47. 富山と庄川流域の観測所

近藤 純正

岐阜県北西部から富山県西部を流れ日本海へ注ぐ庄川流域のアメダスなど 気象観測所、および富山地方気象台の周辺環境を2005年8月22日~24日に かけて視察した。
(2005年9月16日完成)

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  	  もくじ
		(1)富山地方気象台
		(2)伏木測候所(伏木特別地域気象観測所)
		(3)砺波の観測所
		(4)福野の観測所
		(5)南砺高宮アメダス(元の福光)
		(6)白川アメダス(岐阜県)
(1)富山地方気象台
JR富山駅の西方を南北に流れる神通川に架かる新しい富山北大橋を渡ると 道路の北側に富山地方気象台があった。神通川堤防のすぐ近くである。 今回の富山地方気象台訪問の目的は、古い区内観測所の気象資料の書き写し 作業のほか、最近20年間の富山の気温上昇が伏木など他地点に比べて急激 である原因を探ることにあった。

測風塔に案内されて見渡すと、周囲は住宅地である。防災指導係長・村井 雅浩さんによると、20年ほど前には周辺には田んぼもあったが、最近は アパートなどが立ち並んできたという。

富山気象台遠景
富山北大橋から眺めた気象台の遠景(白色建物の左側)

現在の新庁舎は旧庁舎の敷地内に1986年1月28日に完成した。観測露場は 新道ができたため少し北寄りに移動したが、露場のすぐ南側は新道・富山北 大橋が通っている。新庁舎・露場での観測開始は1986年1月30日からである。 この現況から、富山の最近の20年間における気温の上昇傾向が他地点に 比べて急激であることが納得できた。

すなわち、最近の20年間、(1)周辺の田んぼが少なくなり住宅が多く 建てられ、さらに広い舗装道路ができたこと、(2)北大橋ができて露場の 風速が弱くなり陽だまり効果が現れるようになったこと、によって富山の 平均気温が上昇したと考えられる。

富山気象台周辺
富山地方気象台の測風塔から眺めた周辺環境。左から北、東、南、 西の方向

富山気象台露場
測風塔から見下ろした富山地方気象台の観測露場、右方は富山北大橋

昭和61年富山気象台
新庁舎完成直後の富山地方気象台(1986年5月17日撮影) 富山地方気象台提供

1986年5月17日に撮影された写真を見せてもらうと、新庁舎と露場の北側に 田んぼが見える。

(2)伏木測候所(伏木特別地域気象観測所)
伏木測候所では1975年ころから平均風速が弱くなり1981年の年平均風速は 1973年に比べて83%に減少している。この原因を知ることが伏木訪問の 目的であった。

JR伏木駅に着くと、北西方向の小高い丘に旧測候所の測風塔が見えた。 坂道を登っていくと突き当たりは大きな勝興寺である。その坂の途中の 左手に旧庁舎と測風塔と露場があった。現在この測候所は無人のアメダス となっている。

伏木燈明台
(左)気象観測が最初に開始された当時の伏木燈明台(1883年の頃)、 (右)移転後の伏木測候所(1901年撮影) 富山地方気象台提供

伏木測候所
(左)伏木測候所の北東側道路から駅方向を見た写真、右端は測風塔、 (右)伏木測候所

旧測候所前の道路で高齢の女性に聞いたところ、周辺の 住宅は主に平屋建てであったが、この約30年来2階建ての大きな家が多く なった。測候所と勝興寺の間にある寺も大きくなったという。

伏木駅から見た測候所
(左)JR伏木駅から見た測候所、(右)勝興寺前から見た測候所 (赤矢印は測候所の位置を示す)

(3)砺波の観測所

砺波気象通報所跡
現在の砺波(となみ)市五郎丸288の富山県農業技術センター野菜花き試験場 にアメダスがある。その前身は1957年から砺波鷹栖にあった砺波気象通報所で 気温観測が行なわれていた。その後、観測所は1977年10月に大辻191の砺波 消防署に移転し、さらに1998年7月3日に現在のアメダスに移転している。

以下では、気象通報所跡、消防署、現アメダスの順に見ていこう。

富山地方気象台の記録によれば、砺波気象通報所の住所は砺波上町5番3号 となっていたので、その番地を訪ねたところ、現在の砺波労働基準監督署が あった。 同署の荒井美鳥さんに調べていただいたところ、気象通報所跡は労働基準 監督署の近くだが、住所は鷹栖である。

後日、荒井美鳥さんから古い住宅地図や聞き取り調査の結果を送って いただいた。

砺波市商工住宅便覧地図(砺波市商工会、1961年版)と、砺波市住宅地図 (北陸刊広社、1971年版)によると、 地図上には県立砺波工業高等学校の敷地に隣接して気象通報所がある。 通報所は北東の角地にあり、道路をはさんで東側に溝宅、北側には西谷宅など が並んでいる(次の図の左、緑四角で囲む住宅)。最新の同住宅地図(北陸 刊行社、2004年版)でも溝宅、西谷宅の位置は変わっていない。 しかし、通報所とその南隣にあった林宅は、現在砺波工業高校の敷地であり 高校の建物が建っている。

通報所敷地
(左)砺波気象通報所付近の1971年住宅地図 (北陸刊広社の住宅地図に基づく)
(右)砺波気象通報所敷地見取り図 (荒井美鳥さんの聞き取り調査によるスケッチ)

荒井さんは、西谷きくさん(86歳)にお会いになり、聞き取り調査をされた。 西谷さんは当地で60年以上お住みで、お宅には通報所職員が下宿もしており、 歴代3代にわたる所長のご夫人全員とも親交があり、次のことが判明した。

(1)通報所・観測露場の周囲は、小柴のような植込みで囲まれていた。
(2)高校グラウンドは水はけが悪く、その排水のため、学校と通報所の あったブロックの周囲には幅1mほどの排水路(現在は暗渠となり蓋をして ある)があった。
(3)百葉箱は敷地の南側にあった。
(4)通報所庁舎と最初の官舎は、国道沿いにあり、後に、高校寄りの官舎 は庁舎の南側に移転し、官舎は2棟に増えた(上の図右、及び次の写真左 を参照)。
(5)敷地のほぼ中央には戦前からのポプラの大木があり、当初の庁舎と官舎 は、それをよけて建てられていた。正確な年代は不明であるが、2代目の 用務員さんの時にポプラの大木は伐採された。

西谷宅からの通報所
(左)西谷宅から撮影した砺波通報所敷地、右手奥が通報所官舎、 左手2階建ては溝宅(1960年頃の撮影) (西谷きくさん提供)、
(右)同位置から撮影した2005年9月1日現在の写真、 右手は砺波工業高校校舎の北東角、左手2階建ては溝宅 (荒井美鳥さん撮影)

2005年9月1日に撮影していただいた現在の写真と、1960年頃の写真を比べ ると、写真の左端に写っている溝宅は2階建てである。松の木もあるが、位置 が多少違っているので、移植したのか、あるいは同じ松ではないようにも 見える。

1960年当時の通報所官舎のうち玄関の写っている写真から判断すると、 切妻側の寸法は2~2.5間(3.6~4.5m)程度であり、2棟の間隔は 半間ほどである。このスケールからすれば、百葉箱と官舎との距離は 10m程度と推定できる。さらに敷地は植え込みで囲まれており、風通りがわ るい。そのため、「陽だまり効果」によって年平均気温が0.6℃ 高めに観測されたと考えられる。この陽だまり効果0.6℃については 「研究の指針」の 「K11. 温暖化は進んでいるか(2)」の図11.15(下)を参照のこと。

砺波工業高校
西谷宅から撮影した現在の砺波工業高校。
(左)高校の東側、角地は気象通報所跡。暗渠になった排水路があり、 道路左側の写真外に溝宅がある。
(右)南西方向を見た高校校舎と道路(道路手前方向は至砺波の市街中心部)。

砺波消防署

砺波消防署
砺波消防署とその周辺

砺波消防署は、周辺には田んぼが多く比較的開けた場所にあった。

砺波アメダス
消防署から移転した現在のアメダスに行ってみると、野菜花き試験場の庁舎 から離れた広い田んぼの中に観測機器は設置されていた。ビニールハウスとの 距離は十分にある。

砺波アメダス
砺波アメダス(写真中央のビニールハウスから左寄りの位置)

(4)福野の観測所
富山県福野町苗島443(現・砺波市苗島443)には明治時代に創立した農学校 があり、現在は福野高校となっている。 ここでは1902(明示35)年5月1日から観測が開始され、1969(昭和44) 年5月1日に観測廃止となっている。中央気象台(現気象庁)の資料によれば、 気温観測地点は、1902~1906年の期間には「東山見」、1907年以降には 「福野」となっているので、当初の農学校では降水量のみ観測が行なわれ、 気温観測は1907年から開始されたと思われる。

福野高校受付けで私が訪問したわけを話すと、豊田久正先生が出てこられ、 やがて竹下宏子先生も出てこられ、昔の状況を知ることができた。

竹下先生は、実際に気象観測をされていたそうで、観測資料はカードの形で 学校に保存されているという。百葉箱が設置されていた露場は、本館の玄関 正面から見て右方、現在つつじが植えられているところである。旧本館は 現在の本館よりやや前方に建てられていて、前庭と露場の間には農業用水路が ある。

竹下先生によれば、当時の状況は次の通りである。
(1)百葉箱周辺の露場は芝生で覆われ、小さな植木と松はあったが、 風通しはよい状態にあった。観測所廃止後の1973(昭和49)年に庭の改装が 行われた。
(2)農業用水路は現在と同じで、幅も変わっていない。
(3)旧本館と用水路の間には現在より狭い庭があった(あとで示す図 を参照)。
(4)竹下宏子先生(昭和21年生れ)が着任したころ、1965~1968年当時は 日直として観測をしていた。平日は事務職員が観測していた。ただし戦前 (1945年以前)は、生徒が各クラスから当番を決めて観測をしていた という。

福野高校前庭
福野高等学校玄関から見た前庭、合成写真のためやや歪んでいる (写真のやや右寄りのつつじの植栽の中、赤矢印の下に露場があり百葉箱 があった)

福野高校と用水路
(左)用水路(用水路の左手方に百葉箱があった)、(右)福野高等 学校の現在の本館、手前の左手(写真の範囲外)の方向に百葉箱があった

旧本館は明治時代に建てられたもので、現在の新本館から見て左方の敷地へ 移設され国指定重要文化財として保存されている。豊田先生に案内されて 見に行くと、とても素晴らしい建物であった。現在、「巌浄閣」と名づけ られている。

旧校舎
福野高校の旧校舎本館(現在は国指定重要文化財「巌浄閣」)

当時は、この本館を中央にして、さらに左右に校舎がつながり、左右の端で 後方(北向き、手前の反対側)へ折れ、中庭を囲む構造になっていたという。

後日、竹下宏子先生から昔の写真と校舎の図面などの資料を送っていただいた。 この資料はあとで述べるように、「陽だまり効果」(露場の風速が弱くなる ことによって、年平均気温が高めに観測される効果)の限界条件を決める うえで重要なものなる。

次に掲げる1950年の写真によると、百葉箱は正門から入り玄関に向かって 左手にある。 次の2枚目の写真を見ると、本館中央は2階建て、その左右には平屋建ての 校舎がほぼ対称的に造られている。

百葉箱写真
福野高校の旧校舎本館と百葉箱(1950年頃) (福野高校提供)

昭和25年写真
福野高校の旧校舎前景(1950年撮影) (福野高校提供)

校舎前庭には植栽がある。次の航空写真を見ると、正門を挟んで左右に 背の低い生垣がある。さらに左側(西側)には温室などがある。 これらが露場の風速を弱め、その結果として、僅かではあるが0.3℃の 「陽だまり効果」を生じることになる。

福野高校航空写真
福野高校の航空写真(1962年撮影、赤矢印の上に百葉箱がある) (福野高校提供)

以下に1913年、1940年、1965年の福野高校の平面図を示す。
福野高校(元の農学校)の写真集「福野高校の百年1894~1994年」に 掲載された資料、写真、図面等によると、気象観測が開始されたころ、 百葉箱はどこに設置されていたかは定かではない。

1965年当時に百葉箱が設置されていた本館前庭の空間は、1913年には 果樹園であり、1940年には花卉園(かきえん)と記されている。果樹園の写真 には樹高1.5~2mの果樹があり、花卉園には背丈0.3~1mの 低木が見える。したがって果樹園の時代には、そこに百葉箱はなく他所に あったのかもしれない。建築家・吉田鉄郎によって描かれた学校全景の 1913年のスケッチ画によれば、百葉箱らしきものが正門を入って右手の 用水路のすぐ南側に、また中庭の中央から北西側の寄宿舎の南側付近に 見える。これら2箇所のうちの1つが百葉箱ではあるまいか。

図面大正2年
福野高校の平面図、1913(大正2)年 (福野高校提供)

図面昭和15年
福野高校の平面図、1940(昭和15)年 (福野高校提供)

図面昭和40年
福野高校の平面図、1965(昭和40)年 (福野高校提供)

1913年、1940年の図面では校舎・前庭の南側に広がる敷地の大部分は水田で ある。 1952年、1974年の図面では水田の一部は蔬菜園や普通作物園に変わっている。

百葉箱の設置場所がはっきりしている1965年の図面から判断すると、 百葉箱と本館の距離は約25m、正門から本館玄関への通路から百葉箱まで は15~20mである。

百葉箱は本館から約25m離れているが、前述したように、 校舎と百葉箱の間の植栽、及び正門を挟んで左右にのびる低木の生垣 (百葉箱の南側)、さらに温室などがある。 これらが露場の風速を弱め、僅かではあるが0.3℃の「陽だまり効果」を 生じたと考えられる。 0.3℃の詳細については、「研究の指針」の 「K11. 温暖化は進んでいるか(2)」の表11.1、及び11.4章(7) 「伏木と砺波アメダス」の項を参照のこと。

もしも植栽、生垣、温室などがなく、露場が芝生のみで覆われていたとすれば、 陽だまり効果は、1~2階建ての建物から25m程度離れ ていれば生じないのではなかろうか。

(5)南砺高宮アメダス(元の福光)
砺波の気象通報所露場がやや立てこんだ場所にあったと想像でき、「陽だまり 効果」の影響で年平均気温が高めに観測されていた可能性がある。 そこで、視察の途中で富山地方気象台防災業務課長・山田年秋さんに電話して 福光アメダスの観測開始年などを調べていただき、福光(ふくみつ)も 訪ねることにした。

福光では1970~1975年と、1979年以後の気温データがあり、1976~1978年の 3ヵ年間は観測されていない。 アメダスが設置されている福光の高宮は最近の市町村合併により、南砺市と なり名称は南砺波高宮アメダスとなった。

南砺高宮アメダス(元の福光)への道順を聞くために南砺(なんと)市役所 福光庁舎(元の福光役場)を訪ね、市民課副主幹・梅原学さんから地図の コピーを作ってもらったので、簡単にアメダスを見つけることができた。

南砺高宮アメダス1
南砺高宮アメダス1

南砺高宮アメダス2
南砺高宮アメダス2(写真1の反対方向から)

南砺高宮アメダスは現・砺波アメダスと同様に周辺は田んぼに囲まれた場所 にあった。

この日(8月23日)は富山県内の観測所、旧・現含めて6箇所をまわり、 五箇山相倉集落に宿泊することとした。翌日は相倉集落から 荘川上流の岐阜県白川郷へ向かった。五箇山・白川郷の合掌造りは世界遺産 となっている。

(6)白川アメダス(岐阜県)
白川アメダスは岐阜県白川村の白川中学校に1978年に設置されている。 現地に行ってみると、中学校の片隅にアメダスがあり、それに接して防災科学 技術研究所の強震計と岐阜県の震度計がある。わずか離れて南側に車庫、 西側に中学校スキー部の小屋があり、周辺地域の数km範囲を代表すべき 気象観測所としては不適当だと思った。

強震計とアメダスのどちらが先に設置されたのか、アメダスの設置当時の 経緯について知りたくなり、白川村役場を訪ねた。いろいろ調べていただ いたが、当時の状況についてはわからなかった。

強震計や震度計のコンテナは意外に大きく、気温観測には邪魔となる。 アメダスが強震計の設置後に設置された、あるいは逆の順序であったとしても、 こうした際には、両者ともに十分な注意をはらうべきであった。

後日の確認によれば、次の順序であることがわかった。
1974年・・・・・・・・・白川中学校竣工*
1978年6月・・・・・・南側にある建物(焼却炉兼車庫)の建設*
1978年11月・・・・・アメダスの設置(岐阜地方気象台熊田さんによる)
1992年10月・・・・・西側にあるスキー部小屋の建築*
1996年3月頃・・・・・強震計の設置(防災科学技術研究所藤原広行さんによる)
2001年3月・・・・・・・震度計の設置(岐阜県危機管理室坪内功資さんによる)

*印) 白川中学校に関することは白川村産業課吉實秀典さんに調べていただいた。

白川アメダス4
白川アメダス(赤矢印)

白川アメダス1
畑の方向から見た白川アメダス

白川アメダス2
校舎側から見た白川アメダス

白川中学校の隣地には村の体育館と遊園地・ゲートボール場がある。 これらはすべて同じ公共の敷地内にある。アメダスをこの公共敷地内で 移転するならば、遊園地・ゲートボール場内で、中学校運動場寄り、村の 体育館駐車場寄りの場所が最適だと思った。その場所は次の写真の中央 付近、緑色に見える小さな屋根(ゲートボール場の 休憩所)の近くであろう。

白川アメダス3
運動場から見た村の体育館(右)と白川中学校校舎(左)、 中央は遊園地とゲートボール場

筆者は、各地の気象観測所(気象台やアメダスなど)を見てまわり、適当な 周辺環境の状態にあるかどうかを調べているのだが、全国1000余箇所の 観測所のうち、理想に近い観測所は数%程度しかないように思う。

いずれの観測所も当初は、ごく近傍の周辺環境が観測に影響しないという 判断のもとに設置されたであろうが、その判断基準は筆者のそれよりも あまいと思う。さらに、観測所の設置後、例えば近くの樹木の背丈が 伸びて風速観測に支障が出る状態になっても伐採せず放置されること もある。

多くのアメダスは国有地でない場所に設置されている。観測機設置の場所を 決める際、気象庁・地方気象台は「置かせてもらうのだから・・・」という ことで最適場所の希望を遠慮しているのではあるまいか?

いま、環境問題について住民の理解はすすんでいる。遠慮することは住民 のみならず、人類のためにならない。気象観測は防災と地球環境・気候変動 の実態把握、そして予報・予測を目的として国費を使って行う事業である。 いいかげんなデータを採るようでは国費の無駄遣いになる。

明治時代の岩手県水沢に緯度観測所(現在名称は変更されている)ができた。 不確かな記憶ではあるが、緯度観測所設置の当時、鉄道が近くを通ると 精密観測に支障が出るということで、鉄道は離れて設置されたという。 そして住民は”おらが村の緯度観測所”を誇りにしてきた。

たいてのアメダスには看板があり気象観測のことが説明されている。これに 次のことを追記しておくように提案したい。

(例)・・・このアメダス観測所周辺地20m以内 の現状を変更する際には設置者(気象庁・地方気象台)に相談してください。

近い将来、筆者はアメダスなど気象観測所の設置・移転の際に参考となる 指針案を作成したいと考えている。

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