の頂上に上り360度の展望を楽しむ。夕方、島の 西北にある金山で栄えた相川を訪ねた。21日は観光バスで尖閣湾と佐渡金山、 そして島の中央部のシルバービレッジ佐渡では佐渡文弥人形芝居「山椒太夫の母子 対面の場」を、佐渡能楽の里では能楽「道成寺」を鑑賞した。とき(朱鷺) の森公園では国際保護鳥のトキを観察したが、鳥インフルエンザの流行が 心配ということで、近づくことは許されなかった。 佐渡は遠流の歴史があり、都の文化がもたらされ、それが引き継がれて きた文化の豊かなところであった。

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佐渡へ渡る
7月18日、海の記念日、信濃川河口の新潟港から佐渡汽船の高速、時速80km の水中翼船「ジェットフォイル」で出航。この航路は国道航路350号線であり、 佐渡島の両津から西に走る国道350号線に続いていることを始めて知った。
航行の途中で新潟へ向かうジェットフォイルと旅客カーフェリーに会う。 視界はどんよりとしており遠方はかすんでいた。

高速艇

(左)ジェットフォイル(望遠)、(右)旅客カーフェリー (望遠)

進路が北から西方向に変わるころから、やっと島影が見えるようになった。 白い灯台がある。あとで両津の海上保安庁佐渡保安署で知ったことだが、 この灯台「姫崎灯台」は1895(明治28)年12月10日に設置されたもので、 鉄造りの灯台として現在もその役目を果たしている「日本最古の灯台」 だという。

姫崎灯台
姫崎灯台(望遠)

1時間ほどで水中翼船は両津港に到着した。
佐渡島には加茂湖がある。昔は淡水湖であったが、湖の中に港を 造るため入り口を掘ったので、現在は海水が出入りしている。

湖岸に行ってみると、牡蠣(カキ)の養殖が盛んであることに気づく。 佐渡の中央部は国中平野と呼ばれ、水田が広がっている。 想像していたより水田が多いので、あとで旅館のご主人に聞くと、 江戸時代の佐渡は幕府の直轄領とされ、金鉱山もあり25万石だったという。 日本の最大藩・加賀百万石の4分の1に相当する。
北側の山々は大佐渡山脈、南側は小佐渡山脈と呼ばれている。大佐渡山脈の 最高峰は金北山(標高1,172m)である。頂上には自衛隊の対空監視用 レーダーらしいものが見える。

金北山
(左)加茂湖からの大佐渡山脈の眺め(最高峰は金北山)、 (右)金北山の頂上(望遠)

旅館に入ると、戸などの造作に見事なものがあるので尋ねると昭和初期の建築 だという。私は、1964(昭和39)年6月16日の新潟地震の直後、新潟市内でビル が傾いたり沈下したり、橋が落ちるなどの被害を見たことがあるので、 ”新潟地震のとき、この家はどうなりました?”と訊くと、家は何ともな かったが、津浪が床上まできたという。

その浸水跡は床上20cmほどの高さの壁に黒ずんで残っている。 当時の土壁の上に新しく壁を塗りなおしたのだが、古壁からの にじみで新壁が黒ずんだようである。

旅館のご主人・海老名さんから両津の古い写真を見せてもらった。また、 珍しい物もあった。それは、日露戦争の二百三高地の激戦で日本軍が 使用した大砲の金属(砲金)を利用して作ったという、いろり(民家で床を 四角に切り抜いてつくった炉)に吊り下げる自在吊り具である。 その金属棒を支える竹筒は、さらに古い時代の家に使用されていた材である。

二百三高地とは1904(明治37)年の日露戦争で何万人という犠牲者をだした 激戦地のことである。

旅館
(左)1964年の新潟地震による津浪の痕跡、 (右)日露戦争時の大砲の砲金で作ったという、いろりに下げる自在吊り具



弾崎灯台
今回の旅の目的は、両津にある海上保安庁佐渡保安署で昔の弾崎灯台測候所 で観測したデータの書き写しと、弾崎(はじきざき)にある弾崎灯台 (現在は無人)と気象庁のアメダス観測所を見学することであった。

7月20日、両津埠頭7時54分発のバスで海岸線に沿って1時間ほど北東 方向へ向かう。運転手に、”弾崎灯台のそばで止めてください” とお願いしてあったところ、灯台がすぐ見える場所で下ろしてくれた。

アメダスと灯台を見学し、いろいろな方位からの写真を撮るために、 灯台の反対側に行ってみると、写真撮影に都合のよさそうな高さ2mほど の見晴らし台があった。しかし、数100mにわたりフェンスで取り囲まれて おり、「はじき野フィールドパーク(ログハウス・オートキャンプ場)」 の敷地となっている。

もと来た道を戻って隣地(入場無料)の見晴台へ行くと日本海が一望できた。 この見晴台には1957年封切りの木下恵介監督による昭和の名作映画「喜びも 悲しみも幾歳月」で有名になった灯台守の夫婦(俳優の佐多啓二と 高峰秀子)の像がある。 像に近づくと木下忠司の作詞・作曲・編曲の映画主題歌が自動的に流れて きた。

おいら岬の灯台守は妻とふたりで沖行く船の無事を 祈って灯をかざす灯をかざす・・・・・

懐かしい歌である。佐多啓二は今年(2005年)のNHK大河ドラマ「義経」で 頼朝を演じている中井貴一の父親(故人)である。

弾崎
(左)はじき野フィールドパーク見晴らし台の「喜びも悲しみも幾歳月」の 灯台守夫婦像、(右)藻浦漁港の沖合いから撮影した半島上の弾崎灯台と アメダス

灯台とアメダスの見学を終えて、バス道路を下って行くと 藻浦の集落に着いた。漁港に小舟が陸揚げされて並んでいる。私は 舟で沖合いに出て弾崎の半島部を写真に撮りたいと思った。 ひとりの年配の男性に会ったので、”どなたか舟を出してくれる方はいないで しょうか?”と尋ねると、”若い者は皆、仕事に出ているので・・・・・”。 ”もしかして○○が出せるかも知れない・・・・”と言って、港のほうへ 案内してくれた。

漁港で舟を片付けていた本間正義さんがいたので、 ”弾崎灯台とアメダスの写真を海上から撮りたいので、舟を出していた だけないでしょうか?”とお願いすると引き受けてくれた。

船外機を取り付け出航の準備ができて、エンジンをかけようと何度も 試みたが、うまく始動しない。このような不調なら、沖合いでエンスト するのではないか、と私は心細くなった。 やっとエンジンが始動し沖合いへ向かった。好運にも波は低く、沖合い1km ほどで灯台とアメダスがよく見えるようになり、波に揺れながらシャッター を押した。帰りは向かい風で波しぶきに少し濡れた。

”お礼にいくらお払いしましょうか?”と訊くと、本間さんは”こころざし 程度でけっこうですよ”と言ってくれた。私は1万円札のほか、千円札3枚ほど を持っていた。帰りのバス代に千円札は残しておかねばならないし、 この先には両替してくれる商店は無いかもしれないし・・・・と思い、 ”千円では少ない気もしますが、よろしいですか? 有難うございました” と言って手渡した。

弾崎から大野亀へ
海岸に沿って二ツ亀、賽の河原、大野亀までへと遊歩道が続いている。
二ツ亀の手前の磯で、流木を集めて焚き火をする埼玉県から来たという夫婦 に会った。声をかけると、彼らはこの海岸が気に入り、毎年のように遊びに 来るという。 海岸付近一帯の松が枯れていることから環境問題にまで話題がひろがった。

埼玉
(左)埼玉県から遊びにきている人たち、 (右)二ツ亀の風景

賽(さい)の河原は、幼くして死んだ子供の魂がここに集まると信じられて おり、小石を積んだ塔や小さな地蔵が無数に並んでいる。色とりどりの風車と ミニ鯉のぼり、人形も飾ってあった。

7月24日のお祭りの準備のために様子を見に来たという地元の年配者が、 見学に来た若い女性たちに賽の河原の意義について、また、 ”一つ積んでは母の恩、・・・・・・”と唱えて小石を積めば供養になる、 と説明していた。

賽の河原
賽の河原。遊歩道の海側にも小石を積んだ塔がたくさん並び、 風車などが供えられている

大野亀
大野亀(写真3枚の合成)

9時頃弾崎灯台で下車し、「二ツ亀」「賽の川原」を経て、「大野亀」の ふもとへ着いたのは12時15分であった。バスの発車時刻を確認すると 13時35分なので1時間余りある。大野亀のふもとの案内板には次の内容が 書かれていた。要約すると、

大野亀は海抜167m。波打ち際から頂上まで一枚の 岩からなる日本三大巨岩の一つといわれている。頂上の石塔は航海の安全 を守る竜神として信仰されてきた。この地の黄色カンゾウ(正式 名はトビシマカンゾウ)は、山形県飛島と酒田海岸とこの佐渡だけに生息 するユリ科の多年草である。この大野亀一帯は日本一のカンゾウの群生地 である。6月には黄色カンゾウが一斉に咲く。(両津市)

ふもとから見上げると頂上に石塔が見える。 急勾配の小道を登っていくと、360°の展望が広がる。歩いてきた方向には 二ツ亀が海面に浮かぶかのように並び、反対方向には佐渡北西岸のはるか 遠方まで見えた。もっとも遠方に見える半島は相川の近くかな? と想像したのだが、あとで旅館に帰り尋ねると、ご主人は5万分1の地図を 出してくれた。もっとも遠方に見えたのは入崎鼻であり、相川までの45kmの 約半分の距離に過ぎなかった。

二ツ亀
大野亀頂上から東方向の眺め(海面上に並ぶのは二ツ亀)


入崎
大野亀頂上から南西方向の「外海府海岸」の眺め(最遠方は入崎鼻)

大野亀の頂上への小道は急斜面であり、油断して足を踏み外すと海岸の波打 ち際まで落ちそうだ。子供や年配者には危険だと思った。 下山すると、暑くてレストハウスで300円のアイスクリーム2個を食べた。 それでも涼しくならず、こんどは自動販売機で冷たい飲み物を買った。

午後1時35分大野亀始発のバスで両津へ帰った。乗客は私のほかは1人 しかいなかった。



観光バスで名所巡り
好天に恵まれ当初の目的=古い気象資料の書き写しと弾崎灯台周辺の視察= が早く終ったので、7月21日は新潟交通佐渡の佐渡定期観光バスに乗り 名所を巡ることにした。 両津埠頭9時20分発、17時10分に観光終了の予定。昼食と見学施設入場料込み で7,000円。

乗客は埼玉県の夫婦、秋田の夫婦と私の5名だけである。運転手は吉田正春 さん、ガイドは石見なつみさんである。乗客は少ないのだが、ガイドは手抜き せずに案内してくれたベテランであった。

ガイドの案内によれば、佐渡島の周囲は277km、面積は855平方km、人口は7万人。 最近の市町村合併により全島が佐渡市となる。両津から真野付近に広がる 国中平野の水田は4,000ヘクタールあり、米はコシヒカリを産している。 柿と米は主な農産物である。旅館で毎日、柿を出してくれるわけがわかった。

観光バスは国中平野と相川バスセンターを経て北西部に位置する尖閣湾 へと向かった。以下では特に印象に残ったところのみを紹介する。

尖閣湾
尖閣湾は何万年もの間、波浪に侵食されてできた断崖である。 この付近の海には、海女はいない。なぜなら海水の透明度が 高く、潜らなくても水面から箱めがねを覗いて海底の海産物を捕獲 できるという。

尖閣湾1
尖閣湾の風景1、2

尖閣湾1
尖閣湾の風景3、4

観光バス
(左)観光バスの運転手とガイド、(右)尖閣湾の観光船

佐渡金山
1601年開山、産出された金銀は徳川幕府の基礎を築いたといわれる。 坑道の総延長は約400kmである。相川の方向から見ると山頂が二つに割れた 形になっているのは道遊の割戸(どうゆうのわれと)と呼ばれ、徳川時代初期 の露天掘りの名残りだという。反対側に行ってみると「たぬき穴」と呼ばれる 人間ひとりが入れるほどの丸い穴が開いている。これは鉱石を掘った穴で ある。

金山が栄えたころ、相川だけで人口は10万人ほどもあったそうである。

1868(明治元)年に工部省に所属、1896(明治29)年に三菱合資会社 (後の三菱鉱業、三菱マテリアル)に払い下げとなり、1973年には 佐渡金山株式会社として操業、1989年3月には鉱石の枯渇により採掘を 中止、となっている。388年間に採掘した金の量は78トンという。

坑道の280mが見学コースとなっており、所々に実物大のコンピュータ・ ロボットたちがいて、当時の作業のありさまを見せている。

たぬき穴
(左)西方から見た道遊の割戸(どうゆうのわれと)、 (中央)反対側から見た道遊の割戸、(右)たぬき穴と呼ばれる採掘穴

金山
金鉱山内部で働く労働者(復元された動く模型)

佐渡文弥人形芝居(シルバービレッジ佐渡)
文弥人形の常設舞台がある。哀愁をおびた節まわしに、また、時には 勇ましいバチさばきに合わせて激しく動きまわる文弥人形は、佐渡の人情と 風土に合って受けつがれ、佐渡の庶民の娯楽として親しまれてきた。江戸時代に は盛んに行われていたという。1977年5月に国の重要無形民俗文化財に指定され ている。

この常設館には浄瑠璃台本として、義経千本桜、信州川中島合戦、 仮名手本忠臣蔵など50の名が貼り出してあった。

この日の交栄座の演題は「山椒太夫 母子対面の場」である。二人で3体の 人形を動かして演じる。

九州の大宰府に流された父をたずねて旅に出た 安寿(あんじゅ)と厨子王(ずしおう)の姉弟は、越後の直江で人買いに だまされ、母たちの舟とは別の舟に乗せられ、丹後の山椒太夫に売られた。 母は佐渡の鹿野浦(かのうら)というところに売られた。
のちに安寿は佐渡の母に会いに来た。盲人になって、「安寿こいしや、 厨子王こいしや」と歌いながら鳥追いをしていた母は、いつも村の悪童ども にからかわれていたので、本物の安寿が会いに来たのに、いたずらだと 思い、またからかうのかと杖で打ちかかり、弱っていた安寿姫を 殺してしまった。


交栄座
交栄座の芝居上演にあたっての挨拶

母子対面の場1
母子対面の場1

母子対面の場2
母子対面の場2

母子対面の場3
母子対面の場3

母子対面の場4
母子対面の場4

真野御陵
案内板によれば、承久の乱(1221年)で佐渡に流された順徳天皇は、在島22年の1241年 46歳で崩御される。真野山で火葬にされ、遺骨は都に帰り、父・鳥羽帝の 墓所の傍らに埋葬された。佐渡の真野御陵は「御火葬塚」となるが御陵と 同格の取り扱いをされ宮内庁で管理されている。

真野御陵
真野御陵(順徳上皇が火葬された跡)

御陵への入り口の駐車場脇の売店には佐渡の特産品の赤球石が販売されて いる。戸外には大きなケイ化木があるので、値段を訊くと1,500万円だという。 ケイ化木とは、大木が地中に埋もれ、長い間、シリカ(二酸化ケイ素、 SiO2)等の成分がしみ込んで石のように硬くなった、木の化石 のことである。赤みがあるのは鉄分のせいだという。

赤球石
(左)1,500万円のケイ化木、(右)売店に並ぶ赤球石

妙宣寺
順徳上皇に供奉した遠藤為盛とその妻千日尼開基と伝えられ、佐渡に流されて きた日蓮に仕えたという。寺には日蓮聖人の書状が残っている。

妙宣寺
(左)妙宣寺本堂(1863年再建、江戸期の建築の様式を残して いる)、(中央)庫裡(1862年再建、用材はすべてアカマツ、破風造りの かやぶき大屋根は全国にも珍しい)、(右)庫裡の大黒柱 (76cm×52cm)、


ときの森公園
トキ(朱鷺)は東北地方で古くから親しまれてきた鳥であったが、乱獲されて 大正時代には絶滅したとされた。しかし昭和の初め、佐渡に生息が確認され 世界の珍鳥として保護の気運も高まったのだが、戦争で中断する。1960年には 国際保護鳥に指定されて繁殖の努力が続けられた。

ガイドに案内されて、ときの森公園のトキ資料展示室に入る。
トキの白色の羽毛を広げると、淡いピンクを帯びた色が現れる。それゆえ、 空を飛ぶトキの姿は美しく「トキ色」と呼ばれる。 繁殖期には頭から背中にかけて灰色になる、と説明を受けた。

いま鳥インフルエンザの流行が心配されており、トキに近づくことが できず、この展示室から遠くの金網の中のトキを観察した。 観察用の望遠鏡が数個用意されていた。

トキ1
飼育中のトキ(望遠)


トキ2
(左)日本産最後のトキ「キン」のはく製、(右)ときの森 公園入り口


キン(雌)は日本産最後のトキで、1967年生まれで同年餌付けが 始まり、1968年に保護捕獲され、新潟県トキ保護センターで35年間飼育 されたが2003年死亡。

佐渡能楽の里
ガイドによれば、佐渡には32もの能舞台があるという。
本間家の能舞台の真向かいに佐渡能楽の里がある。能舞台をいつでも見せる ために、コンピュータ・コントロールによる等身大のハイテクロボット18体 で、「道成寺」の12分間の短縮版が上演される。

「道成寺」の概要は次のとおりである。
昔あるところに庄司という男の家に、熊野詣にやって くる僧侶が宿泊していた。庄司には娘がおり、冗談にも毎年やってくる 僧侶が結婚の相手だと話してあった。その冗談を本気にした娘に結婚を迫ら れた僧侶は道成寺に逃げて、鐘を下ろしてその中へ隠れた。蛇に姿を変えた 娘が道成寺の鐘を取り巻くと鐘は溶けてしまい僧侶は消えてしまった。 寺の僧が祈り鐘を上げると中から蛇が現れた。

謡は宝正流・本間英孝氏とある。能舞台は本物で広さは3間四方(5.4m 平方)、正面奥の鏡板には老松が描かれている。平日で観客は 少なく、”一等席はここですよ”と教えられ、”カメラ撮影もどうぞ なさってください”と案内されて一等席に座った。

能1
道成寺場面1,2


能2
道成寺場面3,4


能楽館の二階にある能楽資料館には「羽衣」(羽衣を返すかわりに、漁夫は舞を所望 した。三保の松原で羽衣を得た天女が祝福の舞をして、華麗に昇天していく 物語)の装束や、古い能面などが展示されている。

能3
(左)能楽館玄関、(右)能楽資料館に展示中の「羽衣」の能装束


本間家能舞台のある屋敷
本間家能舞台のある屋敷(入り口脇の白色柱には 「賜展覧 能舞台跡」と書かれている


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